2007年10月21日

モーツァルト伝説をすこし剥ぐ

 モーツァルトのオペラを聴いていると、いままでこの人にまとわりついていた様々なことが、たんなる伝説にすぎないんじゃないかとおもえてきました。なんていうか、分厚い伝説の虚飾の向こうからモーツァルトという存在が、人間として見えてきた気がしたわけです。
 しかし、なんで人は人を伝説にしたがるんでしょうか。あきらかに偶発的にそうなったというのではなく、意図的なものをかんじます。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチなんて人をみると、ぼくは暗澹たる気持ちになります。あの時代におきた様々なことがぜんぶ彼に結びつけられて、意図的に化物のような存在に仕立てあげられてしまっているのを感じずにはいられません。が、話がそれるのでその話はやめておきましょう。
 伝説がほんとうのことを隠してしまうのは当然のことで、伝説がまとわりつきすぎると、その人がどういう人なのかということがわからなくなります。モーツァルトの場合も典型的にそうなんじゃないでしょうか。少なくともぼくにとってはそうでした。
 そこでここではモーツァルトにまとわりついた伝説を、ぼくが気づいたものだけ、少しだけ剥いでみます。

 まずモーツァルトにまとわりついた伝説をひとつあげるなら、彼が「早熟の天才」という伝説があるとおもいます。
 はたして、モーツァルトって早熟の天才なんでしょうか? なんだかモーツァルトというと、きわめて若くして交響曲を作曲したりして、超人的な能力をもった天才児みたいなイメージで語られているのをよくみかけたんですが、調べてみるとそうでもないような気がしてきました。
 というのは、モーツァルトの作品で現在もよく演奏されるものを見てみると、どれも年がいってから作曲したものが多いのです。といってもモーツァルトは36歳くらいで亡くなってますから、それでも若いといえば若いのですが、早熟の天才といった場合は普通はもっと若い時期にピークを迎えた人のことを指すんじゃないでしょうか。
 例えばポピュラー音楽の分野でモーツァルトと同じくきわめて若くして世に出た人といえば、たとえばスティーヴィー・ワンダーがいますが、スティーヴィー・ワンダーのピークがいつの時期かと問われればたぶん20代の前半、つまり『Music of My Mind』から『Key of Life』に至る5作品あたりを作っていた時期をあげるのが普通でしょう。早熟の天才というとよく引き合いにだされるランボーやラディゲの場合20歳前後がピークとなります。(もっともラディゲは夭折したので生きてたらどうなっていたかはわかりませんが)
 しかしモーツァルトの場合、代表作といわれるものは30歳以後に書かれたものが大部分じゃないでしょうか。たしかにモーツァルトも15,6歳頃には交響曲など書いてますが、それはほとんど演奏される機会のない、モーツァルトのなかでは人気のない曲です。
 それでもモーツァルトがきわめて若い時期から作曲をしていたという事実はありますが、それは彼の早熟性が理由というよりも、父親の英才教育の成果によって、若くしてあるレベル以上の技量まで習熟したためといえそうな気もします。つまり、モーツァルトほどの天才でなくたって、父親が子供に徹底的に英才教育をすれば、十代で交響曲を作曲するくらいにまではいくと思うのです。その後大成するかどうかは別の話ですが。
 よくいるでしょう。子供の頃は天才・神童と騒がれて、大人になったらただの人になるケースが。
 そうなるとモーツァルトを「早熟の」天才とするのは間違いで、別にそんなに早熟というわけではなかったんだという気がします。過剰に「若くして交響曲を書いた」とか早熟ぶりを煽るのは、やはり意図的に伝説化してるんじゃないでしょうか。

 それから、どうもモーツァルトについてけっこうヘンな伝説を広げているようにかんじるのが、例の『アマデウス』という映画(もとは劇)です。
 というのは、この映画がわるいとも単純にはいえなのですが、どうもこの映画は事実を誤解させる効果があるような気がするのです。
 いったい、あの映画を観たことがある人は、あの映画がどんな話だったかおぼえているでしょうか。才能のない二流の音楽家のサリエリが、天才で大音楽家のモーツァルトに嫉妬して殺す話だと思い込んでいる人はいないでしょうか?
 どうも、あの映画を観た人は、そう思い込んでいる人が多いようなのです。
 でも、これはとうぜん、天才の評価高い大音楽家のサリエリが、二流音楽家のモーツァルトに嫉妬して殺害する話なわけです。
 モーツァルトが二流なわけないじゃないかという人がいるかもしれませんが、当時の評価はそうだったわけです。当時の評価と後世の評価がまったく違うというのは芸術の世界ではよくあることでしょう。
 となると、ではどうして大音楽家のサリエリが二流のモーツァルトの才能に嫉妬するのか、動機が問題になるわけですが、あの映画をきちんと観るとその動機、殺意を抱くにいたるサリエリの心理も描かれているのがわかります。
 とはいえ、個人的にはそれでもやはりあの映画のモーツァルトとサリエリの関係は誤解されても仕方のないところがあると思います。というのは、どう動機を説明したところで、もともと大音楽家のサリエリが二流のモーツァルトの才能に嫉妬して殺すという設定に根本的に無理があるわけです。これが逆にモーツァルトがサリエリに嫉妬して殺意を抱く話ならいくらでも作れるわけですが、常識的に考えてサリエリにモーツァルトを殺す動機なんてあるわけないんです。
 その無理を通すためにあの映画はサリエリの心理を細かく描きこんでいますが、観てからしばらくたつとそんな細部は忘れてしまうもんで、さらにモーツァルトは天才でサリエリは忘れられた作曲家だという思い込みがあるものだから、二流のサリエリが天才モーツァルトに嫉妬したんだと間違えて記憶してしまうんだとおもうわけです。

 それに、あの映画に出てくるモーツァルトのハチャメチャな性格がありまして、これもモーツァルトはああいう人なのかというと、間違いともいえないのですが、そうともいいきれない面があるようです。
 というのは、どうもあれはモーツァルトが自ら道化役を演じていたからだという面がありそうです。
 モーツァルトが活躍していた時代には音楽家の評価はパトロンとの関係で決まるところがありました。といっても、もちろん大音楽家であればパトロンからの尊敬も得られるわけで、たとえばサリエリのような大音楽家なら椅子にふんぞりかえっていても充分な尊敬と評価を受けていたでしょう。
 しかし困るのは二流でありながら、なんとかこの道で生きていかなきゃならない人たちです。では黙っていたのでは才能・実力を評価してもらえない二流音楽家がパトロンにとりいるにはどうしたらいいかというと、自分から道化役を演じて、笑いをとってパトロンにとりいるのは手っとり早い方法なわけです。
 例えば二十世紀の例でいえば、初期のジャズマン、ルイ・アームストロングとか彼の世代のジャズマンにはかなり大道芸人的な資質をもった人が多いです。というのは、彼の世代においてはいくら天才的な才能と実力をもっていたとしても、黒人ミュージシャンが椅子にふんぞり返っていて白人の聴衆から支持されるような時代ではなかったわけで、そんな時代に音楽で食っていこうとおもったら、そういった芸人根性も必要だったわけです。
 そして、ルイ・アームストロングの同時代にも、たんにルイ・アームストロングらの演奏を下手くそにコピーしたような演奏しかできなかった白人ジャズマンはいまして、しかし彼らは椅子にふんぞり返っていても天才として評価されていたわけです。白人だからです。しかし時代が過ぎると、そうしたかつて天才として評価されていた白人ジャズマンは忘れられて誰も見向きもしなくなり、芸人根性を発揮しなければ音楽を聴いてもらえなかったルイ・アームストロングが天才として聴きつがれていくわけです。
 そういうもんでしょう。
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2007年10月13日

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を見ておもったこと

 去年、このブログを書き始めた頃、ちょうど久々にクラシックを、それも初めてオペラというものを聴きはじめた頃だったのですが、しばらく聴いているうちにだんだん飽きてきてまた以前のとおりジャズ=フュージョンばかり聴くようになり、数カ月前から一回りしてまたオペラを聴きはじめました。

 今度はモーツァルトを聴きこんでみまして、いろいろとおもしろいことがわかり、モーツァルトというのはオペラを聴かないとわからないものだと実感しました。それも、できれば2、3種類以上の演奏を試聴したほうが良さそうです。というのも、一つだけだと、その演奏者・演出家の解釈のほうが見えてしまうことも多いようで、複数試聴することによってそれぞれの演奏の向こうに作者モーツァルトの意図が見えてくる気がするのです。
 思えばモーツァルトという人は伝説が多すぎてよくわからない人でした。例の早熟の天才説も、超人的な能力を宣伝するばかりでどんな人だったのかはわかりません。いっぽう映画の『アマデウス』あたりから出てきたとおもわれる、ハチャメチャな人のイメージもあって、これもこれでなんだかわかりません。(でも、よくみてみると、モーツァルトを早熟の天才とする説にも、あの『アマデウス』のイメージにも、かなり疑問があることがわかってきました。これは後日説明します)
 一方、モーツァルトという人の姿が見えてきたとおもったのは、先述したとおり彼のオペラです。とくに『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』のダ・ポンテと組んだ3作は、台本のほうもモーツァルトがかなり口を出していて、事実上共同制作だったようで、この3作を何種類かの演奏でみることでモーツァルトという人の姿が見えてきた気がしました。
 とくにぼくがモーツァルトという人の姿が見えてきたとおもったのは、最近、『ドン・ジョヴァンニ』を、例の有名なフルトヴェングラーが指揮したオペラ映画をみたときです。ぼくは『ドン・ジョヴァンニ』を最初、NHKのBS-2でやっていたハーディング指揮の舞台の映像で見たのですが、そのときはいまいちピンとこなかったのですが、今回みてみて『フィガロの結婚』から『コジ・ファン・トゥッテ』までつながった一本の線がみえてきた気がしました。といってもフルトヴェングラーのオペラ映画の演出のほうがモーツァルトの本来の意図にそったものだといいたいわけでもないのですが、複数の演出でみてみることによって、その奥の作者モーツァルトの意図がみえてきた気がしたのです。
 おもうに、モーツァルトという人はかなりアクの強い人物で、すごく大人だとおもいます。たとえばずっと長生きしたベートーヴェンと比べると、ベートーヴェンはモーツァルトよりずっと子供っぽい、より正確にいえば青年的な人という気がします。ベートーヴェンが「男とは、女とは、愛とはこうあるべき」などと青臭い理想を主張しそうなのに対して、モーツァルトは冷徹でリアリステックな視線で「人間とはこういうもの」と突き放して観察している気がします。どこか、うわついた理想などで曇らされていない絶望をとおりぬけたリアリズムをかんじるのです。

 どうして『ドン・ジョヴァンニ』を二種類の演出でみてそう感じたのかというと、どうも最初にみたハーディング指揮の舞台の演出は、主役のドン・ジョヴァンニという人を悪人というイメージで描こうとしていたように感じました。そして、そういう話だとおもってしまうとピンとこなかったのですが、フルトヴェングラーのオペラ映画でシエピの演技をみると、やはりカッコイイんですね。たぶんこっちのほうが本来の作者の意図で、やはりドン・ジョヴァンニはカッコよくて、さらにいえばコミカルじゃないといけないとおもったのです。
 そもそもモーツァルト自身はこのオペラを喜劇だといっているんですね。これを言葉どおりとらず、『ドン・ジョヴァンニ』は喜劇ではなく、モーツァルトのデーモニッシュな面が出た作品としている評論などをよく見るのですが、たしかにそういう面もあるものの、基本的にはやはりこれは喜劇だとおもうわけです。ドン・ジョヴァンニという公序良俗など笑い飛ばすようなカッコいいヒーローを主人公にしたコメディです。
 例えば主役のドン・ジョヴァンニに対してレポレロという従者が出てくるわけですが、これはドン・キホーテとサンチョ・パンサみたいなコンビなわけで、夢中に女を口説くジョヴァンニにレポレロがツッコミを入れていくという漫才みたいな会話も出てきます。
 全体としては、なんとなくアニメの『ルパン三世』に構図が似ているとおもいます。果てしなく追いかけてくるドンナ・エルヴィラはちょうど銭形警部のようなもんで、ここにもコメディの要素があります。ルパン三世がお宝を狙うのに対して、ドン・ジョヴァンニは女を狙うわけですが、さまざまな計略や手練手管でモノにしようとするところは同じです。つまり、ドン・ジョヴァンニはカネや権力・暴力で無理やり女を従わせる人ではなく、あくまで自分が行動して女を誘惑する人であり、いわゆる悪人のイメージとは違うとおもいます。
 ドン・ジョヴァンニを捕まえようと追ってきたマゼット率いる集団に、ジョヴァンニは逆に一緒にあいつを捕まえようと協力を申し出てしまって、集団を率いてテキト−に指揮してしまって煙にまくところなど、サスペンスというより、やはりギャグとしてみるべきでしょう。レポレロに身ぶり手ぶりだけさせて、セリフは自分が隠れてしゃべって、口パクで女を誘惑するところなんかも、典型的なギャグでしょう。

 それに対して、ドン・ジョヴァンニを悪人ぽくイメージさせるエピソードとしては、冒頭近くのドンナ・アンナとの一件、つまり強姦未遂から殺人といった行為を犯しているという点があるでしょう。
 でも、これも考えてみればはたして強姦未遂なのか、殺人なのかという点はあいまいです。ドンナ・アンナの件に関していえば、ジョヴァンニは無理やり犯そうとしたわけではなく、婚約者のドン・オッターヴィオに化けて誘惑しようと試み、それがバレたということで、その後の物語をみればドンナ・アンナはむしろオッターヴィオ以上にジョヴァンニに男性の魅力を感じるようになってしまいます。
 また、騎士長を殺した件に関していえば、これは騎士長のほうが先に剣を抜いたために、ジョヴァンニも騎士のプライドとしてこれに応じて決闘になり、結果ジョヴァンニが勝ってしまったために殺してしまったわけで、これを一般の意味で殺人としてみると、むしろ正当防衛の要素もみてとれないわけではないです。なにより、ジョヴァンニが犯した決定的な罪ともいえるこのシーンを、しかしモーツァルトはさほど劇的に盛り上げてなく、簡素な音楽しかつけていない点に作者の意図をみるべきでしょう。

 では、なぜぼくがジョヴァンニをコミカルなヒーローだとみるのかというと、その理由は、彼が公序良俗を超えた存在だからです。
 『フィガロの結婚』から『コジ・ファン・トゥッテ』までを視野にいれてみれば、モーツァルトのオペラにおいては、公序良俗、こうあるべきといったきれいごとや道徳、あるいは権威といったものは、つねに嘲笑される対象になってます。男女の関係はこうあるべき、愛とは清らかで美しいものであるべき……などと口先だけのきれいごとを並べていても、ほんとうは人間はこういうものだろ! と冷徹なリアリズムをつきつけ、世間の人々がいっているきれいごとを笑いとばしていくのがモーツァルトのやり方でしょう。
 だからこそ、世間の道徳・公序良俗といったものを超えて行動するドン・ジョヴァンニは、カッコいいヒーローでなければならないわけで、公序良俗に縛られた世間を笑いとばす者でなければならないわけです。

 そんなドン・ジョヴァンニがいきなり破滅するのがこのオペラのラスト・シーンなわけですが、しかしみているとドラマが彼の破滅へむけてなだれ込んでいくのではなく、このラストはまるでとってつけたように唐突な印象ががします。
 おもうのですが、このオペラのラストは当時の世間への妥協だったんじゃないでしょうか。このドン・ジョヴァンニのようなヒーロー像が当時の社会に受け入れられるとはおもえず、いちおう形だけ勧善懲悪の物語のラストのようにしたようにおもえるのです。
 なんていうか、このラストはどこかヘンなのです。
 最後の場面ではドンナ・アンナやオッターヴィオらが悪は滅んだと合唱するのですが、そもそも彼らは悪を滅ぼしたわけではなく、勝利なんてしていません。ジョヴァンニがいなくなったのは突然夕食の席に石像があらわれて地獄につれていってしまったからです。
 さてこの物語の後、彼らはどうするんでしょうか? ドンナ・アンナは秘かに魅かれいたジョヴァンニが滅んだ後、男性的魅力をかんじないオッターヴィオとしあわせに暮らせるでしょうか? ほんらい物語のセオリーからすれば、ドンナ・アンナとオッターヴィオが協力してジョヴァンニを倒し、その活躍ぶりからドンナ・アンナはオッターヴィオを見直し、抱き合ってエンディングというのがこういった物語のパターンで、そうすればいわゆる勧善懲悪の物語としてまとまるわけですが、そのパターンをわざと外してあります。
 ドンナ・エルヴィラはこれからは修道院に入って静かに暮らすといいますが、それくらいならジョヴァンニを追いかけまわしていたほうが楽しくてよかったんじゃないでしょうか。ルパン三世に死なれて途方にくれている銭形警部のようなかんじがします。

 実をいうと、この唐突なラストをみて、ぼくが真っ先に連想したのは1930年代末の日本映画です。『人情紙風船』とか『春秋一刀流』とかの名作です。
 これらの映画はコメディで、登場人物たちが権力者をあざ笑うかのような自由さで大活躍するのですが、ラスト近くになって急に追いつめられて状況に陥ってしまい、絶望的なエンディングを迎えます。それまでの自由な活躍ぶりからいって、唐突なまでに絶望的状況に陥ってしまうのが、異様な印象をあたえるのです。
 彼らが何でそんな映画を作ったのかといえば、当時の第二次世界大戦に突入しようとしていた日本の状況が影響していたとみるのは容易です。
 おそらく『ドン・ジョヴァンニ』がこんなラストになったのは、当時のモーツァルトの周囲に何かそういうラストを作らせるような状況があったんじゃないかとおもわれます。それが何だったのかはまだわかりませんが。
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2007年10月12日

(題詠100題2007観賞)012:赤



生きたいと望めど身体めぐる血が赤くなかった最後の三日        (遠山那由)


捨てられて椰子の根もとに埋められた赤ん坊そろそろ二十歳だろうか   (野樹かずみ)




 この題はいいとおもうものが少なかったのですが、いちおう2つ選んでおきました。
 遠山那由さんの作品は、11〜20番までの作品が連作となり、最近亡くなった友人のことを書いたものだそうで、そのうちの一つです。凝ったレトリックなどなにもなく事実をストレートに書いたものですが、事実に圧倒されました。実は連作の他の作品ではレトリックもあったり視点が工夫されていたりするのですが、そんなことを何もしないで正面から事実だけを記述したこの作品が一番いいとおもいました。こういう場合はみょうに文学的に凝ったりしないで、事実を刻みつけていくことがいいのでしょう。
 野樹かずみさんの作品はありえないような話ですが「椰子の根もと」とくるところが味になっています。南国的で、おそらく民俗的な世界へもっていってるかんじです。
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(題詠100題2007観賞)011:すきま



さようなら セーラー服のすきまからこぼれ続ける子犬のワルツ      (橘 こよみ)


カフェオレのようなコーヒー飲みながら そうね、あなたはすきまが怖い  (つきしろ)




 いよいよ近づいてきた締め切りにむけて、いま「題詠2007」のブログには続々作品がアップされているようなんで、締め切ってからやったほうがいいかなと思いつつも、やはり少しづつ観賞を続けていきます。

 橘こよみさんの作品には清涼なかなしさをかんじます。小さな頃からピアノを習っていて、ショパンも上手に弾きこなすような女の子ってクラスに一人くらいいたりするもんですが、かといってプロのピアニストになるなんてことはまずないもので、たいていの場合、大人になるにしたがってピアノも弾かなくなり、むかしピアノが得意だったふつうの人になっていくものです。そんな美しいはかなさを感じました。
 つきしろさんの作品は、ほとんど何の説明もされてなく「あなたはすきまが怖い」とくるところに問答無用の迫力をかんじました。
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2007年10月09日

穂村弘『短歌という爆弾』

 穂村弘の『短歌という爆弾』という本がブックオフで105円で売っていたので、買ってきて読んでみました。じつはあまり期待していなかったのですが、これはおもしろかったです。しかしそれは短歌の入門書としておもしろいというのではなく、穂村弘という奇妙な人間を描いた診断書みたいなおもしろさをかんじたのです。
 以前、ネットで短歌関係のサイトをあちこちいいかげんにサーフィンしているとき、たしか藤原龍一郎さんが(間違っていたらすいません)こんな批判をしているのを読みました。それは「穂村弘の短歌はすべて既成の元ネタがあり、自分はその元ネタがすべてわかる。そういう目でみると穂村弘の短歌はたんにその既成の元ネタを短歌の定型にあてはめただけのものにすぎず、オリジナルの部分がまるでない。自分はそのような作品とも呼べないようなものを評価することはできない」というような内容だったとおもいます。
 ぼくとしては世代が違うせいか穂村弘の短歌の元ネタはぜんぶはわからず、引用なのかオリジナルなのかわからない部分が多いので何ともいえないのですが、そういうものなのかとおもっていました。
 しかしこの本を読むとその批判は間違っていないとしても、その理由はふつうの人が想像するのとは違う事情のようです。
 ぼくは前半は飛ばして、3の「構造図」の章から読みはじめたのですが、この部分の最初のほうで穂村弘は自分の短歌はすべて既成の事物・フレーズのパッチワークにすぎないことを認めています。しかしそれはふつう人が想像するように、自分のオリジナルではいい作品がつくれないために既成のものをパクッたという話ではなく、そもそも穂村弘には自分という主体が無い・ひじょうに希薄であるために、自分のオリジナルな言葉を話す・書くなど不可能であり、かわりに出来合いのものを寄せ集めてきてパッチワークをつくり、そのパッチワークを「私」だといって差し出すよりほかなかったということのようです。
 そのパッチワークで埋め込んで「私」をつくりだすための容器として短歌の定型がちょうどよくて、そのために短歌が必要だったようです。

 オリジナルなものでなく、出来合いのものを自分の作品だといって差し出す方法論はマルセル・デュシャンに始まります。文芸の分野においてはドナルド・バーセルミが嚆矢でしょう。そこには近代以後信じられてきたオリジナリティという神話を否定しようとするクリエイターのコンセプトがあります。
 その点でいうと穂村弘がしたことは短歌としてオリジナリティがないばかりか、方法論としてもオリジナリティがなく、つまりあらゆる点において真似でしかありません。
 しかし、デュシャンにしろバーセルミにしろ、そのような方法論をとる背後にはクリエイターの主体があり、彼が意識的にそんなコンセプトを選びとったという意志があります。
 しかし穂村弘の場合、はっきりした「自分」というものがそもそもがなく、そんなコンセプトを選びとるという意識もなにもなくて、そんなふうにしてしか生きていけない主体であるというところが違っているとおもいます。
 それは幼児が他人の真似をしてみながら自分というものを意識していく段階(ラカンのいう鏡像段階とかナントカ、そんなのがあったように記憶してますが)あたりで意識の成長が半分止まってしまったような事態で、穂村弘の短歌に幼児的な印象をうける理由もわかったような気がしてみました。たぶんある種の病人なのかもしれませんが、クリエイターなんてたいていどっか病的な部分をもった人だともいえるでしょう。

 カート・ヴォネガット,Jr.の短編で、素人芝居の役者を主人公にした話がありました。
 彼はある芝居の練習に入ると、プライベートでもその役になりきって生活します。その役に完全になりきれるという点で彼の演技力は定評があります。ところがその芝居が終わり、次は何を演じるか決まっていない状態になると、彼は困ってしまいます。つまり、彼は何らかの役になりきってしか生活できないのです。その役を演じる必要がなくなり、自分本来の姿でいていいといわれると、どうしていいかわからなくなってしまいます。彼は「自分」として生きることができないのです。そして次の演目が決まり、彼の演じる役が決まると、彼は嬉々として今度はその役になりきって生活するようになります……。
 どうもこの話はたんなるフィクションでもないようで、たぶん穂村弘という人におきているのも、このような「自分」の空洞化ではないでしょうか。
 そうかんがえると彼が『手紙魔まみ……』という作品を書くようになっていった理由も、べつの意味が見えてきた気がします。
 これはどっかで言われていたような物語的な手法を導入した連作などといったものではなくて、自分が空洞で、そこをパッチワークで埋めることしかできなかった人間にとって、別の人間になりきって演じるということは、すごく安心することなのかもしれません。

 さて、しかし、そうみるとこの『短歌という爆弾』という本の後半の大部分は異様な雰囲気をかんじます。
 ここでは穂村弘は「他者とは違う自分」とか「一回かぎりの人生の真実」とかいうような、いわば短歌型のパッチワークしか作れないパッチワーク人間の穂村弘とはまったく相容れない場所ばかりから短歌のことを語ろうとしているからです。
 筋からいけば、穂村弘の短歌作品に意味があるとすれば、それはこの本に書かれているような価値観を否定したところにあるはずです。逆にこの本に書かれているような短歌論が正しいとすれば、穂村弘の短歌は否定されなければなりません。
 ひょっとするとパッチワーク人間である穂村弘氏は、ここでも自分の言葉で自分で考えた短歌論を書いているわけではなく、いろいろな場所で読んだり聞いたりした短歌論のパッチワークを書いてみせているだけなのかもしれません。


 さて、穂村弘の『シンジケート』は一時期は若い世代にたいへん人気があり、影響も与えた歌集なんだそうです。ぼくはまったく知らなかったもののこの本もブックオフで105円で買ったので、たぶん部数もある程度出てるのかもしれません。
 では、この人気や影響力というのはなぜだったのかという点に興味がひかれます。既成のもののパッチワークというのはそんなに魅力的なものなのかという点です。というのは、ぼくはデュシャンは好きなのですが、彼のいわゆるレディ・メイド作品の場合、ぼくが魅力をかんじるのはやはり作品そのものというより、そのようなことを行った彼のコンセプトにこそ魅力をかんじるからです。そのコンセプトの部分をとってしまった場合、はたしてトイレの便器やモナリザに髭を描いたような作品にたいして、純粋な美術作品として魅力をかんじるかといわれれば、かなり否定的にならざるをえません。(そうおもうのはぼくの価値観にすぎませんが)
 しかし穂村弘の場合はコンセプトなしのパッチワーク作品なわけです。はたしてそういったものが魅力的な作品でありえるのかという点に興味がわきます。
 まず、穂村弘のおこなったパッチワークがどのようなものなのか、実例を示したいのですが、先に書いたとおりぼくは世代が違うせいか出典があまりわかりません。すべてわかる……とばかりいってないで、わかる人は実例を示してほしいものですが、仕方ないのでぼくがわかる範囲でいきます。


新品の目覚めふたりで手に入れる ミー ターザン ユー ジェーン     穂村弘


 この歌の後半はかろうじてぼくでも出典がわかったものの一つです。
 この「ミー ターザン ユー ジェーン」という部分はフィリー・ソウルのグループ、イントルーダーズの70年代半ばのヒット曲のタイトルです。「ぼくはターザン、きみはジェーン、ぼくらはジャングルに棲んでるんだよぉ〜」というような曲です。しかし、ぼくはたまたま音楽ファンで、それも過去にさかのぼって聴くのも好きなファンで、一時期黒人コーラス・グループをあれこれ聴いてみたことがあるんで知っていましたが、たぶん70年代半ばにまだ洋楽を聴く年齢に達していなかった世代ではイントルーダーズの曲のタイトルを知っている人はほとんどいないでしょう。これがビートルズやビーチボーイズの曲だったら世代をこえて知られている可能性は大きいのですが、イントルーダーズはもっとマイナーです。
 しかし、「ターザン」なら世代をこえて誰でも知っているでしょうし、ターザンの恋人の名が「ジェーン」だとを知っている人もけっこういそうな気がします。となると「ミー ターザン ユー ジェーン」というのは何を言いいたいのか、イントルーダーズを知らない世代でも意味はわかるはずです。けれど、なんでここだけ英語のカタカナ表記になってるのかは、これがイントルーダーズの曲のタイトルであることを知らないとわからないはずです。
 他がよくわからないので、ごく少数の例から類推するしかありませんが、たぶん穂村弘の引用のしかたというのは、このようなものなのでしょう。
 さて、では穂村弘より若い世代の読者の目にはこの部分はどう映るんでしょうか? たぶん、たいていの人は「意味はわかるけど、ちょっと不思議で、意味ありげ」というふうに感じるんじゃないでしょうか。「ターザン」や「ジェーン」は知っているから意味はわかるものの、なんで英語のカタカナ表記になってるのかわからず、しかしそうしてあることに意味がありそうだということは感じとるからです。
 これはぼくの想像にすぎませんが、穂村弘より若い世代の読者に穂村弘の短歌が魅力的にみえたのは、この「意味はわかるけど、ちょっと不思議で、意味ありげ」というかんじが心地よかったからなんじゃないでしょうか? なんだか理由のわからないちょっと謎めいたものは魅力的にうつるからです。
 しかし、出典を知っている人間にとっては少しも不思議でも意味ありげでもなく、たんなる引用にしかみえません。それは若い世代が「不思議で意味ありげ」に感じる理由は、たんに穂村弘がパッチワークに利用した前世代のサブカルチャーを知らないためであり、それを知っている人間からすると穂村作品に謎めいた部分などまるでなく、「あれ」を短歌の定型にあわせただけだとみえてしまうからです。となると、出典を知っている世代には穂村弘の短歌は魅力的にみえないわけです。
 というのがぼくの推論ですが、どうなんでしょう。
posted by aruka at 23:35| Comment(1) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月04日

ネット短歌の盛り下がりを喜ぶ

 いまネット短歌の世界は盛り下がっていて、ネットで短歌を書く人の数は減りつづけているんだそうです。複数の場所でそんなことが書かれているのを見ました。
 それを知って思わず、「やっぱりな、ザマーミロ!」と心のなかで叫んでしまったのはぼくだけなんでしょうか?

 ぼくは二年ほど前くらいふと思い立って、ネットで短歌など書きはじめたのですが、短歌の世界を少しづつ知るうち、「なんで?」という疑問符の連続でした。
 短歌なんて、誰でも書けるものなんで、誰だって気軽に入っていけるのかとおもえば、みょうに閉鎖的な雰囲気があり、あちこちで自分たちだけの集団を作って閉じている。しかもその集団内で年功序列による固定した上下関係というのがあるらしく、雑誌などに作品がよく載るのはその序列で上位にいる先生ばかりらしい。たった31字前後しかない形式なんで、その枠内なら何をやってもいいのかとおもえば、やたらに「こうしないといけない」とか「こうじゃないといけない」と決めつけたことを言う人が多い。その結果できあがった作品をみれば、小さくまとまってしまっていたり、何を言いたいんだかわからないのが多くて、けっきょく、つまらない。しかし、大センセイが書いた何を言いたいんだかわからない作品はみんなが絶賛している。じゃあ、その作品はどういう意味なんだろうと知りたくて内容を解説したものを読んでみると、解説者の数だけ内容があるというかんじで、つまりみんな自分勝手に自分流の解釈をしているだけで、結局のところわからない……。
 そんなことのくり返しでした。
 なんでもっと、何でもアリにして、おもしろければ新人でもどんどんピックアップしていかないのか、つまらない作品や理解不能な作品は批判されないのか、わかりませんでした。
 わからないので評論のたぐいを読んでみると、それはもっと意味不明で、短歌以外の世界で一般常識とされているはずの前提が踏まえられてなかったり、そもそも理屈のつじつまも合ってなかったり、どうしてこれが? と思うものが名著扱いされていたり……。
 そういう歌壇へのアンチテーゼとして枡野浩一とかが投稿ブログをやっていたのかもしれませんが、これはこれでまた別の窮屈な価値観のベクトルがあるようで、それほどおもしろいともおもいませんでした。たぶんこれは(内容は全然知らないので間違っているかもしれませんが)かつて糸井重里が「萬流コピー塾」とかいうのをやっていたようで、マスノ短歌というのは実は短歌というよりそういったものの後継だったんじゃないでしょうか。
 つまりこういうのは投稿者がおこなう参加型のオアソビなんじゃないでしょうか。べつにそれが悪いという気はまったくないのですが、個人的にはそれほど興味はかんじなかったわけです。

 つまりは、ほぼ31字で書かなきゃならないという大きな制限があるからには、その他にはそんなに細かいルールはなくて、何でもアリで自由にやれるジャンルかとおもったら、やたらに細かい決まりばかりがうるさくて、上下関係が厳しくて、エラい先生の言うことはワケのワカラナイことでも絶賛しなければならないような雰囲気で……、そういったこと外れるとまともに評価もされないような、古臭いお稽古ごとのような窮屈なジャンルなんじゃないかと感じることばかりでした。

 じゃあ、なんでおまえはそれでも細々とネットに短歌を書いてるのかといえば、それでもほんの少しのおもしろい出会いがあったからです。
 一番大きかったのは、中井英夫の『黒衣の短歌史』を読んだことだと思います。中井英夫は『虚無への供物』の作者としては知っていたので、短歌の本なんて書いてるのか……とおもって読んでみたわけです。
 で、これは面白かったです。まず中井英夫の評論も、短歌の世界を知らない人間でもよくわかり、おもしろいものだったのですが、それだけでなく、この本にピックアップされて載っている短歌作品もおもしろかったわけです。じっさいここに載っている歌人の作品は現在でも名作とされて本屋で売られているものばかりです。なんだかんだいって、この本を読んだんでぼくはなんとなく短歌を書き続けている気がします。

 しかし、この『黒衣の短歌史』に取り上げられている歌人は当時はみな新人でしょう。当時の歌壇でエライ人だったわけではなく、現在であれば雑誌にとりあげられることもなく、埋没するしかなかったような人たちでしょう。かといってマスノ短歌の投稿欄のような場でウケるタイプの作品ともおもえません。そんな無名の新人の作品のなかから、中井英夫が自分の価値基準ですぐれた歌人・作品を見出して、ピックアップしているわけです。
 たぶん、いまの短歌にもっとも欠けているのは、この中井英夫のようなことをする人なんじゃないでしょうか。
 短歌の世界の住人いがいの人にも理解可能な言葉で短歌のことを語ってくれ、すぐれた作品は無名新人の作品であってもピックアップして紹介してくれるような人です。

 というのも、これは「題詠100題」を観賞しての実感なのですが、短歌人口が減ってるとはいっても、現在書かれてネットに発表される短歌の数は膨大です。「題詠100題」のブログに発表される作品の数だけでも膨大であり、それぞれの作者のブログに行けばさらに数多くの短歌が載っています。さらに、ぼくは読みませんが短歌関係の雑誌、ぼくは入ってませんが短歌結社の機関誌や同人誌などを含めれば、とてつもない量の短歌が日々書かれ、発表されていることでしょう。
 しかも、ぼくの目で見たところ、その膨大な量の作品の、少なくみても90%以上はつまらないわけです(ほんとは99%以上といいたいくらいです)。それは必ずしもその作品がデキが悪いからということではありません。それぞれの読者によって価値基準や嗜好の違いがあるのは当然のことで、誰だっていいとおもう作品の傾向は違うものでしょう。実際、現在出版されている小説にしたって、ぼくはその90%以上には興味がなく、興味があるものだけ手にとるわけです。これは誰だってそうなんじゃないでしょうか。
 しかし短歌のばあい、では、自分が読みたいタイプの作品を読みたいとおもったとしても、選ぶ方法はありません。
 とりあえず一通り読んでみて、いいと思えるものを探せばいいとおもっても、作品の量が膨大なんで、一人の人間がその全部にひととおりでも目を通そうとおもったら、ほとんど苦行に近い状態になるんじゃないでしょうか。
 では、雑誌であれば、ネットとは違って掲載される作品は編集者によって精選されてるんじゃないかと期待しても、どうも現在の短歌雑誌に掲載されるのはぞれぞれの短歌結社で高い地位にいる人の作品ばかりであり、ほとんど年功序列の状態だという話です。
 こういう状態であれば、読者は短歌を読もうとおもったら、つまらない作品をひたすら読みつづけ、そのうちに少しくらいおもしろい作品と出会えることを期待するしかありません。しかし、そこまで暇な読者というのもほとんどいない筈で、たいていつまらなさにあきれて、読むのをやめるでしょう。

 かつての中井英夫のように優れた批評眼で膨大な作品のなかから優れた作者や作品を見出し、「これがいい」と紹介してくれる人っていないもんなんでしょうか。
 そうでなくても膨大な量の作品を、なんらかの方法で整理して、優れた作品をピックアップしていく方法ってないものなんでしょうか。

 もしかしたら去年までやっていたという「歌葉賞」というのはそういう試みだったのかもしれませんが、ネットにも掲載されているこの賞の選考状況の様子を読んでみると、しょーもないことばかり面白がっていたり、枝葉末節なことばかり指摘していたりで、つまらないことを理由に選んでいるんだなという感想しか抱けませんでした。じっさい「歌葉賞」を獲った作品というのを読んでみると、そうおもしろいともおもえません。
 もちろん、そんな感想を抱いてしまうのは、ぼくが短歌を見る目がないからだといわれれば、その通りかもしれません。というか、いままでぼくはそうおもってました。
 でも、彼らがそんなに魅力的な歌人たちだというのなら、「歌葉賞」出身の歌人たちが活躍しているはずの現在、なんでネット短歌が盛り下がるんでしょうか? ネット短歌の人口が減るんでしょうか?
 かつて中井英夫が寺山修司や春日井建、浜田到らの新人を世におくりだした時のように、新しい読者を生み出す結果になぜ結びつかないんでしょうか?

 短歌を書きはじめてからずっと、自分の感性はかなり少数派なんだとおもっていました。なんでつまらない短歌ばかり読まされるのか、なんで有名な短歌の評論や入門書がぼくには理解不能なのか、なんで「歌葉賞」受賞作品はつまらないのか、こういう世界を理解できない自分の感性ってかなりヘンなんじゃないかと思いつづけてきました。が、ネット短歌が盛り下がっていると知って「やっぱりな、ザマーミロ!」と思ってしまいましたね。
 やっぱり、けっこう多くの人がぼくと同じ感想をもってるんじゃないかな。
 いまの短歌の世界はワケがワカンなくて、つまらない……って感じるのは、けっこう普通の感性なんじゃないかと、自信がもててきました。
(もっとも、それをつまらないと感じる人が、それならぼくと同じものをおもしろいと感じるのかというと、そうともいえなでしょうけど)

                     ★

 最後に。なんだか、現在の短歌はつまらないということばかり書いてきたんで、ぼくがおもしろいと思う短歌を引用しときます。中井英夫の『黒衣の短歌史』で知った歌人から浜田到の短歌を少し。


森に雪ふれば〈在る〉ことの罪あざやかな夜を眠りをはりたし         浜田到

脈細り少女ほろびしかば春の硝子にも映らずなりて吾につれそへり       浜田到

石の街に微笑みにじませ一滴の油彩のごとき短き生すぎぬ           浜田到

墓地の空流れてゆける夜の雲に白き手套をひとはめをへぬ           浜田到

ほのぐらき靴の中にして近づき行けば太陽のみが居たり父の死ぬ村       浜田到


 もう数十年前の作品なんで古いといえば古いんでしょうが、やはりここにはいまも古びない「詩」があると思いますね。現在の短歌のほとんどはこのような「詩」の境地は目指そうとすらしていないでしょう。べつにすべての歌人が同じようなところを目指す必要はないのですが、ではそれにかわる何か別の魅力なんてものがあるのか、ぼくにはわかりません。
posted by aruka at 01:37| Comment(8) | TrackBack(1) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月30日

萩原朔太郎を読んでておもったこと

 どうも最近になってようやく萩原朔太郎登場の意味っていうのが少しづつわかってきた気がしています。というのは、本など読んだところによると、萩原朔太郎というのは口語による詩を定着させた人といった説明がされていて、そういうものかのおもっていました。しかし、そういう目で読んでみると、『月に吠える』や『青猫』あたりでさえ少し文語表現もみられます。それでも、それ以前の新体詩などとくらべればずっと口語的といえるのでしょうが、でも「口語自由詩」の創始者という目で見てしまうと、なんだか中途半端じゃないかという気が、ずっとしていました。
 それでも詩の内容が優れているのだから、それでいいじゃないかといわれれば、それはその通りなんでしょうが、本など読むとあきらかに萩原朔太郎というのはその登場によって時代が変わった人という説明がされていて、たんに優れた詩を書いた人ということじゃないように思えるわけです。
 では、萩原朔太郎の口語が口語として中途半端なのであれば、萩原朔太郎はいったい何を大きく変えたのか、それがわからなかったわけです。
 で、最近おもっているのは、どうも萩原朔太郎の詩は口語を使ったという点よりも、むしろ文語によるは因習的な修辞法とでもいうようなものを否定したことに意味があったんじゃないかということです。

 ぼくが因習的な修辞法と呼んだものを説明します。
 以前、このブログで筑摩書房の日本文学全集の『現代詩集』の巻についた篠田一士の解説を読んだときのことを書きました。島崎藤村の『若菜集』の「初恋」の二連め、

  やさしく白き手をのべて
  林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に
  人こひ初めしはじめなり

 このうちの前半の二行、白い手と林檎の鮮やかなイメージはこの時代の日本人が獲得した新しい感性の産物であり、しかし後半の二行は因習的な修辞であり、たんに伝統的に使い古された言い回しを踏襲したにすぎない……と書かれていたことを紹介したのですが、ぼくがいう因習的な修辞法とは例えばこんなものです。
 といっても、以前これを書いたときは、この後半二行に因習的な修辞(言い回し)がみられる理由は、島崎藤村がそんな因習的な修辞から自由になれてなかったという程度におもっていたのですが、どうもそうでもないような気がしてきました。
 上の4行を「呼-応」の関係でみてみると、たぶん前半2行が「といかけ」であり、後半2行がそれに「こたえ」ている部分だと思います。この、後半2行が因習的ということは、つまり新時代の「といかけ」に対して、古くからの因習で「こたえ」ていることだとおもうわけです。つまり、新しい「といかけ」に対して、新しい「こたえ」を出すわけじゃない。「こたえ」は古くから決まっている因習的なものであり、どんな「といかけ」に対しても旧来の、むかしから用意されている「こたえ」でこたえるわけです。
 なぜそうなるのかというと、多分そうすることによって読者は納得し安心する、詩としての安定感が得られるためだと思うのです。
 これはあまりいい例ではないのかもしれませんが、例えばテレビドラマの「水戸黄門」を想像するとわかりやすいかもしれません。つまり「水戸黄門」ではラストシーンははじめから決まっているわけで、水戸黄門が印篭を出すと悪人たちは「ははーっ」とかいって土下座するわけです。このラストシーンに対して、毎週前半の設定・ストーリーが足され、新しい悪人が出てきます。これはあきらかにラストシーン(「こたえ」)は以前から決まっている因習的なもので、それに対して次々に新しい前半(「といかけ」)が出てくる構造です。
 こういうドラマをワンパターンと非難するのは容易ですが、視聴者はあきらかにそのワンパターンを望んでいるのであり、つまり前半がどんなストーリーでありどんな悪人が出てこようとも、どんなに斬新で見慣れないタイプの悪人が登場してきたとしても、最後に水戸黄門が印篭を取り出し、その悪人が「ははーっ」と土下座すれば、視聴者は納得して安心し、今回の話が終わったという実感を得るわけです。だから、そう簡単に否定できるものでもありません。
 島崎藤村の新体詩の後半2行が因習的というのも、おそらくそういう効果があったんじゃないかと想像できます。つまり、前半2行がいかに斬新な、新時代の感性をもったものだとしても、そこから後半2行の因習的な修辞(言い回し)へもっていけば、読者はそこで安心して、詩の一連が終わったという感じがする、という効果をねらっているとおもうのです。
 もちろん、先に「水戸黄門」の例をあげたとおり、このような因習的な修辞法のようなものは、文語詩特有のものではなく、口語詩にだって、他のたいていの創作物に存在します。つまり、最後にここにもっていけば安定して終わった感じになるという決まりパターンのようなものです。
 たとえばJポップを聴いていれば歌詞にもそのような決まり文句があるのがわかるし、コード進行やメロディにもそのようは一定のパターンがあるのがわります。
 では、それを否定するということはどういうこなんでしょうか。
 それは実際に萩原朔太郎の詩を見ながら説明します。『月に吠えろ』の冒頭近くにある「竹」をみてみましょう。


  竹
      萩原朔太郎

ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。


 これで全文ですが、たぶんこれを最初に見た当時の人って、けっこう異様なものに感じたんじゃないでしょうか。なんだかわからない、みょうに不安感をかんじるような。
 例えばラストですが、途中で途切れているように感じる人はけっこう多いんじゃないでしょうか。つまり、詩の最後の部分に、ここで終わっているという安定した実感がないのです。一応、2行めが最後に繰り返されてラストを形成しますが、それでもプツッと切れたような印象があります。つまり最後の部分で、因習的な修辞(言い回し)の内に着地してないわけです。
 さらにいえば詩全体にも、せきたてられるような、みょうに高いテンションが感じられ、不安に揺れ動いているかのようで、島崎藤村の詩のような安定感がありません。それはもちろん藤村の詩の七五調のような律がないことも理由でしょうが、それよりも「といかけ」に対して、見慣れた、安心できる「こたえ」が用意されてないことが理由じゃないかとおもいます。つまり因習的な修辞(言い回し)に着地していないわけです。

 おもうんですが、もし萩原朔太郎の詩の価値が、初めて口語を使用した詩というにとどまるのなら、萩原以後に書かれた多くの口語詩のなかに埋もれていたんじゃないでしょうか。だいいち、口語の使用という点に関していうならば、萩原朔太郎は『月に吠える』『青猫』においても文語が混じっていて中途半端であり、彼以後にはかんぜんに口語を使用した、つまり、さらに先へ進んだ詩が書かれているからです。
 やはり萩原朔太郎の詩の意味は、口語の使用という点より、因習的な修辞を否定したという点にあるんじゃないでしょうか。
 なぜなら、『月に吠える』が書かれた時点においては、因習的な修辞(言い回し)というのは文語表現のものだったのかもしれませんが、口語による詩が一般的に書かれるようになれば、すぐに口語表現による因習的な修辞(言い回し)が生まれるからです。そうなれば、誰だって、その因習的な言い回しを「こたえ」として使用することによって、安定感のある口語詩が書けるようになります。
 じっさい、現在のポップスの歌詞などをみてみれば、水戸黄門の印篭のように登場してくる因習的な修辞(言い回し)は容易に感じとることができるでしょう。
 つまり、口語詩であっても、どんなに「といかけ」が新しくなっても、むかしながらの「こたえ」を持ち出してきてしまうのです。そうすることによって安定した納得感が得られ、きちんと終わったかんじに着地できるからです。逆にいえば因習的な修辞(言い回し)を否定することは難しくなります。

 では因習的な修辞(言い回し)を否定するということにはどんな意味があるのでしょうか。
 また「水戸黄門」の例を出しましょう。水戸黄門は印篭を見せて悪を倒しているようにみえますが、実はあれは倒すことで敵を悪であると決めつけている行為なのです。というのは、現実では善と悪というのはそれほどハッキリ分かれるものではありません。例えば悪代官に菓子箱入りの小判をわたして商業の活性化をはかる越後屋の論理が間違っていて、権力をかさにきた水戸黄門が正しいとは、かならずしもいえません。
 しかし、ほどんどの人々は自分が信じてきた価値観を疑いたくないのです。それを疑うことは不安でおそろしいことだからです。だから悪だと信じてきたものを悪だと決めつけたい、正しいとおもってきたものを正しいと信じたいのです。そこから生まれるのが因習的な価値観です。
 つまり、視聴者は水戸黄門を正しいと信じたいがゆえに、悪人を悪だと信じたいがゆえに、水戸黄門が印篭を出したとき、悪人が「ははーっ」と土下座してくれれば安心し、納得するのです。
 因習的な修辞(言い回し)というのもこれと同じ意味をもちます。つまり、どんな「といかけ」にたいしても、古くからの因習的な修辞(言い回し)で「こたえ」てあれば、それで安心して納得し、安定感をかんじます。その「こたえ」がずっといままで信じてきた古くからの「こたえ」だからです。
 しかし、言ってしまえば、新しい事態に対して古い「こたえ」を持ち出して自分を納得させてしまうのは、つまり新しい事態から目を逸らしたいがための「ごまかし」にすぎません。
 実際には世の中には古い「こたえ」では処理できない新しい事態なんていくらでもあるし、そもそも「こたえ」なんて無い事態だってあるんです。それには新しい方法で対処しなければならないし、対処したって「こたえ」なんて出るとはかぎらないのです。
 つまり、因習的な修辞(言い回し)による「ごまかし」は所詮そのばしのぎのものにすぎませんが、萩原朔太郎が剥きだしのまま差し出してみせた不安感や、「こたえ」のない「といかけ」は、そのばしのぎの「こたえ」でごまかしていないだけに、いつまでも新鮮であり得るのです。
 たぶん、それが萩原朔太郎が時代を変えたといわれる理由なんじゃないでしょうか。
posted by aruka at 00:32| Comment(0) | TrackBack(1) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月25日

(題詠100題2007観賞)001〜010 まで観賞してみて

きよらなるあを染み透るまだなにも殺してをらぬひと日の始め     (萱野芙蓉)


いかほどの悪意であらばゆるさるる使ひ魔として夜に放つ蝶      (萱野芙蓉)


週末の水ぎはできく鳥の歌、身投げそこねし娘のはなし        (萱野芙蓉)


蜻蛉をひき裂いたこともあるのでせう かうして握りあふこの指で    (萱野芙蓉)

              蜻蛉:とんばう




 いちおう10番までのお題までの観賞が終わりました。まだ作品が提出されている最中の企画ということで、以後はゆっくりやろうかとおもっています。
 観賞してみてまず感じたことは、この観賞方法だととりあげにくい人がいるということです。それが上にあげた萱野芙蓉さんの作品です。
 ぼくは基本的に気になった作品を見つけたばあい、なるべくその方のブログへ行って作品を読むようにしていたのですが、萱野芙蓉さんの場合、ブログへ行って作品をまとめて読むとかなり強烈な印象がありました。しかしそのお題につき一首づつとりあげ、他のかたの作品と並べてみると、みょうに印象が薄くなってしまうのです。
(たとえば4首めの「蜻蛉」の歌を上の3首の後に読むと作者のなみなみならぬ世界観が打ち出されているように見えますが、一首だけ読むと恋人にじゃれている女の子の言葉のようにも見えませんか?)
 こういうことは当たり前のことで、同一作者の作品はまとめて読んだほうが印象が強くなるのかというと、どうもそうでもなさそうです。ほとんど印象のかわらない人もいるし、一首だけなら強い印象があるのに、いくつも続けて読むと逆に印象が薄まる場合さえあります。
 ではなぜ萱野芙蓉さんの作品の場合はそうなのか、と考えながら1〜10番までのお題のなかから選んでみたのが上の4首です。このような殺伐としたとでもいいたくなるような厳しさのなかに聳立した世界観が呪詛のように繰り返されることによって基調を創りあげ、それに違ったタイプの作品がはさまれることで広がりをもたせるような効果をもたせているのではないでしょうか。そのため続けて読むと厳しく力強い世界が構築されているような感触があり、しかし、一つ一つの作品を取り出してしまうと効果が薄くなるのでは……。
 というのが、ぼくがとりあえずおもった事ですが、ほんとうのところはどうなのかはわかりません。
posted by aruka at 22:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(題詠100題2007観賞)010:握



手を離すための握手をするときは雪か桜が降るものらしい     (里坂季夜)





 このお題では一首だけ選びます。
 里坂季夜さんの作品は、オタク的なたのしみとしてカート・ヴォネガット,Jr. の小説に登場するアイテムがでてくる短歌を楽しんで読ませていただいてますが、そういう読書傾向を反映してか、この作品にも上質のユーモアがかんじられます。読者を笑わせようとするユーモアではなく、視線や考えかたに内在するユーモア感覚とでもいうようなものです。ぼくは短歌のばあい、ウケをねらったギャグなんかよりも、こういうユーモア感覚のほうがよほど効果的で味わい深いとおもうのですが、どうでしょう。そのユーモアと詩的な美しさが融合した、すごくいい作品だとおもいます。
posted by aruka at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(題詠100題2007観賞)009:週末

週末の作り笑いがひとすじのティーバッグを引き上げて終わる   (長岡秋生)


制服を放って街へ潜り込む週末だれも大切じゃない        (ぱぴこ)


週末はあなたのことを待ってます指も切ります針も飲みます     (水野彗星)




 これも個人的にはやりにくかったお題です。「週末」という言葉の効果があまりに日常的で、どう使っても妙に俗っぽくなってしまうのがその理由だったのですが、他の方々の作品を見ると、この言葉がもつひどく日常的な響きをうまく利用している作品もあるものだと気づかされます。
 長岡秋生さんの作品は日常の細かな襞の奥にある怖さのようなものをさりげなく掬いだして見せたような作品で、何気ないようでいて、その奥にかなり広い茫漠たる地平が広がっていることを予感させるような雰囲気がすごくいいとおもいました。「ひとすじのティーバッグ」の「ひとすじ」が効いているとおもいます。
 ぱぴこさんの作品はいま街角にたむろしている若者の息づかいが感じられるような作品で、「だれも大切じゃない」という言葉が効いています。つまりこれは他のみんなと同じように、「自分」もまた大切ではないということなんじゃないでしょうか。
 水野彗星さんの作品は慣用される言葉の意味をねじ曲げたようなパロディックな表現が、少しブラックに傾斜していくかんじが素敵だとおもいました。
posted by aruka at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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