2007年11月11日

ビートルズって聴かれているの?

 図書館へ行ったとき、中山康樹の『超ビートルズ入門』という本があったのをみつけ、他の本のついでに借りてきました。
 ぼくはとくにビートルズの熱狂的なファンだったことはなく、高校生くらいのときに聴いて、すこしだけの期間ハマってはいましたが、わりとすぐ卒業して興味が他に移ってしまいました。そういった意味ではローリング・ストーンズのほうがずっと長く深く聴いています。
 けれども、ハマッて聴いていたのが短期間であり、当時は高校生でお金もありませんでしたから、とうぜん聴き逃している曲やアルバムがけっこうあります。いつか機会をみて、それらを一通り聴いてみたいなという気持ちはありました。
 けれどもビートルズってオリジナル・アルバムを聴いていっただけでは、けっこう洩れている有名曲が多く、では、どのようなCDを聴けば効率的に全部の曲が聴けるのか、熱心でないリスナーにはわかりにくいところがあります。そこでこの本を見つけたとき、その参考にしようかとおもって借りてきて読んでみたわけです。
 けれど、それ以前にこの本にはけっこう個人的には衝撃的な事実を知らされました。
 というのも、この本に載っていたことによると、日本で一番売れたビートルズのアルバムとは、2000年に出た『1』というベスト盤だというなんだそうです! いったい60年代以来のビートルズ・ファンたちは何を買っていたのでしょうか?
 さらに、ビートルズのアルバムの売り上げで『1』に続くのは、いわゆる赤盤、青盤というベスト盤だそうで、まあここまではゆるします。なにしろビートルズはオリジナル・アルバムだけ聴いていたのでは聴けない有名曲がたくさんあるバンドですから。
 しかし、それに続くのが『レット・イット・ビー』で、これがビートルズのオリジナル・アルバムとしては一番売れたものだというのです!
 なんてことだ! 日本におけるビートルズの聴かれかたって、こんな惨状だったのでしょうか? 自己申告によると山ほどいるはずのビートルズおやじたちは何をしていたのでしょうか。ビートルズのアルバムなんて聴かないでビートルズ・ファンを自称してたんでしょうか? ビートルズって聞いてまず『レット・イット・ビー』を手にとるなんて、そりゃあビートルズなんてほとんど聴かない人の選択ですよ。ジョン・レノンってきいて『イマジン』って即答するのと同じです。

 しかし、そう思うとけっこう思い当たることもあります。
 高校時代のことです。友達と話していて、たまたまビートルズのラストアルバムのことが話題になり、ぼくはまビートルズのラストアルバムはリリース順でいえば『レット・イット・ビー』だが録音順でいえば『アビー・ロード』であり、『アビー・ロード』こそがビートルズのラストを飾る名作だと、いまでもそう思っている当然のことを言いました。
 しかし、友達の一人はたしかに録音順ではそうかもしれないが、『レット・イット・ビー』こそがビートルズのラストを飾る名作なんだから、『レット・イット・ビー』をビートルズのラストアルバムと呼びたいといいだし、ところがその場にいた他の友達全員もその意見に同意し、『アビー・ロード』派はぼく一人になってしまいました。
 あれだけウルトラ・メジャーなロック・バンドでも、ビートルズってこの程度しか聴かれてないんだと思った瞬間でした。といっても、それはぼくが高校生の頃の話で、もっと上の世代、とくにビートルズ世代などといわれる人たちのあいだでは、もっと違った、深い聴かれかたをしているのかとおもってました。
 それが、この程度だったとは……。

 といったところで、この項はつづきます。
posted by aruka at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | ポピュラー音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月08日

福島正実『未踏の時代』を読んだ

 ブックオフで安く売っていたので、『未踏の時代』という本を買ってきて読みました。SFマガジンの初代編集長だった福島正実による、日本のSF黎明期からSFマガジンを編集しつづけた時代のことを書いた本です。
 それなりに興味深い点はあったのですが、なんだか期待と違うかんじがしながら読みました。といっても、それはぼくが勝手に期待していたことであり、それと違うからといってこの本に批判されるべき点などないはずで、勝手に期待したぼくのほうがわるいわけですが、それでもぼくが期待と違うとおもった点を書きます。
 それはファンへの視線がないという点です。
 たぶんSFというのはジャンル小説のなかでも、とくに固定ファンが多いジャンルじゃないかとおもいます。SFマガジンを創刊後数年で黒字に転じさせたのは、たぶん当時の固定ファンの増加によるところが大きかったんじゃないかと想像します。ぼくはその当時のSFファンたちがどんな作品にどんなふうに熱狂し、SFに何を求めていたのかが読みたかったのです。
 しかし、この本では当時のSFに無理解なジャーナリズムと福島正実がいかに論争し、SFを社会的に認知させようと闘ったのかは詳しく書かれているのですが、固定ファンへの視線がありません。むしろ、SFとは一部のマニアックなファンの読み物であると思われないために、もっと広い読者層に開かれていかなければならないとする立場で書かれています。たしかにそれは編集者というものの正しい在り方・意見なのかもしれません。でも、正直いうとぼくが読みたかったのは、むしろ福島正実がマニアックな一部の読者と呼んだところのSFファンの視線のほうであり、そのファンの視線にSFマガジンがどう応えてきたかのほうでした。
 こんなふうにかんじるのは、ぼくがオタク文化はなやかな現代に生きているからなんでしょうか。時代や世代の差というものなんでしょうか。
 以前、古本屋でアメリカのSFの古いアンソロジー(ヒューゴー賞などをとった作品を集めたもの)を買って読んだことがありまして、そこについていたアイザック・アシモフの前書きはいいものだったとおもいます。
 最初のSF大会というものがアメリカで開かれたときのことが書かれていました。そうすると、アメリカ各地から、ほんとに地方のど田舎みたいなところから、SFファンが集まってきたんだそうです。彼らは周囲に大好きなSFのことを語れる友人などなく、かえってSFが好きなどというとみんなからバカにされるので、隠れて読んでいたようなファンたちで、それがSF大会に行けば大好きなSFのことを共に語れる人々と出会えるはずだとおもって、それぞれ苦労しながら遠い道のりをやってきたのだそうです。
 なんだか当時のSFファンたちはそんなふうにして自分が愛する夢をつないでいたんだなとおもうと、なかなか感動的なエピソードでありました。
 ぼくはそんなふうなエピソードが読めるのかと期待してしまったわけです。もちろん勝手に期待したぼくのほうがわるいわけですが。
 その他、もっとこういうところを書いてほしかったと思う点はあるのですが、あまりないものねだりをする気にならないのは、この本が未完であり、作者の福島正実はこの本の執筆中に死去したらしいからです。どんな理由かはわかりませんが、巻末の著者欄に「1976年没」とだけ書いてありました。1929年生ということなんで、50歳にもならずに亡くなったようです。激務の編集の仕事で命をすり減らしてしまったんでしょうね。
posted by aruka at 21:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 本、小説、マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月04日

巨匠の時代・小ツブの時代

 ぼくはずっとジャズ=フュージョン系の音楽を中心に聴いてきて、わりと最近になってクラシック系の音楽も並行して聴きはじめたのですが、クラシックについて書かれた本を読んでいると、ジャズとクラシックのあいだにも妙な共時的現象がおきているように感じる部分があって、興味深いものがあります。
 最近、中野雄さんの『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』という本を読んだのですが、それにこんなことが書かれていました。
 クラシックの演奏家で、いわゆる「巨匠」と呼ばれる人がいたのはだいたい二十世紀の前半までで、1950年代あたりを最後にして「巨匠」は姿を消していき、新しく登場する演奏家たちはどんどん小ツブになっていくのだそうです。これはどうもジャズを聴いていても、ほぼ同じように感じる部分です。
 たとえば指揮者でいうと、「巨匠」といえる指揮者はフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、ブルーノ・ワルターといった人たちで、この人たちは1960年代に入ると姿を消していき、しかしその後につづくカラヤンやベームの世代までは、指揮者はオーケストラの団員たちに畏怖されるような特別な存在ではあった、しかし、その後の世代の指揮者となると、オーケストラの団員にとって一緒に音楽を作っていく仲間か、せいぜいその音楽をどう演奏すればいいのか解説してくれる人というかんじになると、これは有名オーケストラの団員へのインタビューのなかで聞き出しています。
 さらに、器楽演奏者となると、最近の演奏者は、テクニックという面にかんしていえば、むしろ過去の巨匠以上の優れた演奏テクニックを身につけている人が多いのだそうですが、しかしそのテクニックで伝えるべき内容が何もないか、あってもすごく貧弱という演奏者ばかりが増えているのだそうです。
 これなどはジャズ=フュージョンの世界でもそのまま当てはまるような状況だとおもいます。
 さらにいえば、こういった現象はジャズ以外のポピュラー音楽にもある程度あてはまる部分があります。たとえばロックの場合、録音技術の発達によりいろいろごまかしがきくようになったため、演奏家のテクニックはむしろレベルダウンしているとおもいますが(下手でも立派にきこえるようにできるようになったため)、ビートルズやストーンズらがいた1960年代から、どんどんミュージシャンが小ツブ化してきているのはあきらかでしょう。あるいはR&Bやソウルといったブラック・ミュージックの分野でも事情は同じでしょう。

 しかし、なぜクラシック、ポピュラー音楽に関係なく、おなじような現象がおきているんでしょうか。
 さきの中野雄さんの『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』では、このような説明のしかたをしています。
 つまり、最近の演奏者というのは音楽学校出のエリートであると。学校で合理的な演奏法や指揮法を教えてもらい、練習して習得する。もっともはやく上達する近道を先頭をきって走り、コンクールで入賞して世に出るというのが、彼(彼女)らが出世してきた道です。こういうコースをたどれば、高度なテクニックを確実に身につけることができますが、そうやって身につけた彼(彼女)らのテクニックや奏法というのは、つまりは学校で教えられた内容に、せいぜい自分なりのアレンジを加えたていどのものになるということです。
 対して、過去の巨匠というのは、誰かにとくに奏法を教えられたわけでもなく、それらを先人たちから自分で盗んだり、あるいは見い出したりしてきて、そしてとくにコンクールで入賞するなどという手っとり早い出世コースがなかった時代に、なんだかわからないコースをたどって頭角をあらわしてきた人たちなんだそうです。
 それは、おそらく音楽の教育システムが現在のように確立していなかったので、そうするよりほかなかったという理由も大きいんでしょう。それだけに遠回りもしたかも、非合理的な成長のしかたをしてきたかもしれませんし、そのためテクニック面では最近の演奏者に劣ることもあるのかもしれません。が、そうして彼らが迷いながら見いだした彼らの方法というのには、強烈なオリジナリティがあるということなんだそうです。

 ぼくはミュージシャンではないので、この理由のほうは正しいのかどうか判断がつかないのですが、理由はどうであれ、小ツブ化のほうは実感としてかんじています。
posted by aruka at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | オペラ、クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

短歌って息ぬきじゃないの?

 なんていうか、最近、短歌に熱い情熱とやらをもっているらしい様々な人の意見を読むことになって、ぼくはすっかり嫌気がさしてきてしまいました。
 ぼくは短歌っていうのは短いから、ほんの息ぬきていどの気持ちで書いたり読んだりできるものって気持ちではじめて、それ以来、基本的にはそのていどのもののつもりで細々とつづけてきましたが、それじゃあいけないんでしょうかね。
 売れたいとか有名になりたいとかおもうなら、もっとメジャーなジャンルを選んだほうがずっと近道なわけで、短歌みたいな短い形式のいい所って、息抜きとかかるい気持ちでできるとこにあると思うのですが。
 たぶん短歌をやる主な人たちって、なにか創作をしたいけど、長い小説などを書くほどの力はない青少年がとりあえず一行で作れるものとして選ぶか、あるいは別の職業をもってて心に余裕のある大人が、本業のあいまに息抜きとして趣味でなにかを書きたいんだけど、創作にそんなに時間をかけることはできないから短歌か俳句でもってかんじで選ぶか、そんなところだとおもうし、それでいいんじゃないかと思うんですけど。
 それで、ほんのときどき大歌人みたいな人が出てくるだけで、たとえば二十世紀でいえば前半に斎藤茂吉がいて、後半に塚本邦雄がいて、その周辺に数人の特徴的な活躍をした歌人がいて、それくらいでいいんじゃないでしょうか。
 そんなに立身出世めざしてやるものでも、大声を張り上げて熱く意見を闘わせたりってものでもないとおもうんですけど。

 ぼくはこのブログにいろいろ意見を書いてきましたけど、それは短歌とか日本の詩ってものをいままで読んできたことがなかったぼくが、あまりにも未知なジャンルなんで、こういうものか? いや、こうではないのか? と試行錯誤してきた過程を書いたもので、基本的にひとり言です。もし熱い意見だとおもわれていたら嫌だな。
 そりゃあ未知なものを調べていくのは個人的に大好きなもので、それはそれでおもしろがって熱中していた部分もあるわけですけど、それだけっていえばそれだけで、もともと好きだった歴史の理解に役だったあたりが儲けものっていうぐらいのかんじです。
 今後短歌を続けていくとしても、ぼくはやはり息抜きでできるからっていう理由で続けるだけでしょうね。あきたらいつでもやめるとおもうし。
 でも、短歌ってそういうものでいいんじゃないんでしょうかね。
posted by aruka at 10:57| Comment(4) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月02日

ネット短歌は盛り下がってもいいということ

 ぼくがネット短歌は盛り下がってもいいものだとおもいます。その理由を書きます。

 ぼくは短歌というものはほんらい「詩」でなければ存在理由がないものだとおもいます。
「詩」ではない短歌というのは、アブクみたいなもんだとおもいます。親しみやすさ・もの珍しさから一時的に目を集めることはあったとしても、そのうちはじけて消えるものだということです。
 なぜなら存在理由がないからです。つまり、「詩」でないなら57577という定型なんて守る必要がないのです。そんな定型にこだわらずに自由に書いたほうがいいものが書けるにきまってます。
 定型なんて守る必要がまったくないのに定型を守ってみせるのは、ただのオアソビというべきでしょう。それはつまり、ほんらいなら小説とか、もっと自由に書けるジャンルの作品を書いたほうがいいのに、そこまでの筆力がないので、とりあえず一行で書ける定型短詩を書いているという状態にすぎません。でも、そのうちに小説なども自由に書ける筆力も身につくかもしれませんし、定型なんて守る必要がまったくなかったことにも気づくでしょう。そのときアブクははじけて消えるでしょう。これは当然読者の側でもおなじことがいえます。
 定型とか韻律というものが存在理由をもつのは、短歌が「詩」であった場合のみです。なぜならパスがいうように、韻律というものは「聖性に対峙したときの呪詛、あるいは祈り」から生まれたものであり、「詩」の属性だからです。
 小説などもっと多くの人に読まれているジャンルのものを書くのではなく、短歌という形式を選ぶことに積極的な意義が見出せるのは、「詩」を書いた場合のみです。
 だから短歌というものは、本質的みて「詩」でなければ存在理由がないのです。

 さて、ネット短歌の盛り上がりといったときに、しかしアブクの部分がいくら盛り上がったところで、べつに意味などないのです。なぜならそんなものは最初から存在理由のないものであり、やがてはじけて消えるものだからです。
 むしろ、そんなアブクに紛れて本質を見失ってしまうことのほうが危機だといえます。なぜなら、多すぎるアブクに惑わされて本質が見失われてしまっていたら、アブクがはじけると同時に、すべてが無くなってしまうからです。
 しかし、ぼくが二年ほど前からネットで短歌を書き始めてかんじてきたことは、あまり「詩」と思えない短歌ばかりピックアップし、アブクを盛り上げることばかりに熱心だとしかおもえない状況でした。(もちろん個人的見解ですが)
 最初のうちはぼくも、初心者で何も知りませんから、それはそれで楽しみはしましたし、楽しめない部分は自分には理解できないけど本当はいいものなんだろうとおもってました。でも、楽しんでいた部分はすぐに飽きましたし、理解できないものも本当はいいものかどうか疑わしくなってきました。そして、その程度のものであるかぎり、短歌の盛り上がりなんて意味はないのです。
 アブクがいくらふくれあがって、盛り上がっているようにみえたとしても、それはまったく意味のないことなんです。そんなアブクは消えたってかまわないのです。盛り下がってもいいのです。
 大事なのは盛り上げることよりも、本質を見失わないことです。


 さらに、短歌の本質とは何かということについて、「詩」であるということの他に、ぼくが最近かんじていることがあります。それは、どうも短歌というものの本質は盛り下がった後のほうにありそうだということです。
 おもうに短歌というのは、祭りの盛り上がりより、祭りの後のむなしさとか、祭りそのものに背を向けた心情のほうに本質があり、勝者よりも敗者、成功者よりも失敗者のものであるようにかんじます。
 万葉集をみると、当時政治的に敗北して思うとおりの生をまっとうできなかった者たちの歌がかなりの部分を占めるわけで、近代においても例えば石川啄木など、ほんらい小説や詩などで成功したかったのがことごとく失敗し、敗者の悲しき玩具として短歌を書くわけです。それが結果的には売れたとしても、それは結果論であって、どうも有名になりたいとか売れたいとか、立身出世のために短歌を書くというのには、イメージとして違和感をかんじるようになってきました。
 ぼくは二年ほど前にネットで短歌を書き始めて、最初のうちはオアソビとかウケねらいとか、その程度のかるい気持ちの部分も大きくて、だいたいそれまで短歌とか日本の詩なんてものをまるで読んだことがなかったもんで、あまりにも未知な世界に、未知であることがおもしろくてはじめてみたわけです。でも、やってみると、単純にオアソビとかウケねらいというのは、短歌でやってもそうおもしろくないような気がしてきました。それは自分でもその時はおもしろいつもりで書いていても、少し時間をおいて読みかえしてみるとつまらないし、他人が書いたものも多分本人はおもしろがって書いているんだろうなとわかるのだけど、さむくかんじたり、ちょっと違うんじゃないかとおもいながら、ではいつまでも魅力的な短歌というのはどういうものかとかんがえてみると、けっこう短歌の本質ってそのへんのところにあるんじゃないかといまのところおもっています。
 斎藤茂吉の『赤光』にしても、有名な連作というのは母との死別や、成就しなかった恋愛をあつかったものであり、これが幸福な母子ものや、ハッピーエンドの恋愛を描くなら、たぶん短歌以外のジャンルのほうがいいものが書けるんじゃないかとおもうわけです。
 思うとおりの生をまっとうできなかった者たちが、その思いを歌というかたちで残し、ほかの者たちは彼らがこの世に残さざるをえなかった思いを慰撫するために歌をつくり、といったところが短歌というものの本質にちかいのような気が、最近してるんですが、どうでしょうか。

 もちろん、自分が書いた作品のことは棚にあげていってるのですが。
posted by aruka at 01:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月01日

入門者向けのオペラ


 『フィガロの結婚』を聴いていておもうことは、もしオペラというものを聴いてみたいという人がいたら、これから聴いてみるのが一番いいんじゃないかということです。
 それはぼくが言わなくても、いろいろな本とかで、オペラ入門の推薦作としてはヴェルディの『椿姫』とかプッチーニの『蝶々夫人』とかとならんで、この作があげられていることが多いようです。
 でも、ぼくとしては『椿姫』や『蝶々夫人』は入門作としてはあまりよくなく、やはり『フィガロの結婚』がいいとおもうわけです。
 まあ、このブログを読んで参考にしてオペラを聴きはじめるという人はまずいないでしょうが、自己満足として、ここでその理由を書いてみます。

 個人的に、それほどクラシックを聴いていたわけではなく、ポピュラー系の音楽を聴いてきて、オペラを聴きはじめたときに、いちばん違和感をかんじたのはあの歌い方です。なにもそこまで声を張り上げなくたっていいじゃないか、というのが正直な印象で、たしかにマイクが無かった時代にはあの声の出しかたが必要だったのはわかるけど、時代が変わったんだから歌い方を変えたっていいんじゃないかとおもったんです。
 つまり最初のうちは、聴き慣れてないせいで、あまり魅力的には感じられなかったわけです。
 それでも、聴きつづけていけばだんだんこの歌い方の魅力というのもわかってくるのですが、たぶん最初は違和感をかんじるほうが普通なんじゃないでしょうか。普通に育ってきた人なら、ポピュラー音楽の歌手の歌い方のほうに耳が慣れているわけで。
 というわけで、ぼくの場合、最初は歌手に多少の違和感をかんじながらもオーケストラとか音楽の魅力にひかれてオペラを聴いていったわけですが、そういう耳で聴くと、ワーグナーとかは歌手に多少の違和感をかんじていても、オーケストラの魅力で聴けるわけです。
 しかし、ヴェルディとかプッチーニとか、イタリア系のオペラは、これは歌手の魅力で聴くものであって、あの歌い方に違和感をかんじているうちは、聴いたってそんなに楽しめないんじゃないかというのが、ぼくの実感としての意見です。だから『椿姫』や『蝶々夫人』は入門作としては適当でないとおもうわけです。
 ぎゃくにいえば歌手の魅力にとりつかれると、今度はイタリア系のオペラこそ最高だと感じる人が出てくるのも、それはそれでわかります。
 だから、ポピュラー系の音楽を聴いてきた人がオペラを聴く場合、最初のうち、あの歌い方に多少でも違和感があるうちはイタリア系のオペラは無理に聴こうとはせず、ああいう歌がもっと聴きたいとおもったところで聴きはじめるのが、おそらくいいタイミングなんじゃないかとおもいます。
 もちろん、いままでずっとクラシックを聴いてきて、歌曲などは好んで聴いてきたのであの歌い方には魅力はかんじるものの、オペラは一度も聴いたことがなかったという人ならいきなりヴェルディから入門でもいいわけですが、はたしてそんな人ってそんなにいるんでしょうかね。

 じゃあ、最初はどれから聴いたらいいのかということですが、最初はあの歌い方などに違和感があっても親しみやすいオペラを、できるだけ何度も何度も繰り返し聴いて、あの歌い方に慣れてしまうというのが、いちばんいい入門法だとおもいます。慣れてくれば、あの歌い方の魅力もわかってくるもんです。
 では、それには何がいちばん適当かというと、やはり『フィガロの結婚』だとおもうわけです。
 といっても、もちろんモーツァルトが嫌いだという人なら別ですが、まあたいていの場合、モーツァルトを大嫌いだという人は少なく、オペラは聴いたことがない人でもモーツァルトの交響曲や協奏曲などは聴いたことがあり、好きな曲もあるという人は多いです。
 それならまず『フィガロの結婚』を、歌手がソロをとる協奏曲のようなつもりでくり返し聴くのが、いちばんいい入門法じゃないかとおもうわけです。
 なにしろ、オペラという形式はモーツァルトがもっとも得意とした音楽形式で、つまりモーツァルトの音楽のいちばんおいしい部分といえます。それに『フィガロの結婚』というオペラは、極端にいえば歌詞やドラマの部分をまったく無視してしまって、たんに音楽として聴いたとしても、それはそれで楽しめる音楽です。モーツァルトが一番あぶらが乗り切ったともいえる時期の作品ですから親しみやすく魅力的な曲がそろっています。
 おまけにこの『フィガロの結婚』はおそろしく敷居が低いというのも特徴だとおもいます。つまり、いくら芸術性が高くても、あまりにも深刻で重厚な作品や、ベタベタのメロドラマみたいなオペラだと、それほど日常的にくり返し聴けないとおもうのです。どうしても構えてしまったりします。
 ところが『フィガロの結婚』なら、基本はラブコメだからまったく構えなくていいし、電車のなかで聴いてもいいし、家に帰ってコーヒーでも飲みながら聴いてもいい、掃除をしながら聴いても、キッチンで料理や洗い物をしながら聴くのにも適したタイプの音楽です。
 こういう敷居が低くて気軽にくり返し聴けるタイプのオペラでまずあの歌い方などに耳を慣らしておいて、慣れてきて、オペラの魅力がわかってきたところで、いろいろ聴いてみるといいとおもうわけです。

 ただ、この前も書いたとおり、『フィガロの結婚』を音楽だけでなく、オペラとしてドラマの部分も含めて楽しむには、やはり映像か実演で舞台を見ないとほんとうのおもしろさはわからないとおもいます。
 だから、最初はCDだけ聴いて耳を慣らしておくにしても、ある段階でやはり映像か実演で観たいところです。
 一番安上がりに手軽くすませるにはテレビでの放送を待つという方法があります。これも『フィガロの結婚』が入門者向けにいいろころで、すごくポピュラーな作品なもんで、わりとよく放送します。ぼくがオペラに興味をもって2年弱ですが、その間にもすでにNHKのBSで2種類の映像を放送しています。大きな図書館などに行けばDVDも貸しているかもしれません。

posted by aruka at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | オペラ、クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月28日

クラシックにおけるオペラ

 オペラを聴きはじめてわかったことは、本場の西洋においてクラシックの中心はオペラだということです。日本ではクラシックのCDの紹介本などでオペラを扱ってないものも平気で出ているのですが、ほんらいこれはおかしいようで、クラシックというのは交響曲もその他のものも、すべてオペラが中心にあってこそ成立している世界のようです。
 ではなぜ日本ではオペラがそれほど人気が出てこなかったのかといえば、やはり日本においては音楽はレコードという形で輸入されてきたので、レコードだと交響曲や協奏曲の魅力はわかっても、オペラの魅力はわかりにくかったからではないでしょうか。
 日本ではまだ専用のオペラ劇場もない状態ではありますが、おそらくDVDなどの普及によって、日本においてもだんだんオペラはクラシックの中心になっていくんじゃないかとおもいます。

 とにかく、オペラが中心だと知ってみてみると、クラシックというのはよくわかってくることがあります。
 作曲家にはオペラに向いている人といない人とがいて、例えばベートーヴェンなどあきらかに向いてない人の代表なんですが、それでも一つだけ『フェデリオ』というオペラを書いています。この『フェデリオ』はベートーヴェンの作品のなかではとくにベスト1とかにあげるべき大傑作というほどのものではないような気がするのですが、ベートーヴェンがこのオペラにかけた情熱たるやなみなみならぬものがあって、一つの作品にかけた情熱の量でいったらベートーヴェンの全作品中これが文句ナシのベスト1じゃないかとおもわれるほどです。
 シューベルトも歌曲が得意だったわけなんで、オペラも書けそうな気がするんですが、どうもなぜかオペラの適性はなかったようで、しかし失敗しても失敗してもオペラを書きつづけたようです。
 じっさいクラシックの作曲家はオペラの成功によって最も名声も評価も収入も高まったようで、オペラを成功させることが作曲家としての成功への王道だったようです。
 その点モーツァルトはオペラを得意とする作曲家で、一般的にモーツァルトの作品中もっともモーツァルトの良さが一番出てる形式といったら、第一にオペラ、第二に協奏曲とするのが普通でしょう。
 だとすれば、本来モーツァルトのようなタイプの作曲家はオペラをバリバリ書いていけば他はべつに書かなくてもいいくらいのはずです。しかし、モーツァルトの曲をみるとオペラの数はわりと少なく、交響曲とか弦楽四重奏曲とかありとあらゆる種類の曲を数多く書いています。これはなぜなんだろうという疑問がわきます。
 それでみてみると、どうもオペラの上演というのは、現在でいえばハリウッドで映画を作るようなもので、才能や実力があればいいという世界ではなかったようです。つまり、非常に多くの人やカネがかかわり、また地位や名声にも直接かかわるだけに、嫉妬や妨害行為も呼ぶようで、そういった騙しあい足を引っぱりあうドロドロとした世界でプロジェクトを実現させる政治力のようなものがないとうまくいかない世界だったようです。(考えてみればワーグナーだってルードヴィッヒ二世という国王が熱狂的なパトロンになったからこそ『ニーベルングの指輪』を完成させられたわけです)
 モーツァルトはどうも若い頃にそういった点で失敗し、それ以後オペラからはいったん遠ざかざるをえなかったようです。しかし、やはり評価を得るにはオペラでの成功が不可欠なわけで、なんとかオペラを成功させたい、その思いで起死回生を計るべく力を込めた一作が『フィガロの結婚』だったようです。
 このオペラの台本選びのためにモーツァルトは数百冊の台本を読んだといいますから、その情熱がうかがえます。
 で、結果はどうだったのかといえば、その後、それほどはオペラを作曲する機会にめぐまれてない点からみて、そうは成功しなかったようです。
 それはそうでしょうね。これはぼくがみてもその責任はモーツァルトにあるとおもいます。というのはもちろん、芸術的価値とは別のレベルでの話ですが。
 『フィガロの結婚』という劇はもともと貴族(金持ち)をおちょくってあざ笑う内容の劇なんです。モーツァルトは台本を直してそういう部分を抑え、ラブコメ度を高くしていますが、もともとそういう内容なんで、そういう要素は無くなりはしません。モーツァルトのパトロンにしてみれば、当然自分がおちょくられて笑われるようなオペラを喜ぶわけがないと、常識でかんがえてもわかります。
 けれど、本などみると、この時代はモーツァルトにとって生涯でもっともパトロンとの関係がうまくいっていた時代で、だからこそ起死回生・一発逆転の勝負をかけたオペラ制作に踏み切ったようです。
 そんな状況でこんなパトロンを怒らせるような内容のオペラを、それも数百冊も台本を読んだ中で、選びに選びぬいたすえに、よりによってこれを選ぶモーツァルトという人の人間性というのに、ぼくはたいへん興味を感じます。
 これってやっぱりワザとなんでしょうかね。それとも、そんなことにまったく気をつかわない人だったんで、そんな意識をせずに単におもしろかったからという理由で選んでしまったということなんでしょうか。どちらにしろ、ふつうの人の感覚とはかなり違うでしょう。
posted by aruka at 23:46| Comment(1) | TrackBack(0) | オペラ、クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月27日

モーツァルトのオペラ、CDかDVDか。

 モーツァルトのオペラを聴いていて思うことは、モーツァルトのオペラの場合、映像か実演で観ておかないとおもしろさは理解しずらいんじゃないかということです。
 というのは、去年ワーグナー中心にオペラを聴きはじめた頃はそんなことは考えなかったということです。
 そもそもぼくは音楽を観賞する場合、映像つきで観賞することはほとんどありません。ジャズとかフュージョン系の音楽でもライヴを録画したDVDとか出ていますし、持っているのも何枚かありますが、どうも映像というのは一回か二回観ればそれで満足してしまい、後はCD、あるいはDVDでも音声だけ別のメディアにダビングして聴いたりしています。
 映像だと見ていなきゃならないけど、音なら「ながら聴き」もできるせいなのか、わかりませんが、どうも話をきいてみるとぼく以外でもそういう人って多いようです。
 だからワーグナーを聴くときも、映像付きであれば台本を見なくても字幕でストーリーがわかるという利点はあるにしても、たいていはCDで観賞していたし、それでいいとおもってました。
 それに、一つにはワーグナーのオペラというのは、音楽自体が場面や情景を演出しており、目を閉じて聴いていれば風景や人物の姿が目に浮かんできます。そのように音楽が書かれているわけです。そして映像付きで観た場合、この目を閉じて浮かんでくる情景に匹敵するほどの映像というのはまずありません。
 これは舞台の実演を観るのであれば話は別ですが、実演を観るのと、実演を撮影した映像を観るのとでは、まったく別物であるとぼくはおもいます。例えば実演であれば、自分の席から舞台を観ていて飽きることはありませんが、もし実演を収録した映像で固定した位置からのカメラでずーっと舞台を撮影しているだけの映像なんて見せられたら退屈で仕方ないでしょう。やはりカメラ割りとかして、映像作品として作る必要があると思うのです。そして、そうなった場合、やはりそれは映画などと同じ映像作品という基準で観られるものになるんだとおもいます。となると、ワーグナーの音楽に匹敵する映像というのは、やはりそうそうないわけで、それなら大抵のばあい目を閉じながらCDを聴いていたほうがいいとおもうわけです。

 しかし、モーツァルトのオペラの場合、どうもそうともいえないような気がしています。たぶん何度かは映像や実演で観ないとおもしろさがわからない気がするのです。
 というのも、モーツァルトのオペラのおもしろさは舞台上の登場人物の動きやスチュエーションと密接に結びついている気がするのです。
 たとえば『フィガロの結婚』でスザンナが一人で歌っている場合でも、ケルビーノが椅子の後ろに隠れているをゴマカしながら歌っている歌であったり、あるいはケルビーノを着せ替えしながら歌っている歌だったりします。それは映像で見ればそうわかりますが、CDで音楽だけ聴いていれば、単にスザンナが一人で歌っているというだけにしか聴こえないわけです。そして、こういうのって、台本を見ながら聴いていて文字で説明されるより、登場人物の動きが見えたほうが、やはりスザンナがゴマカしている様子や、着せ替えしている様子を見るのがおもしろいわけです。
 ところで先述したとおり、映像でオペラを観賞する主なメリットって、字幕付きで見れば台本を見なくてもストーリーを理解しながらオペラが聴ける点だと思っていたのですが、どうも、少なくともモーツァルトの場合、字幕は無くてもいいような気がします。
 というのは、たんに中古屋で輸入盤のDVDがすごく安く売っていたので買ってきて観てみたのですが、もちろん日本語の字幕なんてなくて歌詞なんてわからないのですが、それでも登場人物の動きなどを見ていればどういう場面なのかはわかるし、それで充分おもしろいのです。
 もちろん、そんな話なのかがわからなければ、それがどんなシーンなのかもわからないのかもしれませんが、モーツァルトのオペラの「あらすじ」くらいいろんな本にも書いてあるし、ネットを検索しても簡単に見つかります。そして「あらすじ」だけ頭に入っていれば、あとは字幕なしの映像を見てもけっこうわかります。
 では、モーツァルトのオペラは、そうやっていつも映像付きで観ているのかというと、やはり数回映像付きで見て、その歌が歌われるのがどんな場面なのかが頭に入ってしまうと、CDのほうがいいという気になるのですが。

posted by aruka at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | オペラ、クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月25日

(題詠100題2007観賞)013:スポーツ


傷ついたクラゲみたいにせつないよスポーツジムのプールに浮けば  (暮夜 宴)


少年の日のさみしさよ海へゆくこのまっ白なスポーツカイト     (坂本樹)




 この題もあまりいいとおもう作品がありませんでした。やはり書きにくい題だったんじゃないでしょうか。無理やり読み込んだ感をかんじるものも多かったです。それでも2つ選んでみました。
 暮夜 宴さんの作品。
 書いてはいないのですが、時刻は夜なのかと勝手に想像しました。というのも、闇のなかでプールにぷかぷか浮いている、周囲に触れたり見える確かなものがなにもない状態というのは、人間にとってもっともよるべない状態らしいです。
 幻覚を見る実験というのもありまして、闇のなかでプールに浮いていると人間はほぼ確実に幻覚を見るのだそうです。感じられるものが何もない、脳に情報が入力されてこない状態に置かれると、脳は勝手に幻覚をつくりだしてしまうのだそうです。そんな人間にとってもっともよるべない状態を「傷ついたクラゲ」と表現したところにおもしろさをかんじました。
 坂本樹さんの作品はいいとおもうのですが、意味がとりにくいです。さいしょ「スポーツカイト」が「海へゆく」ということで、スポーツカイトの糸が切れて風に流されて海の遠くに落ちていくというイメージかとおもったのですが、そうすると「この」はおかしい気がします。たんに少年がスポーツカイトをもって海へ行くということなんでしょうか?
 最初のイメージでとるとすると、海の遠くへ落ちていったまま二度と少年の手に戻ってこないスポーツカイトが、そのまま二度と戻ってこない少年の日々のイメージと重なるいい作品だとおもったのですが、でもやっぱり「この」はおかしいな。

posted by aruka at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月21日

ネット短歌の盛り下がりを喜ぶ 2

 トラックバックしていただいたので、酒井さんに質問の点をこたえておきます。

『どのやうな現象をもつてネット短歌の衰亡と捉へられたのかをarukaさんには説明していただきたかつたところです。』

 この点ですが、内容はよく知らないですが、以前は「ちゃばしら」とか「ラエテティア」などというネット上の短歌の企画があったようですが、すでに終了したようです。「歌葉賞」というのも昨年終わったようで、「かんたん短歌ブログ」も終わったようで、笹公人さんの投稿ブログは以前はラジオで放送していたのが、ラジオ放送は終了しています。これらネット上の短歌の企画はどれも終わるか規模を縮小しています。それにはそれぞれの主催者の都合もあるんでしょうが、人気が盛り上がっているならこうも揃いも揃って終わるもんでしょうか?
 そして「題詠100題blog」の参加者の数の推移をみると最初の数年は毎年ぐんぐん増えていくのですが、2005年をピークとして以後は減少傾向にあります。2006年以後は出走前に参加者を締め切ることをやめ、期間中に途中参加もできるようにしたのに、です。
 これらの点をみれば、現在ネット短歌の人気は盛り上がってはいなく、むしろ翳りがみられるとする現状認識は妥当だとおもわれます。
 酒井さんご自身はネット短歌の人気の下降を実感しておられないということなのかもしれませんが、一般論でいってこういった場合、10人中1人か2人が「おかしいぞ」と気づくあたりが重要な分岐点となります。

『たとへネット短歌が衰亡しつつあるにしても"やっぱりな、ザマーミロ!"と切り捨てるのではなくして、だつたらこの俺がネット短歌を盛り上げてやる、ぐらゐの氣概がなくてどうするのだ、と僕は思ひました。』

 この点ですが、なんで盛り上げなきゃいけないのでしょうか? べつに盛り上がろうが盛り下がろうが、かまわないんじゃないでしょうか。それは酒井さん自身も最後の部分に、

『結局のところ、ネット短歌がたとへ盛り下がつていようとも、短歌を讀む人は讀むだらうし、詠む人は詠むだらう。それでいいのだと、僕は思ひます。』

 と書いておられます。ぼくもこの点にはまったく同感です。
 ぼくが困っているのは、酒井さんの文章は一体何を言いたいのかわからない事です。
 この最後の、『たとへ盛り下がつていようとも(中略)それでいいのだ』という、ぼくと酒井さんと共通であるはずの認識の上に立つのなら、なんで『だつたらこの俺がネット短歌を盛り上げてやる、ぐらゐの氣概がなくてどうするのだ』という言葉が出てくるのでしょうか?
 逆に、酒井さんが『この俺がネット短歌を盛り上げてやる』という気概で日々身を粉にして活動されているかたなのなら、「人気が盛り下がって喜んでいる」などと書いたぼくのことをゴキブリのように嫌悪するのも心情的に理解できますし、批判もあまんじて受けましょう。しかしゴキブリは一匹みつかった背後には百匹以上棲息しているという事実はお忘れないように。もしネット短歌の人気を盛り上げたいのなら、ぼく程度の人間が自分勝手にブログに書いたことに噛みつくより、なんでそんなに多くの人がネット短歌から去っていったのかを考えるほうがよほど重要です。
 けれど、最後まで読めば、酒井さんは『この俺がネット短歌を盛り上げてやる』という人でもないと判断せざるをえません。
 一体、酒井さんはあの文章で何がいいたかったんでしょうか?

 ぼくが先の文章に書いたことは、煎じつめていえば、二年ほど前からネットで短歌を始めてみたものの、なんだかワケのわからない世界で、つまらないものや理解できなものばかりが賞賛されていていて、そんなふうにかんじるぼくの感性ってヘンなのかとおもっていたところ、ネット短歌の人気が盛り下がっているというのを知って、やっぱりぼくと同じように、短歌に興味をもって始めてみたものの、つまらなくってやめていく人って多いんだなとおもい、現在の短歌の大半をつまらないと感じるぼくの感性はべつにおかしいわけではないんだなとおもって納得し、喜んだ。というだけのことです。


 さて、酒井さんおすすめの黒田英雄さんのブログについて書きます。ちなみに先の文章は黒田英雄さんのブログも知ったうえで書いた文章です。といっても以前に少し覗いたことがあるだけなので、内容はよくは知りませんでした。覗いただけですぐに読まなくなった理由は、つまらない歌ばかり選んであったからです。今回また行ってみましたが、やはり印象は同じでした。
 もちろん黒田さんの選んだものが秀歌だと思えるのなら、黒田さんに「優れた批評眼」があるとおもえるのなら、酒井さんはそれを読めばいいのでしょう。「歌葉賞」の受賞作家なども、それがおもしろいとおもえるのなら、それを読めばいいのと同じです。
 でも、いずれもつまらないと感じるのがぼくの本音ですから、そこは何といわれてもしかたがないのです。
 試みに黒田さんは中井英夫のような仕事はしていないとぼくが考える理由を例をあげて示してみます。
 中井英夫は当時の短歌には「詩」がないと批判し、「詩」としての短歌をピックアップしていきました。去年読んでこのブログにも書いたパスの『弓と竪琴』によると「詩」とは、

 ……人間は理性ではどうにも処理できない恐怖すべきもの、理解も共感も想像もできない絶対的他者の存在を感じると、その畏怖すべき存在に聖性をかんじる。その「おぞましき神聖なるもの(ヌミノーゼ)」に対峙したとき、人間は儀式的な行為によってそれを鎮めようとする。そのときの呪詛、あるいは祈りのとき、言葉は意味よりもリズムやイメージの多重性が重視され呪術性をおびる。それが詩であり、そのリズムが韻律である。

 と、ぼくなりに要約させてもらうと、そんなようなことを書いていました。そここそが「詩」の生まれる源泉であると。
 おそらく中井英夫もこれと同じか似たような考えをもっていたはずで、そのため「詩」にこだわる中井英夫がピックアップする作者の作品には「おぞましき聖性に対峙した場所から生まれてくる詩の感覚」があります。例をあげてみます。


しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしづかなる釘音きけり    塚本邦雄

死火山の上おそひくる夜を臨み不在の椅子のうつくしさ知れり    浜田 到

狼少年の森恋ふ白歯のつめたさを薄明にめざめたる時われも持つ   春日井建

死神はてのひらに赤き球置きて人間と人間のあひを走れり      葛原妙子


 これと比べる例として、酒井さん推薦の黒田さんのブログから2007年10月18日の「私の名歌鑑賞その3」でピックアップされている作品のうち最初の4首をあげます。(一番最近の選歌を選んだのであり、他意はありません)


をのこにつく乳首の理由(わけ)を教へしはかの夜のきみの唇の円  黒田英雄

かえりみちひとりラーメン食ふことをたのしみとして君とわかれき  大松達知

噴水のざわめきにこころみだされて愛を告白したり この場所    大松達知

はじめてのくちづけをへてあふぐときどこかでいつかみた空がある  吉岡生夫


 これらは別物であるということはもう言っても理解されないところまで来てるんでしょうかね。
 黒田さんが選んだ短歌には「おぞましき聖性に対峙した場所から生まれてくる詩の感覚」はありません。これは俗的なテーマでの話し言葉を定型にあてはめただけのものであり、パス〜中井がいうような意味での「詩」ではありません。
 つまり中井英夫が否定したタイプの短歌が、黒田さんがピックアップしているタイプの短歌であり、この二人の短歌にたいする価値観は180度違います。
 個人的には中井英夫の「批評眼」と黒田さんの「批評眼」をいっしょくたにしてしまうのは、中井英夫の「批評眼」も黒田さんの「批評眼」も理解できてない人の言うことという気がしてしまうのですが、どうでしょう。
 もちろん黒田さんが選ぶような短歌が好きだという人はいるのでしょう。中井英夫の活躍中も中井の否定派はいました。いろんな意見や価値観の人がいるのは当然です。だから、そういう人は黒田さんのブログを愛読すればいいのです。
 でも、ぼくは黒田さんが選ぶような作品はつまらないと感じるわけで、それはつまらないと感じるぼくの感性のほうがヘンなんじゃないかといわれれば、もちろんそうなのかもしれませんが、黒田さんのブログがあってもネット短歌の人気が減っているのなら、ぼくと同じように感じている人もけっこう多いということなんじゃないかというのが先の文章の内容でもあります。

 さて、ではパス〜中井がいうような意味での詩としての短歌は現在では書かれていないのかというと、やはり書かれてはいるとおもうのです。
 現在このブログで続けている題詠100題2007の観賞コーナーから、最初の二つの題でぼくがピックアップした野樹かずみさんとけこさんの作品を例にあげてみます。


両目から砂がこぼれる魂が崩れ始めているかもしれない      野樹かずみ

あの晴れた朝に廃墟となる街に少女のあなたがいたのだという   野樹かずみ

白く残る月の気配に怯えながら無音の街を歩き始める       けこ

火星まで晴れた夜空は無防備な正しさを叫ぶ 凍えてしまう    けこ


 ぼくはこれらの作品には「おぞましき聖性に対峙した場所から生まれてくる詩の感覚」をかんじるのです。
 しかし、実感でいえば、こういった「詩」を感じる作品は、膨大な量を読んだなかで、ほんのすこし見つかるだけというかんじです。まあ、ふつうの読者なら、そこに到達するまえに失望して読むのをやめるんじゃないかと、実感としておもいます。
 そして、もし短歌が「定型詩」だというのなら、もっと(中井英夫と同じような意味での)「詩」にこだわって、優れた「詩」である短歌をピックアップするべきじゃないかというのは、もう理解もされない意見なんでしょうかね。


 いずれにしろ、ネット短歌の人口が一時期増え、そしていま減っているのであれば、それはネットをとおして短歌に興味をもった人たちが短歌を始めてみたものの、短歌の世界をぐるりと見回してみて、失望したから去っていったということでしょう。
 もちろん、なかにはおもしろいと感じて続けている人もいるでしょう。そういう人はとりあえず関係ありません。
 でも、現状をみれば、やはり失望して去っていってる人がかなりいると見るべきなんじゃないでしょうか? そしてぼくは、数少ないおもしろい出会いがあったので、それでも細々とネット短歌を続けてはいますが、現在の短歌の世界に失望して去っていった人に、かなり共感するのです。
 なぜなら、現在書かれている大半の短歌は「詩」が欠けているというか、目指してすらいないようにみえるからです。
(もちろん、短歌を去っていった人がみなぼくと同じ理由で失望したとはいいませんが)
posted by aruka at 20:53| Comment(12) | TrackBack(1) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。