2008年02月22日

短歌とは呪文のようなもの?

 ぼくは最近おもっているのですが、短歌っていうのは「呪文」みたいなものに近いんじゃないでしょうか。そうおもうと、いろいろなことがわかってきた気がしたのです。

 二、三年前に短歌を書き・読み始めた頃は、なんで「文語」なんて使う人がいるのか理解できなかったし、ものを書くうえではできるだけ読者にわかりやすく、明確に書くべきではないか、つまり、短歌だって現代語で、自分の言葉で表現し、自分の伝えたい内容がきちんと伝わるように心がけるのが本筋だとおもっていましたが、どうやらそういう考え方も正しくはないということがわかってきました。

 短歌を読みはじめたときは、わかりやすい現代語による短歌を中心に読んで、現代文でありながら57577という定型におさまっている感じにおもしろさも感じたのですが、そういった、いわば安っぽいおもしろさにすぐに飽きてしまうと、だんだん現代語の短歌というのにも不自然さを感じるようにもなってきました。
 それは、現代語で読者にきちんと内容を伝えるという、一般的な文章と同じ価値観で書くのだとすると、ではなんで定型なんて守るのかという点です。
 つまり、短歌もまた一般的な文章とおなじように、作者が伝えたい内容をきちんと伝える表現であるのなら、短歌なんて書かずに、一般的な文章を書けばいいのです。定型なんて気にせずに、31字という長さにとらわれずに自由に書いたほうが、作者が伝えたい内容はきちんと伝えられるに決まっています。つまり短歌なんか書く必要がないのです。
 つまり現代語で書かれた短歌を読むと、なんでこの人はこの内容を短歌という手法で書くのだろうか? このような内容を書きたいのなら、定型なんかにとらわれずにもっと自由に書いたほうが、もっとおもしろいものになるんじゃないかと感じることが、だんだん多くなってきたのです。
 もっとも、それは現代語で書かれた短歌にのみ感じるわけではなく、文語で書かれた短歌でも同じように感じるものは多いし、そのため、そんなに深くは考えずにいたわけです。

 さて、では何で短歌を書く人は、わざわざ定型なんて守って、ほぼ31字で終わるように書くのでしょうか。そんな定型なんかにとらわれずに、もっと自由に書いたほうが、もっとおもしろいものが書けるはずなのに、です。
 それは、そもそも「短歌とは一般的な文章とは違うものであり、作者が伝えたい内容を伝える表現ではない」と考えないと答えが出ません。
 いくらか遠回りはしましたが、たぶんそれが答えでしょう。
 つまり、短歌においては、読者がわかりやすいかどうか、作者の伝えたい内容がきちんと伝わっているかどうかは、それほど重要な事柄ではないのでしょう。そう考えなければ、なんでわざわざ定型を守るのかという理由がありません。そしてそう考えるのなら、そもそも現代語で書くか・文語で書くかといったようなことは、むしろどうでもいい、どっちでもいいことになります。

 短歌とは「呪文」のようなものではないでしょうか。ある世界を喚起させ提示する、そのための「呪文」のようなものというのが、短歌の本質なんじゃないでしょうか。パスがいうとおり、韻律というのは恐るべき神聖なるものに対峙したときの呪詛から生まれたもののようです。
 こんなことを言うと、たしかにそれが詩の源泉かもしれないが、それは遥かな過去の話であり、現在はそんな時代ではないという人もいるかもしれません。でも、そうだとするならなんで韻律なんか守って短歌を書くのでしょうか。現在はそんな時代ではないと思うのなら、短歌なんてやめてしまえばいいというだけの話です。
 つまり、短歌を書くということは、短歌という定型を受け入れたときから、もはや一般的な現代文ではないものを書いているんだと思うべきなんでしょう。
 さいきんまた文語で短歌を書いてみる習作を作りはじめましたが、以前文語で書いてみたときは自分の言葉ではない言葉で書いているもので、いかに地に足がついていない、ファンタジーを書いているような気分になっていたのですが、これを「呪文」のようなものだとおもってみると、文語を使ってみることにも抵抗がなくなりました。短歌というものは、そもそも自分の言葉で書いた、自分の書きたい内容の表現ではないとおもうようになったからです。
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2008年02月21日

呪文 1


蒼穹をみたす無限の羽のごと雪は非在の翼ひらきつ

舞い墜ちる無数の羽根に護られて使徒ははるけき峪を渡れり

球形の城の図書館、長椅子のレンズに残りしかの日の光

神々の庭の園丁、いくつもの迷路を刻む円盤の地で

風景を錬金術師の死蔵せる写本のごとく卓上に置く

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2008年02月19日

風流と雅(みやび)

 以前、山本夏彦の『完本 文語文』を読んだとき、短歌というものは江戸時代までは「風流」であったのが、正岡子規が「文学」にしてしまったという記述に出会ったのですが、そのときは「風流」ということについてそれほど深くは考えはせず、そんなものかという程度の感想で読みすごしてしまいました。
 ところが最近、たまたま小西甚一の『中世の文藝』という本をぱらぱら見ていて、おもしろい記述にぶつかりました。ぼくなりに要約させて書かせていただきます。

 この本によると「風流」とは「雅(みやび)」というものと結びついたものであり、「雅」とは、既に完成されているとするある表現こそ永遠のいのちをもつものだとする考え、そこを目指していくような考え方で、「古典主義」に近いものなんだそうです。そして「風流」とはそんな「雅」にしたしむ生活の理想的典型のようなものなのだそうです。
 ぼくはつい短歌とか、文芸系のものを見ると、それは作者が表現するものと考えがちですが、考えてみれば(簡単に気づかなければならなかったことですが)そんな主体が表現するものが文芸であるといった考え方はおもに近代以後に根付いてきたもので、それ以前の文芸においてはかならずしもあてはまるものではありません。つまり短歌とは、江戸時代までは、ある理想的な典型に向かって自らの表現を高めていこうとするものであり、そんな「風流」を楽しむためのものだったようです。
 となると、すでに完成されている典型を目指すわけですから、個性とか創意といったものはそれほど重視されないもので、むしろ、それでよかったもののようです。
 おそらく近代短歌というのは、正岡子規がそんな「風流」を「月並み」だといって否定し、創意や個性を重視したところからはじまるのでしょう。

 しかし、子規の時代においては、いわばそうなっていくのが大きな時代の流れだったのかもしれませんが、そんな近代化の時代もずいぶん遠く過去になり、「文学」というのもずいぶん色を失った現在からすれば、そういった考え方も疑ってかかるべきなのかもしれません。
 そもそも個性や創意を本当に重視するなら、なんで短歌なんていう千年前からの定型をいまだに守るんだという問題もあるわけで、それでも短歌を書くという行為は、どこかでそんな近代に背を向けて、既に完成された理想的典型を目指してみる行為(雅)という側面があるんじゃないでしょうか。
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2008年02月18日

「題詠100題2007」を観賞しておもったこと

 しばらく短歌ともブログとも関係のない生活をおくってまして、「題詠100題2007」の観賞も中断しておりました。
 観賞が中断した理由は、なんだか答えが見えてきてしまったからです。
 もともと、他人が書かれた作品を自分で選んでみることによってわかることがあるのか確かめてみるつもりではじめた観賞でしたが、だいたいぼくが選ぶ作品の傾向もその問題点も、最初の10題くらでもわかってきてしまいました。
 まずぼくはおもしろい言い回し、美しい表現をしている短歌をいいと思い、選ぶ傾向があるようです。では、そのような表現力のある作者を良い短歌の書き手だと思い、これからも書き続けてほしいと思うかというと、よく考えてみると、そうは思えないのです。
 というのは、たった31字前後しかない短歌という形式では、いくら表現力のある作者であってもたいした内容は書けません。せいぜい「この表現はおもしろいでしょう」という程度のレベルで止まってしまいます。となれば、こういう人は、力のある人であればあるほど、短歌なんかさっさと卒業して、小説とかエッセイとか、より長い文章を書ける形式にすすんでいったほうがいいと思うのです。そのほうが、その表現力を駆使して、もっと複雑で深い内容のものが書けるはずだからです。恋愛小説の1シーンのような短歌を書いている人は、おそらく短歌なんか卒業して素直に恋愛小説を書いたほうがいいんです。
 そうなると、短歌という31字前後しか書けない形式を、あえて選んで書きつづける必然性ってどこにあるんでしょう。
 どうもそこがわからなくて、止まっていたわけです。

 そんなとき、ダンテの『神曲』など叙事詩の味を知りまして、ちょっと興味がそれていました。
 そして疑問におもったことがあります。それは、『神曲』やミルトンの『失楽園』など、物語的な内容をもった長大な叙事詩というのは、小説とどこが違うのだろう。両者の本質的な違いはどこにあるんだろう、ということです。
 もちろん韻文であるという理由がまずありますが、それだけが理由でもない気がしました。
 そして思ったことは、叙事詩というのはだいたい世界全体・宇宙全体を象徴するように構成され書かれているのにたいし、小説はそうでないということです。たぶんそこに最も本質的な違いがあるんじゃないでしょうか。
 そう考えると、じゃあ短歌というのは何なんだろうという気になります。長大な叙事詩とちがってたった31字しかないのでは、宇宙全体や世界全体を象徴させられるわけないじゃないかという気がしました。
 けれど思ったのは、やはり短歌もまた、本来は31字で宇宙を描きつくすようなところを目指している形式なのではないかということです。それはつまり、路傍のちいさな小石に宇宙を見る……というような境地でしょう。
 だいたい世界観・宇宙観のようなものは、原稿用紙何千枚で描いたって、しょせん書き尽くせるものではありません。けっきょく暗示し、象徴させるしかないでしょう。だとすれば、数千枚の枚数をつかわずに、あえて31字で暗示するのが短歌というものではないのでしょうか。
 たぶん短歌というのは31字前後で表現するものと考えることは間違いなんでしょう。おそらく31字の長さは作品全体の長さではありません。描かれているのはその作品の背後に広がっている巨大な世界であり、31字はその世界を暗示するための文字数と考えるべきではないのでしょうか。路傍のちいさな小石は、それがどんな形の小石かが重要なのではなく、それを眺めていると宇宙が見えてくるかどうかが重要なのではないでしょうか。
 そう考えると、日常的な会話体を定型にあてはめてみたような作品が、どれもこれもくらだなく、つまらないものに感じられる理由もわかってきました。そのような作品は短歌の背後に広がる世界がない、カラッポなものでしかないからです。
 そしてここに書いてきたようなぼくの短歌の観賞のしかたも、考え直す必要がありそうです。つまりどんな美しい表現、おもしろい言い回しを駆使しているかは、実は短歌の読みどころではまったくなく、どれだけ広大な世界・宇宙を暗示・象徴しているかという点こそが、ほんらい短歌の読むべき点ではないでしょうか。
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2008年02月17日

円形の庭園


円柱が見まもる陰よ無数の眼ひらく真昼の無人の広場

比類なき表情をもつ石像と機械じかけの噴水のまち

かぎりなき天文台を彷徨よへる孤児らの交わす奇妙な言葉

方形の宇宙の縁に立ち数学者らは永遠のかずを数えり

円形の庭園、月のひそかなる音に現われて舞ふ蝶の群れ

方形に森を開墾(ひら)きて赤き酒の杯と皿をしずかにはこぶ

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2007年12月16日

短歌の効用?

 この前、『神曲』を寿岳文章の訳で読んでいたときにも感じていたのですが、どうも短歌に興味をもつことの効用って、古い日本語に親しむという点が大きいんじゃないかという気がしてきました。
 実はずいぶん前からぼくは、泉鏡花の小説を、そのうち読んでみたい気がしていました。ぼくは映画ファンであり、日本の映画では泉鏡花を原作としたものがけっこう多く、名作も多いからです。でも、いままで何度か読もうとしても、あの文語の文体に抵抗があって読めずにいました。なんだか読んでいても内容が素直に頭に入ってこなくて、いらいらしてダメだったのです。
 しかし今回、『神曲』をの寿岳文章訳で味をしめたんで、久しぶりに泉鏡花を手にとってみたら、意外なほどすうっと頭に入るようになっていることに気がつきました。泉鏡花以外にもいくつか日本の古典文学を読んでみましたが、けっこう読めそうにかんじました。これはたぶん短歌というものを読んでみた効用でしょう。

 いままで、なんで歌人というのは文語を使いたがるのか、わざわざ苦労して、一般の人にわかりにくい言葉使いをするのか、理解ができませんでしたが、逆に文語への入口として短歌を読み詠むことをかんがえると、なかなかいい入口ではないかという気がしてきました。それは古語の語彙に親しむというだけでなく、どうも文語による文章というのは、韻律とはいわないまでも、文語文特有のリズムで読ませる面のあるものが多いような気がするのです。そして、そういった文語文特有のリズムの味わいかたも、短歌の韻律を通じて理解できてきた気がしたのです。

 いままで文章は平易でわかりやすく書くのがいいとおもってましたし、いまでも実用的な文章にかんしてはその通りだろうとはおもいますが、どうも文章にはそうとも言い切れない部分があるようです。
 古い日本語と接するということは、いわば異文化と接するのと同じであり、そこには抵抗感があって当たり前です。そして異文化を理解することとは、けっきょくその抵抗感が少なくなるように異文化を自分の側に翻訳することではなく、その抵抗感の向こう側に、異文化のほうに自分の感性を近づけていくことが肝要でしょう。つまりは、現代人にもわかりやすい短歌を読んだり詠んだりすることではなく、むしろ古語を使用して、古語を使っていた時代の日本人の感性をかんじることに、古代詩形である短歌というものを現在も続ける意義があるとはいえないでしょうか。

 しかし、以前から文語で短歌をつくることも少しづつは試みてはいるのですが、どうも個人的には文語を使って書いてみると、ほとんどファンタジーを書いているような気分になります。自分の言葉ではないもので、書いていても地に足がついている感じがしせず、現実感がないのです。
 慣れればそうでもなくなるもんなんでしょうかね。
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2007年12月02日

西洋の叙事詩と日本

 ぼくが普段どんな本を読んでいるかというと、文芸というジャンルでいうならやはり小説が圧倒的に多いです。だから西洋の古い作品を読む場合でも、小説であるとけっこう気軽に手にとれる一方、詩というと二の足を踏むところがありました。
 しかし、最近詩というものを意識してみてわかってきたのは、どうも詩、とくに叙事詩というジャンルが、西洋の文明をみる上でかなり重要なのではないかということです。とくにルネサンスあたりから見た場合、ダンテの『神曲』、スペンサーの『妖精の女王』、ミルトンの『失楽園』などといった叙事詩の存在感というのが大きく見えてきました。
 そんなわけで、ダンテの『神曲』を寿岳文章の訳で読んでみました。寿岳文章訳を選んだのは、山田正紀が『神曲法廷』でこの訳をすすめていたのが記憶にのこっていたという理由です。
 山田正紀が勧めるだけあって、この寿岳文章の訳はかなりの名訳で、一種の韻文といっていいようなリズムで読ませる文章になっています。以前ならこういうクセのある文章は好きでなかったのですが、短歌を読んだせいか抵抗なく味わえるようになっていました。そこは短歌に興味をもってみたことの成果といえそうです。
 そういう目で読んでいくと、やはり『神曲』はすごい傑作で、正直短歌を読んでいるより余程面白いと感じてしまいます。
 もう一つ参照にしながら読んでいるのは、ブックオフで\105でみつけた現代教養文庫の野上素一訳の『ダンテ 神曲物語』です。こちらは普通の文章による訳で、読みやすくてわかりやすいのはこっちのほうで、するすると読めるのですが、叙事詩という雰囲気はなく、タイトルどおり「物語」を読んでいるようです。きらびやかで壮大なイメージに溢れ、『神曲』の世界が目の前にあるようにかんじるのは寿岳文章訳のほうですが、速読して大意をつかむのには野上素一訳のほうが適しているし、モノクロながら多くの画家が『神曲』の一場面を描いた絵が挿絵のように載せられているのが、なかなか楽しいものです。
 また、読んでいる途中でブックオフで永井豪のマンガ版『ダンテ神曲』の文庫版の下巻だけも見つけ、これらを交互に見ながら読みすすめました。

 さて、『神曲』を読んでいて疑問におもったことは、なんで日本にはこのような叙事詩がないんだろうということです。というのは、歴史に興味がある人は誰でも感じることでしょうが、西洋の歴史と日本の歴史というのはわりと似たルートを辿ってる面があり、比べてみるとたいていのものには似たような対応物というのが見つかるのです。これは日本の歴史と、中国や朝鮮の歴史を比べたときとはまったく違います。
 しかし、和歌など日本の詩の歴史をみると、新古今のあたりでは洗練の極みをつくしますが、それはつまり短詩形の作品のみであり、長歌などは万葉集以後むしろ廃れていきます。西洋のような長大な叙事詩というのが書かれた時代というのはないようです。なぜなんでしょうか。
 そこを考えてみると、やはり『源氏物語』などの小説というのが、日本においては西洋における叙事詩と同じような役割をしたのではないかという想像に駆られます。
 しかし、それでもまだ疑問は残ります。というのは、やはり『源氏物語』などの小説と、西洋の叙事詩とではかなり違いがあるんじゃないかということです。
 思うに、西洋の叙事詩というのは、後に書かれることになる西洋の近代小説とは構造的な違いがあるようにおもえます。それは韻文と散文の違いというだけでは、おそらくないとおもいます。
 それはルネサンス期以後の叙事詩には、まず全体の構想があって、そこから細部が書かれていくという構成感があることです。
 例えばダンテの『神曲』は全体が「地獄編」「煉獄編」「天国編」と三つに別れ、それぞれがだいたい同等の分量である構成になっています。
 しかし、読んでみた感想からすれば、おそらく「地獄編」がもっとも密度が高いと感じるのが普通でしょう。「地獄編」は次々と鮮烈なイメージが噴出するのに対し、「天国編」は対話だけがえんえんと続いていると感じる場面が多いです。例えば永井豪のマンガ版『ダンテ神曲』では全体の3分の2が「地獄編」にさかれ、のこりの3分の1のうちの4分の3は「煉獄編」、「天国編」はごく短いものになっています。これは永井豪が自分の好きなところを自由にマンガ化したからこうなったというより、誰がやったとしても、だいたいそんなバランスになんるもんなんじゃないかともおもわれます。
 けれど、ダンテにすれば、やはり「地獄編」「煉獄編」「天国編」はそれぞれ同等の分量でなければいけないと感じていたことでしょう。それはどれだけ書くべき内容があるかの問題ではなく、この3つの部分は同じ分量でないとバランスが悪いとかんじる、どこか建築に似た構成感です。
 スペンサーの『妖精の女王』も、これが未完の作品といわれているのは(これで完成しているという評もあるようですが)、この作品がそれぞれ12の徳をあらわす12巻の作品にするという全体の構成がまず構想され、その半分を書いたところで中断したからです。
 このような全体の構成から発想して、その後に各部分へと至っていく構成感が、西洋の近代小説では薄くなっている気がします。そして、どうも日本の『源氏物語』や、その前後の文芸作品をみていると、はじめからそういう発想が無いような気がするのです。
 これはなぜなんでしょうか。
 ちょっと考えてみたいテーマです。

 それにしても『神曲』を寿岳文章の訳文を読んでいると、日本語の韻文による叙事詩というのも、それはそれで可能だったんじゃないかという幻想にもかられます。本当にこういうタイプの作品って日本にないのかな……。
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2007年11月24日

「プラットホーム」


ぼろぼろの自転車でいく海の旅 自殺志願の少女とぼくと


たそがれに風化していくいくつもの壁をならべてだまりこむ街


眠るためまぶたがほしいとぼくたちは眠りを忘れた街をさまよう


飛ぶ夢をみたことがない少年が壊れた喉で奏でる軍歌


正義とは考えないこと正義とはいばりちらすこと目をとじたまま


音もなくとびらが閉じる部屋だけが無限につづく深夜のホテル


この都市は闇に浮かんだ電車だという人が待つ停車場(プラットホーム)

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2007年11月17日

ビートルズ入門者向けCD

 ひきつづいて中山康樹の『超ビートルズ入門』を読んだ感想です。
 前回、こういった場合、いちばんおいしいところを勧めるのが紹介者の役割ではなかと書きました。
 となると、じゃあおまえは入門者に何を勧めるんだといわれそうです。で、参考のために一応ぼくが初心者に勧めるものを書かせてもらいます。といっても、先に書いたとおりぼくはさほど熱心なビートルズ・ファンでもないもので、ぼくの意見が参考になるかわかりませんが、でも、一般論でいって誰がみてもこのへんが妥当というところはあると思うのです。
 まず、ビートルズというのは活動中に作風を大きく変化させたバンドなんで、一枚のアルバムでビートルズを代表させるのは無理があるとおもいます。そこで、前期・中期・後期から一枚づつと、ビートルズを入門するなら3枚くらいは聴きたいところだとおもいます。
 となると、後期は『アビーロード』できまり、中期は『ラバーソウル』できまりでしょう。『レット・イット・ビー』や『サージェント・ペパーズ……』から聴きはじめるよりずっといいです。
 そして前期ですが、これはオリジナル・アルバムではなく、63〜64年頃の軽快なロックン・ロールのヒット・ナンバーを集めたベスト盤を勧めたいところです。
 なぜベスト盤などと言うかというと、ビートルズがアルバムという単位を中心において作品づくりをはじめるのは65年の『ラバーソウル』以後で、それ以前はシングルが主体だったからです。これは当時のロックはみんなそうだったので、『ラバーソウル』以後のビートルズの影響で、ロックはアルバムで聴くものになっていったのですね。だから『ラバーソウル』以前のビートルズを聴くなら、アルバムよりシングルを集めたベスト盤のほうがいいわけです。
 むしろ問題は63〜64年頃の代表的なナンバーをうまく編集したベスト盤があるかという点になります。
 これが、『超ビートルズ入門』に載っていた正規盤を見ると、どうもこれが一番と勧められるものがありません。『1』は「プリーズ・プリーズ・ミー」が入ってないなど問題がありますし、コンピものの『パスト・マスターズ Vol.1』はオリジナル・アルバム未収録のものを集めたものなので、この場合は勧められません。
 とすると、いま出ているもののなかでは、赤盤(『1962年〜1966年』)のCD1を、1曲目をとばして2曲めから聴くのが、一番いいかなと思います。もっとも、これはカヴァー曲は代表的なものも入ってなく、登場時のビートルズの勢いを感じるにはベストの選曲とはおもいません。それに当然2枚組であり、CD2のほうは『ラバーソウル』とダブる曲が出てくるなどの難点が出てきます。
 この他にもおそらく廉価盤などで様々な編集でビートルズのベスト盤は出てるのでしょうが、よくわかりません。
 ビートルズほどのバンドなら、63〜64年頃の登場時のビートルズのヒット・ナンバーの数々を、CDの収録時間限界まで詰め込んだベスト盤が正規盤として出ていてもいいとは思うのですが。


 最後に、今回あらためてビートルズを聴いてみて、おもったことを一つ。
 どうも高校時代のぼくは、それでもビートルズの各時代の作品をまんべんなくは聴いていたようで、聴き逃していた部分を聴いても、それほど大きな新発見というのはなかったです。
 でも、以前も聴いていたものが、現在聴くと違ったふうに聴こえた部分があります。
 それは初期のビートルズの演奏が思っていたよりずっと上手いということです。
 こんなことを書くと、ビートルズがヘタだとおもってたのかとファンに怒られそうですが、はっきりいって高校生の頃に聴いたときにはビートルズの演奏能力が上手いとはおもえませんでした。それは、後から聴いた世代からすれば、ビートルズ登場当時のエレキ・ギターの音って、すごく情けない音に聴こえたからです。
 エレキ・ギターという楽器は1960年代末に一気に性能アップした楽器で、ジミ・ヘンドリックスとか、あのへんの時代以後のエレキ・ギターの音と、1960年代前半の音とでは、それこそマシンガンと水鉄砲くらいの迫力の差があります。さらに1970年代に入ればスタジオ録音の技術も格段に進歩し、たいして演奏能力のないバンドでも立派で迫力あるサウンドを作りだすようになります。
 ぼくのように、1970年代以後の楽器や録音のレベルで育った人間からすれば、初期のビートルズは単にその録音された音からいって、すごく情けない音を出すバンドに思えたし、けれども曲自体は親しみやすくてすごくいい曲が多いな、という印象をもっていたわけです。
 でも、それ以後、ジャズとか古いブルースとかも聴くようになり、格段に進歩する前のエレキ・ギターの音などにも親しみ、当時の楽器やスタジオ録音の限界もよく理解したうえで、もう一度初期のビートルズを聴いてみると、以前聴いていたときより格段に上手いという印象をかんじました。もちろん、超絶技巧とはそういった上手さではないのですが、コンパクトによくまとまった力のあるバンド・サウンドという気がしました。

 このコンパクトでまとまったサウンドという点でいえば、ビートルズって、エルヴィス・プレスリーというよりは、バディ・ホリーからより多くのものを受け継いでいたのかもしれません。

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2007年11月13日

ジョン・レノンの最高傑作は?

 ひきつづいて中山康樹の『超ビートルズ入門』を読んだ感想です。
 まず当初の目的の、どのアルバムを揃えれば全部の曲が聴けるかという点を調べたのですが、結果からいえば、現在ビートルズの曲をすべて聴くには、オリジナル・アルバムのほかに『パスト・マスターズ Vol.1 / 2』という二枚のコンピものを聴けば揃うようです。(『アンソロジー』のシリーズが別にありますが)
 しかし、この『パスト・マスターズ』という二枚も、私感でいえば落ち穂拾い以上の意味はかんじられないコンピですね。収録曲をみてみると、これらの曲をこの順序で聴きたいかといわれると、はっきりいってそうはおもえなかったりします。アルバム未収録の曲を集めたんでこうなったのは理解しますが。
 ともかく、近くの TUTAYA へ行ったらオリジナル・アルバムはもちろん、この『パスト・マスターズ Vol.1 / 2』も揃っていたので、わりと簡単にビートルズのオリジナル音源はぜんぶ聴けるとわかり、さっそく何枚か借りてきました。

 さて、この『超ビートルズ入門』を読んでなるほどと思った点と、あまり同意できない点を書きます。
 まず、なるほどと思った点。それは、ジョン・レノンの最高傑作は『ア・ハード・デイズ・ナイト』であるという指摘です。
 たしかにそう言われれば、そうかとおもいました。
 といっても個人的には『ジョンの魂』を強く推したいのですけど、たしかにあれはビートルズのジョン・レノンというキャラクターを前提として初めて存在する作品だといわれれば、そういう部分もあるかもしれないという気がします。『ダブル・ファンタジー』も、ジョンの曲だけ選んで並べて聴けば、ジョン・レノンというキャラクターを前提としなくても聴ける、いい曲の多い優れたアルバムだとおもいますが、たんにアルバムが作品として優れているというだけでなく、ジョン・レノンという人の勢いの頂点という意味も含めていえば、やはり『ア・ハード・デイズ・ナイト』の頃のジョンが一番凄かったんじゃないかというのは、納得できる指摘です。
 ぼくはビートルズは後から一気に、順番もめちゃくちゃに聴いたもんで、この頃はジョンに勢いがあり、この頃はポールがすごかったなんていうことはまったく考えずに聴いていたのですが、たしかにそういう点を注意して見てみると、ビートルズの初期、『ア・ハード・デイズ・ナイト』を頂点とするあたりはジョンの個性がビートルズをリードしていて、それが後期に入った頃には精彩が失われるのがよくわかります。

 続いて、あまり同意できない点です。
 さて、この『超ビートルズ入門』、ビートルズの入門者が聴くべきアルバムの順番が紹介されているんですが、ぼくはまったくこの順序に賛成できませんでした。
 これは、リスナーがビートルズがリリースした曲をすべて聴くことを前提として、聴くべき順序を紹介しているんですが、はたしていままでビートルズを知らなかったリスナーで、最初からビートルズのアルバムを全部聴こうと決めてから聴きはじめる人なんて、そんなにいるもんなんでしょうか?
 ふつう、まず良さそうなものから聴いてみて、気に入ればその次、その次と聴いていって、結果的に全部聴くことになるかもしれないし、途中で飽きるかもしれないっていう聴きかたのほうが正常じゃないでしょうか。
 筆者はビートルズを聖域にするなというのですが、そのかわりにビートルズをお勉強の対象に化そうとしているように感じます。つまり、まずビートルズの全体像を掴もうなんて、受験勉強でビートルズを聴くような発想で、落ち穂拾いの寄せ集めでしかない『パスト・マスターズ Vol.2』や、『マジカル・ミステリー・ツアー』のようなアルバムから聴かせようとします。そして結局は『アビー・ロード』より先に『レット・イット・ビー』を聴かせたがるのです。
 でも、こういう場合、紹介者っていうのはビートルズのいちばんおいしい部分を紹介するのがつとめなんじゃないですかね? だいたい『レット・イット・ビー』が一番売れてるなんていうのは、みんなビートルズのアルバムでどれがいいのかわからないんじゃないですか?
 ビートルズのアルバムでどれが傑作かというと、評論家はみんな『サージェント・ペパーズ……』をホメますけど、あれって本当にそんなにいいアルバムですかね? サウンド作りが革新的だったことは認めますけど、曲の点からいうとビートルズのアルバムのなかでは、そんなに親しみやすい名曲がそろってるアルバムじゃないですよ。少なくとも初心者にビートルズのアルバムを全部聴かせたら、あれが一番いいと第一印象でおもう人って案外少ないんじゃないですかね。
 ビートルズの入門書を書くなら、どれがいいアルバムかを紹介して、それを勧めるべきなんじゃないですかね。

 といったところで、この項はまだつづきます。
posted by aruka at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ポピュラー音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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