2007年11月04日

巨匠の時代・小ツブの時代

 ぼくはずっとジャズ=フュージョン系の音楽を中心に聴いてきて、わりと最近になってクラシック系の音楽も並行して聴きはじめたのですが、クラシックについて書かれた本を読んでいると、ジャズとクラシックのあいだにも妙な共時的現象がおきているように感じる部分があって、興味深いものがあります。
 最近、中野雄さんの『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』という本を読んだのですが、それにこんなことが書かれていました。
 クラシックの演奏家で、いわゆる「巨匠」と呼ばれる人がいたのはだいたい二十世紀の前半までで、1950年代あたりを最後にして「巨匠」は姿を消していき、新しく登場する演奏家たちはどんどん小ツブになっていくのだそうです。これはどうもジャズを聴いていても、ほぼ同じように感じる部分です。
 たとえば指揮者でいうと、「巨匠」といえる指揮者はフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、ブルーノ・ワルターといった人たちで、この人たちは1960年代に入ると姿を消していき、しかしその後につづくカラヤンやベームの世代までは、指揮者はオーケストラの団員たちに畏怖されるような特別な存在ではあった、しかし、その後の世代の指揮者となると、オーケストラの団員にとって一緒に音楽を作っていく仲間か、せいぜいその音楽をどう演奏すればいいのか解説してくれる人というかんじになると、これは有名オーケストラの団員へのインタビューのなかで聞き出しています。
 さらに、器楽演奏者となると、最近の演奏者は、テクニックという面にかんしていえば、むしろ過去の巨匠以上の優れた演奏テクニックを身につけている人が多いのだそうですが、しかしそのテクニックで伝えるべき内容が何もないか、あってもすごく貧弱という演奏者ばかりが増えているのだそうです。
 これなどはジャズ=フュージョンの世界でもそのまま当てはまるような状況だとおもいます。
 さらにいえば、こういった現象はジャズ以外のポピュラー音楽にもある程度あてはまる部分があります。たとえばロックの場合、録音技術の発達によりいろいろごまかしがきくようになったため、演奏家のテクニックはむしろレベルダウンしているとおもいますが(下手でも立派にきこえるようにできるようになったため)、ビートルズやストーンズらがいた1960年代から、どんどんミュージシャンが小ツブ化してきているのはあきらかでしょう。あるいはR&Bやソウルといったブラック・ミュージックの分野でも事情は同じでしょう。

 しかし、なぜクラシック、ポピュラー音楽に関係なく、おなじような現象がおきているんでしょうか。
 さきの中野雄さんの『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』では、このような説明のしかたをしています。
 つまり、最近の演奏者というのは音楽学校出のエリートであると。学校で合理的な演奏法や指揮法を教えてもらい、練習して習得する。もっともはやく上達する近道を先頭をきって走り、コンクールで入賞して世に出るというのが、彼(彼女)らが出世してきた道です。こういうコースをたどれば、高度なテクニックを確実に身につけることができますが、そうやって身につけた彼(彼女)らのテクニックや奏法というのは、つまりは学校で教えられた内容に、せいぜい自分なりのアレンジを加えたていどのものになるということです。
 対して、過去の巨匠というのは、誰かにとくに奏法を教えられたわけでもなく、それらを先人たちから自分で盗んだり、あるいは見い出したりしてきて、そしてとくにコンクールで入賞するなどという手っとり早い出世コースがなかった時代に、なんだかわからないコースをたどって頭角をあらわしてきた人たちなんだそうです。
 それは、おそらく音楽の教育システムが現在のように確立していなかったので、そうするよりほかなかったという理由も大きいんでしょう。それだけに遠回りもしたかも、非合理的な成長のしかたをしてきたかもしれませんし、そのためテクニック面では最近の演奏者に劣ることもあるのかもしれません。が、そうして彼らが迷いながら見いだした彼らの方法というのには、強烈なオリジナリティがあるということなんだそうです。

 ぼくはミュージシャンではないので、この理由のほうは正しいのかどうか判断がつかないのですが、理由はどうであれ、小ツブ化のほうは実感としてかんじています。
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2007年11月01日

入門者向けのオペラ


 『フィガロの結婚』を聴いていておもうことは、もしオペラというものを聴いてみたいという人がいたら、これから聴いてみるのが一番いいんじゃないかということです。
 それはぼくが言わなくても、いろいろな本とかで、オペラ入門の推薦作としてはヴェルディの『椿姫』とかプッチーニの『蝶々夫人』とかとならんで、この作があげられていることが多いようです。
 でも、ぼくとしては『椿姫』や『蝶々夫人』は入門作としてはあまりよくなく、やはり『フィガロの結婚』がいいとおもうわけです。
 まあ、このブログを読んで参考にしてオペラを聴きはじめるという人はまずいないでしょうが、自己満足として、ここでその理由を書いてみます。

 個人的に、それほどクラシックを聴いていたわけではなく、ポピュラー系の音楽を聴いてきて、オペラを聴きはじめたときに、いちばん違和感をかんじたのはあの歌い方です。なにもそこまで声を張り上げなくたっていいじゃないか、というのが正直な印象で、たしかにマイクが無かった時代にはあの声の出しかたが必要だったのはわかるけど、時代が変わったんだから歌い方を変えたっていいんじゃないかとおもったんです。
 つまり最初のうちは、聴き慣れてないせいで、あまり魅力的には感じられなかったわけです。
 それでも、聴きつづけていけばだんだんこの歌い方の魅力というのもわかってくるのですが、たぶん最初は違和感をかんじるほうが普通なんじゃないでしょうか。普通に育ってきた人なら、ポピュラー音楽の歌手の歌い方のほうに耳が慣れているわけで。
 というわけで、ぼくの場合、最初は歌手に多少の違和感をかんじながらもオーケストラとか音楽の魅力にひかれてオペラを聴いていったわけですが、そういう耳で聴くと、ワーグナーとかは歌手に多少の違和感をかんじていても、オーケストラの魅力で聴けるわけです。
 しかし、ヴェルディとかプッチーニとか、イタリア系のオペラは、これは歌手の魅力で聴くものであって、あの歌い方に違和感をかんじているうちは、聴いたってそんなに楽しめないんじゃないかというのが、ぼくの実感としての意見です。だから『椿姫』や『蝶々夫人』は入門作としては適当でないとおもうわけです。
 ぎゃくにいえば歌手の魅力にとりつかれると、今度はイタリア系のオペラこそ最高だと感じる人が出てくるのも、それはそれでわかります。
 だから、ポピュラー系の音楽を聴いてきた人がオペラを聴く場合、最初のうち、あの歌い方に多少でも違和感があるうちはイタリア系のオペラは無理に聴こうとはせず、ああいう歌がもっと聴きたいとおもったところで聴きはじめるのが、おそらくいいタイミングなんじゃないかとおもいます。
 もちろん、いままでずっとクラシックを聴いてきて、歌曲などは好んで聴いてきたのであの歌い方には魅力はかんじるものの、オペラは一度も聴いたことがなかったという人ならいきなりヴェルディから入門でもいいわけですが、はたしてそんな人ってそんなにいるんでしょうかね。

 じゃあ、最初はどれから聴いたらいいのかということですが、最初はあの歌い方などに違和感があっても親しみやすいオペラを、できるだけ何度も何度も繰り返し聴いて、あの歌い方に慣れてしまうというのが、いちばんいい入門法だとおもいます。慣れてくれば、あの歌い方の魅力もわかってくるもんです。
 では、それには何がいちばん適当かというと、やはり『フィガロの結婚』だとおもうわけです。
 といっても、もちろんモーツァルトが嫌いだという人なら別ですが、まあたいていの場合、モーツァルトを大嫌いだという人は少なく、オペラは聴いたことがない人でもモーツァルトの交響曲や協奏曲などは聴いたことがあり、好きな曲もあるという人は多いです。
 それならまず『フィガロの結婚』を、歌手がソロをとる協奏曲のようなつもりでくり返し聴くのが、いちばんいい入門法じゃないかとおもうわけです。
 なにしろ、オペラという形式はモーツァルトがもっとも得意とした音楽形式で、つまりモーツァルトの音楽のいちばんおいしい部分といえます。それに『フィガロの結婚』というオペラは、極端にいえば歌詞やドラマの部分をまったく無視してしまって、たんに音楽として聴いたとしても、それはそれで楽しめる音楽です。モーツァルトが一番あぶらが乗り切ったともいえる時期の作品ですから親しみやすく魅力的な曲がそろっています。
 おまけにこの『フィガロの結婚』はおそろしく敷居が低いというのも特徴だとおもいます。つまり、いくら芸術性が高くても、あまりにも深刻で重厚な作品や、ベタベタのメロドラマみたいなオペラだと、それほど日常的にくり返し聴けないとおもうのです。どうしても構えてしまったりします。
 ところが『フィガロの結婚』なら、基本はラブコメだからまったく構えなくていいし、電車のなかで聴いてもいいし、家に帰ってコーヒーでも飲みながら聴いてもいい、掃除をしながら聴いても、キッチンで料理や洗い物をしながら聴くのにも適したタイプの音楽です。
 こういう敷居が低くて気軽にくり返し聴けるタイプのオペラでまずあの歌い方などに耳を慣らしておいて、慣れてきて、オペラの魅力がわかってきたところで、いろいろ聴いてみるといいとおもうわけです。

 ただ、この前も書いたとおり、『フィガロの結婚』を音楽だけでなく、オペラとしてドラマの部分も含めて楽しむには、やはり映像か実演で舞台を見ないとほんとうのおもしろさはわからないとおもいます。
 だから、最初はCDだけ聴いて耳を慣らしておくにしても、ある段階でやはり映像か実演で観たいところです。
 一番安上がりに手軽くすませるにはテレビでの放送を待つという方法があります。これも『フィガロの結婚』が入門者向けにいいろころで、すごくポピュラーな作品なもんで、わりとよく放送します。ぼくがオペラに興味をもって2年弱ですが、その間にもすでにNHKのBSで2種類の映像を放送しています。大きな図書館などに行けばDVDも貸しているかもしれません。

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2007年10月28日

クラシックにおけるオペラ

 オペラを聴きはじめてわかったことは、本場の西洋においてクラシックの中心はオペラだということです。日本ではクラシックのCDの紹介本などでオペラを扱ってないものも平気で出ているのですが、ほんらいこれはおかしいようで、クラシックというのは交響曲もその他のものも、すべてオペラが中心にあってこそ成立している世界のようです。
 ではなぜ日本ではオペラがそれほど人気が出てこなかったのかといえば、やはり日本においては音楽はレコードという形で輸入されてきたので、レコードだと交響曲や協奏曲の魅力はわかっても、オペラの魅力はわかりにくかったからではないでしょうか。
 日本ではまだ専用のオペラ劇場もない状態ではありますが、おそらくDVDなどの普及によって、日本においてもだんだんオペラはクラシックの中心になっていくんじゃないかとおもいます。

 とにかく、オペラが中心だと知ってみてみると、クラシックというのはよくわかってくることがあります。
 作曲家にはオペラに向いている人といない人とがいて、例えばベートーヴェンなどあきらかに向いてない人の代表なんですが、それでも一つだけ『フェデリオ』というオペラを書いています。この『フェデリオ』はベートーヴェンの作品のなかではとくにベスト1とかにあげるべき大傑作というほどのものではないような気がするのですが、ベートーヴェンがこのオペラにかけた情熱たるやなみなみならぬものがあって、一つの作品にかけた情熱の量でいったらベートーヴェンの全作品中これが文句ナシのベスト1じゃないかとおもわれるほどです。
 シューベルトも歌曲が得意だったわけなんで、オペラも書けそうな気がするんですが、どうもなぜかオペラの適性はなかったようで、しかし失敗しても失敗してもオペラを書きつづけたようです。
 じっさいクラシックの作曲家はオペラの成功によって最も名声も評価も収入も高まったようで、オペラを成功させることが作曲家としての成功への王道だったようです。
 その点モーツァルトはオペラを得意とする作曲家で、一般的にモーツァルトの作品中もっともモーツァルトの良さが一番出てる形式といったら、第一にオペラ、第二に協奏曲とするのが普通でしょう。
 だとすれば、本来モーツァルトのようなタイプの作曲家はオペラをバリバリ書いていけば他はべつに書かなくてもいいくらいのはずです。しかし、モーツァルトの曲をみるとオペラの数はわりと少なく、交響曲とか弦楽四重奏曲とかありとあらゆる種類の曲を数多く書いています。これはなぜなんだろうという疑問がわきます。
 それでみてみると、どうもオペラの上演というのは、現在でいえばハリウッドで映画を作るようなもので、才能や実力があればいいという世界ではなかったようです。つまり、非常に多くの人やカネがかかわり、また地位や名声にも直接かかわるだけに、嫉妬や妨害行為も呼ぶようで、そういった騙しあい足を引っぱりあうドロドロとした世界でプロジェクトを実現させる政治力のようなものがないとうまくいかない世界だったようです。(考えてみればワーグナーだってルードヴィッヒ二世という国王が熱狂的なパトロンになったからこそ『ニーベルングの指輪』を完成させられたわけです)
 モーツァルトはどうも若い頃にそういった点で失敗し、それ以後オペラからはいったん遠ざかざるをえなかったようです。しかし、やはり評価を得るにはオペラでの成功が不可欠なわけで、なんとかオペラを成功させたい、その思いで起死回生を計るべく力を込めた一作が『フィガロの結婚』だったようです。
 このオペラの台本選びのためにモーツァルトは数百冊の台本を読んだといいますから、その情熱がうかがえます。
 で、結果はどうだったのかといえば、その後、それほどはオペラを作曲する機会にめぐまれてない点からみて、そうは成功しなかったようです。
 それはそうでしょうね。これはぼくがみてもその責任はモーツァルトにあるとおもいます。というのはもちろん、芸術的価値とは別のレベルでの話ですが。
 『フィガロの結婚』という劇はもともと貴族(金持ち)をおちょくってあざ笑う内容の劇なんです。モーツァルトは台本を直してそういう部分を抑え、ラブコメ度を高くしていますが、もともとそういう内容なんで、そういう要素は無くなりはしません。モーツァルトのパトロンにしてみれば、当然自分がおちょくられて笑われるようなオペラを喜ぶわけがないと、常識でかんがえてもわかります。
 けれど、本などみると、この時代はモーツァルトにとって生涯でもっともパトロンとの関係がうまくいっていた時代で、だからこそ起死回生・一発逆転の勝負をかけたオペラ制作に踏み切ったようです。
 そんな状況でこんなパトロンを怒らせるような内容のオペラを、それも数百冊も台本を読んだ中で、選びに選びぬいたすえに、よりによってこれを選ぶモーツァルトという人の人間性というのに、ぼくはたいへん興味を感じます。
 これってやっぱりワザとなんでしょうかね。それとも、そんなことにまったく気をつかわない人だったんで、そんな意識をせずに単におもしろかったからという理由で選んでしまったということなんでしょうか。どちらにしろ、ふつうの人の感覚とはかなり違うでしょう。
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2007年10月27日

モーツァルトのオペラ、CDかDVDか。

 モーツァルトのオペラを聴いていて思うことは、モーツァルトのオペラの場合、映像か実演で観ておかないとおもしろさは理解しずらいんじゃないかということです。
 というのは、去年ワーグナー中心にオペラを聴きはじめた頃はそんなことは考えなかったということです。
 そもそもぼくは音楽を観賞する場合、映像つきで観賞することはほとんどありません。ジャズとかフュージョン系の音楽でもライヴを録画したDVDとか出ていますし、持っているのも何枚かありますが、どうも映像というのは一回か二回観ればそれで満足してしまい、後はCD、あるいはDVDでも音声だけ別のメディアにダビングして聴いたりしています。
 映像だと見ていなきゃならないけど、音なら「ながら聴き」もできるせいなのか、わかりませんが、どうも話をきいてみるとぼく以外でもそういう人って多いようです。
 だからワーグナーを聴くときも、映像付きであれば台本を見なくても字幕でストーリーがわかるという利点はあるにしても、たいていはCDで観賞していたし、それでいいとおもってました。
 それに、一つにはワーグナーのオペラというのは、音楽自体が場面や情景を演出しており、目を閉じて聴いていれば風景や人物の姿が目に浮かんできます。そのように音楽が書かれているわけです。そして映像付きで観た場合、この目を閉じて浮かんでくる情景に匹敵するほどの映像というのはまずありません。
 これは舞台の実演を観るのであれば話は別ですが、実演を観るのと、実演を撮影した映像を観るのとでは、まったく別物であるとぼくはおもいます。例えば実演であれば、自分の席から舞台を観ていて飽きることはありませんが、もし実演を収録した映像で固定した位置からのカメラでずーっと舞台を撮影しているだけの映像なんて見せられたら退屈で仕方ないでしょう。やはりカメラ割りとかして、映像作品として作る必要があると思うのです。そして、そうなった場合、やはりそれは映画などと同じ映像作品という基準で観られるものになるんだとおもいます。となると、ワーグナーの音楽に匹敵する映像というのは、やはりそうそうないわけで、それなら大抵のばあい目を閉じながらCDを聴いていたほうがいいとおもうわけです。

 しかし、モーツァルトのオペラの場合、どうもそうともいえないような気がしています。たぶん何度かは映像や実演で観ないとおもしろさがわからない気がするのです。
 というのも、モーツァルトのオペラのおもしろさは舞台上の登場人物の動きやスチュエーションと密接に結びついている気がするのです。
 たとえば『フィガロの結婚』でスザンナが一人で歌っている場合でも、ケルビーノが椅子の後ろに隠れているをゴマカしながら歌っている歌であったり、あるいはケルビーノを着せ替えしながら歌っている歌だったりします。それは映像で見ればそうわかりますが、CDで音楽だけ聴いていれば、単にスザンナが一人で歌っているというだけにしか聴こえないわけです。そして、こういうのって、台本を見ながら聴いていて文字で説明されるより、登場人物の動きが見えたほうが、やはりスザンナがゴマカしている様子や、着せ替えしている様子を見るのがおもしろいわけです。
 ところで先述したとおり、映像でオペラを観賞する主なメリットって、字幕付きで見れば台本を見なくてもストーリーを理解しながらオペラが聴ける点だと思っていたのですが、どうも、少なくともモーツァルトの場合、字幕は無くてもいいような気がします。
 というのは、たんに中古屋で輸入盤のDVDがすごく安く売っていたので買ってきて観てみたのですが、もちろん日本語の字幕なんてなくて歌詞なんてわからないのですが、それでも登場人物の動きなどを見ていればどういう場面なのかはわかるし、それで充分おもしろいのです。
 もちろん、そんな話なのかがわからなければ、それがどんなシーンなのかもわからないのかもしれませんが、モーツァルトのオペラの「あらすじ」くらいいろんな本にも書いてあるし、ネットを検索しても簡単に見つかります。そして「あらすじ」だけ頭に入っていれば、あとは字幕なしの映像を見てもけっこうわかります。
 では、モーツァルトのオペラは、そうやっていつも映像付きで観ているのかというと、やはり数回映像付きで見て、その歌が歌われるのがどんな場面なのかが頭に入ってしまうと、CDのほうがいいという気になるのですが。

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2007年10月21日

モーツァルト伝説をすこし剥ぐ

 モーツァルトのオペラを聴いていると、いままでこの人にまとわりついていた様々なことが、たんなる伝説にすぎないんじゃないかとおもえてきました。なんていうか、分厚い伝説の虚飾の向こうからモーツァルトという存在が、人間として見えてきた気がしたわけです。
 しかし、なんで人は人を伝説にしたがるんでしょうか。あきらかに偶発的にそうなったというのではなく、意図的なものをかんじます。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチなんて人をみると、ぼくは暗澹たる気持ちになります。あの時代におきた様々なことがぜんぶ彼に結びつけられて、意図的に化物のような存在に仕立てあげられてしまっているのを感じずにはいられません。が、話がそれるのでその話はやめておきましょう。
 伝説がほんとうのことを隠してしまうのは当然のことで、伝説がまとわりつきすぎると、その人がどういう人なのかということがわからなくなります。モーツァルトの場合も典型的にそうなんじゃないでしょうか。少なくともぼくにとってはそうでした。
 そこでここではモーツァルトにまとわりついた伝説を、ぼくが気づいたものだけ、少しだけ剥いでみます。

 まずモーツァルトにまとわりついた伝説をひとつあげるなら、彼が「早熟の天才」という伝説があるとおもいます。
 はたして、モーツァルトって早熟の天才なんでしょうか? なんだかモーツァルトというと、きわめて若くして交響曲を作曲したりして、超人的な能力をもった天才児みたいなイメージで語られているのをよくみかけたんですが、調べてみるとそうでもないような気がしてきました。
 というのは、モーツァルトの作品で現在もよく演奏されるものを見てみると、どれも年がいってから作曲したものが多いのです。といってもモーツァルトは36歳くらいで亡くなってますから、それでも若いといえば若いのですが、早熟の天才といった場合は普通はもっと若い時期にピークを迎えた人のことを指すんじゃないでしょうか。
 例えばポピュラー音楽の分野でモーツァルトと同じくきわめて若くして世に出た人といえば、たとえばスティーヴィー・ワンダーがいますが、スティーヴィー・ワンダーのピークがいつの時期かと問われればたぶん20代の前半、つまり『Music of My Mind』から『Key of Life』に至る5作品あたりを作っていた時期をあげるのが普通でしょう。早熟の天才というとよく引き合いにだされるランボーやラディゲの場合20歳前後がピークとなります。(もっともラディゲは夭折したので生きてたらどうなっていたかはわかりませんが)
 しかしモーツァルトの場合、代表作といわれるものは30歳以後に書かれたものが大部分じゃないでしょうか。たしかにモーツァルトも15,6歳頃には交響曲など書いてますが、それはほとんど演奏される機会のない、モーツァルトのなかでは人気のない曲です。
 それでもモーツァルトがきわめて若い時期から作曲をしていたという事実はありますが、それは彼の早熟性が理由というよりも、父親の英才教育の成果によって、若くしてあるレベル以上の技量まで習熟したためといえそうな気もします。つまり、モーツァルトほどの天才でなくたって、父親が子供に徹底的に英才教育をすれば、十代で交響曲を作曲するくらいにまではいくと思うのです。その後大成するかどうかは別の話ですが。
 よくいるでしょう。子供の頃は天才・神童と騒がれて、大人になったらただの人になるケースが。
 そうなるとモーツァルトを「早熟の」天才とするのは間違いで、別にそんなに早熟というわけではなかったんだという気がします。過剰に「若くして交響曲を書いた」とか早熟ぶりを煽るのは、やはり意図的に伝説化してるんじゃないでしょうか。

 それから、どうもモーツァルトについてけっこうヘンな伝説を広げているようにかんじるのが、例の『アマデウス』という映画(もとは劇)です。
 というのは、この映画がわるいとも単純にはいえなのですが、どうもこの映画は事実を誤解させる効果があるような気がするのです。
 いったい、あの映画を観たことがある人は、あの映画がどんな話だったかおぼえているでしょうか。才能のない二流の音楽家のサリエリが、天才で大音楽家のモーツァルトに嫉妬して殺す話だと思い込んでいる人はいないでしょうか?
 どうも、あの映画を観た人は、そう思い込んでいる人が多いようなのです。
 でも、これはとうぜん、天才の評価高い大音楽家のサリエリが、二流音楽家のモーツァルトに嫉妬して殺害する話なわけです。
 モーツァルトが二流なわけないじゃないかという人がいるかもしれませんが、当時の評価はそうだったわけです。当時の評価と後世の評価がまったく違うというのは芸術の世界ではよくあることでしょう。
 となると、ではどうして大音楽家のサリエリが二流のモーツァルトの才能に嫉妬するのか、動機が問題になるわけですが、あの映画をきちんと観るとその動機、殺意を抱くにいたるサリエリの心理も描かれているのがわかります。
 とはいえ、個人的にはそれでもやはりあの映画のモーツァルトとサリエリの関係は誤解されても仕方のないところがあると思います。というのは、どう動機を説明したところで、もともと大音楽家のサリエリが二流のモーツァルトの才能に嫉妬して殺すという設定に根本的に無理があるわけです。これが逆にモーツァルトがサリエリに嫉妬して殺意を抱く話ならいくらでも作れるわけですが、常識的に考えてサリエリにモーツァルトを殺す動機なんてあるわけないんです。
 その無理を通すためにあの映画はサリエリの心理を細かく描きこんでいますが、観てからしばらくたつとそんな細部は忘れてしまうもんで、さらにモーツァルトは天才でサリエリは忘れられた作曲家だという思い込みがあるものだから、二流のサリエリが天才モーツァルトに嫉妬したんだと間違えて記憶してしまうんだとおもうわけです。

 それに、あの映画に出てくるモーツァルトのハチャメチャな性格がありまして、これもモーツァルトはああいう人なのかというと、間違いともいえないのですが、そうともいいきれない面があるようです。
 というのは、どうもあれはモーツァルトが自ら道化役を演じていたからだという面がありそうです。
 モーツァルトが活躍していた時代には音楽家の評価はパトロンとの関係で決まるところがありました。といっても、もちろん大音楽家であればパトロンからの尊敬も得られるわけで、たとえばサリエリのような大音楽家なら椅子にふんぞりかえっていても充分な尊敬と評価を受けていたでしょう。
 しかし困るのは二流でありながら、なんとかこの道で生きていかなきゃならない人たちです。では黙っていたのでは才能・実力を評価してもらえない二流音楽家がパトロンにとりいるにはどうしたらいいかというと、自分から道化役を演じて、笑いをとってパトロンにとりいるのは手っとり早い方法なわけです。
 例えば二十世紀の例でいえば、初期のジャズマン、ルイ・アームストロングとか彼の世代のジャズマンにはかなり大道芸人的な資質をもった人が多いです。というのは、彼の世代においてはいくら天才的な才能と実力をもっていたとしても、黒人ミュージシャンが椅子にふんぞり返っていて白人の聴衆から支持されるような時代ではなかったわけで、そんな時代に音楽で食っていこうとおもったら、そういった芸人根性も必要だったわけです。
 そして、ルイ・アームストロングの同時代にも、たんにルイ・アームストロングらの演奏を下手くそにコピーしたような演奏しかできなかった白人ジャズマンはいまして、しかし彼らは椅子にふんぞり返っていても天才として評価されていたわけです。白人だからです。しかし時代が過ぎると、そうしたかつて天才として評価されていた白人ジャズマンは忘れられて誰も見向きもしなくなり、芸人根性を発揮しなければ音楽を聴いてもらえなかったルイ・アームストロングが天才として聴きつがれていくわけです。
 そういうもんでしょう。
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2007年10月13日

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を見ておもったこと

 去年、このブログを書き始めた頃、ちょうど久々にクラシックを、それも初めてオペラというものを聴きはじめた頃だったのですが、しばらく聴いているうちにだんだん飽きてきてまた以前のとおりジャズ=フュージョンばかり聴くようになり、数カ月前から一回りしてまたオペラを聴きはじめました。

 今度はモーツァルトを聴きこんでみまして、いろいろとおもしろいことがわかり、モーツァルトというのはオペラを聴かないとわからないものだと実感しました。それも、できれば2、3種類以上の演奏を試聴したほうが良さそうです。というのも、一つだけだと、その演奏者・演出家の解釈のほうが見えてしまうことも多いようで、複数試聴することによってそれぞれの演奏の向こうに作者モーツァルトの意図が見えてくる気がするのです。
 思えばモーツァルトという人は伝説が多すぎてよくわからない人でした。例の早熟の天才説も、超人的な能力を宣伝するばかりでどんな人だったのかはわかりません。いっぽう映画の『アマデウス』あたりから出てきたとおもわれる、ハチャメチャな人のイメージもあって、これもこれでなんだかわかりません。(でも、よくみてみると、モーツァルトを早熟の天才とする説にも、あの『アマデウス』のイメージにも、かなり疑問があることがわかってきました。これは後日説明します)
 一方、モーツァルトという人の姿が見えてきたとおもったのは、先述したとおり彼のオペラです。とくに『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』のダ・ポンテと組んだ3作は、台本のほうもモーツァルトがかなり口を出していて、事実上共同制作だったようで、この3作を何種類かの演奏でみることでモーツァルトという人の姿が見えてきた気がしました。
 とくにぼくがモーツァルトという人の姿が見えてきたとおもったのは、最近、『ドン・ジョヴァンニ』を、例の有名なフルトヴェングラーが指揮したオペラ映画をみたときです。ぼくは『ドン・ジョヴァンニ』を最初、NHKのBS-2でやっていたハーディング指揮の舞台の映像で見たのですが、そのときはいまいちピンとこなかったのですが、今回みてみて『フィガロの結婚』から『コジ・ファン・トゥッテ』までつながった一本の線がみえてきた気がしました。といってもフルトヴェングラーのオペラ映画の演出のほうがモーツァルトの本来の意図にそったものだといいたいわけでもないのですが、複数の演出でみてみることによって、その奥の作者モーツァルトの意図がみえてきた気がしたのです。
 おもうに、モーツァルトという人はかなりアクの強い人物で、すごく大人だとおもいます。たとえばずっと長生きしたベートーヴェンと比べると、ベートーヴェンはモーツァルトよりずっと子供っぽい、より正確にいえば青年的な人という気がします。ベートーヴェンが「男とは、女とは、愛とはこうあるべき」などと青臭い理想を主張しそうなのに対して、モーツァルトは冷徹でリアリステックな視線で「人間とはこういうもの」と突き放して観察している気がします。どこか、うわついた理想などで曇らされていない絶望をとおりぬけたリアリズムをかんじるのです。

 どうして『ドン・ジョヴァンニ』を二種類の演出でみてそう感じたのかというと、どうも最初にみたハーディング指揮の舞台の演出は、主役のドン・ジョヴァンニという人を悪人というイメージで描こうとしていたように感じました。そして、そういう話だとおもってしまうとピンとこなかったのですが、フルトヴェングラーのオペラ映画でシエピの演技をみると、やはりカッコイイんですね。たぶんこっちのほうが本来の作者の意図で、やはりドン・ジョヴァンニはカッコよくて、さらにいえばコミカルじゃないといけないとおもったのです。
 そもそもモーツァルト自身はこのオペラを喜劇だといっているんですね。これを言葉どおりとらず、『ドン・ジョヴァンニ』は喜劇ではなく、モーツァルトのデーモニッシュな面が出た作品としている評論などをよく見るのですが、たしかにそういう面もあるものの、基本的にはやはりこれは喜劇だとおもうわけです。ドン・ジョヴァンニという公序良俗など笑い飛ばすようなカッコいいヒーローを主人公にしたコメディです。
 例えば主役のドン・ジョヴァンニに対してレポレロという従者が出てくるわけですが、これはドン・キホーテとサンチョ・パンサみたいなコンビなわけで、夢中に女を口説くジョヴァンニにレポレロがツッコミを入れていくという漫才みたいな会話も出てきます。
 全体としては、なんとなくアニメの『ルパン三世』に構図が似ているとおもいます。果てしなく追いかけてくるドンナ・エルヴィラはちょうど銭形警部のようなもんで、ここにもコメディの要素があります。ルパン三世がお宝を狙うのに対して、ドン・ジョヴァンニは女を狙うわけですが、さまざまな計略や手練手管でモノにしようとするところは同じです。つまり、ドン・ジョヴァンニはカネや権力・暴力で無理やり女を従わせる人ではなく、あくまで自分が行動して女を誘惑する人であり、いわゆる悪人のイメージとは違うとおもいます。
 ドン・ジョヴァンニを捕まえようと追ってきたマゼット率いる集団に、ジョヴァンニは逆に一緒にあいつを捕まえようと協力を申し出てしまって、集団を率いてテキト−に指揮してしまって煙にまくところなど、サスペンスというより、やはりギャグとしてみるべきでしょう。レポレロに身ぶり手ぶりだけさせて、セリフは自分が隠れてしゃべって、口パクで女を誘惑するところなんかも、典型的なギャグでしょう。

 それに対して、ドン・ジョヴァンニを悪人ぽくイメージさせるエピソードとしては、冒頭近くのドンナ・アンナとの一件、つまり強姦未遂から殺人といった行為を犯しているという点があるでしょう。
 でも、これも考えてみればはたして強姦未遂なのか、殺人なのかという点はあいまいです。ドンナ・アンナの件に関していえば、ジョヴァンニは無理やり犯そうとしたわけではなく、婚約者のドン・オッターヴィオに化けて誘惑しようと試み、それがバレたということで、その後の物語をみればドンナ・アンナはむしろオッターヴィオ以上にジョヴァンニに男性の魅力を感じるようになってしまいます。
 また、騎士長を殺した件に関していえば、これは騎士長のほうが先に剣を抜いたために、ジョヴァンニも騎士のプライドとしてこれに応じて決闘になり、結果ジョヴァンニが勝ってしまったために殺してしまったわけで、これを一般の意味で殺人としてみると、むしろ正当防衛の要素もみてとれないわけではないです。なにより、ジョヴァンニが犯した決定的な罪ともいえるこのシーンを、しかしモーツァルトはさほど劇的に盛り上げてなく、簡素な音楽しかつけていない点に作者の意図をみるべきでしょう。

 では、なぜぼくがジョヴァンニをコミカルなヒーローだとみるのかというと、その理由は、彼が公序良俗を超えた存在だからです。
 『フィガロの結婚』から『コジ・ファン・トゥッテ』までを視野にいれてみれば、モーツァルトのオペラにおいては、公序良俗、こうあるべきといったきれいごとや道徳、あるいは権威といったものは、つねに嘲笑される対象になってます。男女の関係はこうあるべき、愛とは清らかで美しいものであるべき……などと口先だけのきれいごとを並べていても、ほんとうは人間はこういうものだろ! と冷徹なリアリズムをつきつけ、世間の人々がいっているきれいごとを笑いとばしていくのがモーツァルトのやり方でしょう。
 だからこそ、世間の道徳・公序良俗といったものを超えて行動するドン・ジョヴァンニは、カッコいいヒーローでなければならないわけで、公序良俗に縛られた世間を笑いとばす者でなければならないわけです。

 そんなドン・ジョヴァンニがいきなり破滅するのがこのオペラのラスト・シーンなわけですが、しかしみているとドラマが彼の破滅へむけてなだれ込んでいくのではなく、このラストはまるでとってつけたように唐突な印象ががします。
 おもうのですが、このオペラのラストは当時の世間への妥協だったんじゃないでしょうか。このドン・ジョヴァンニのようなヒーロー像が当時の社会に受け入れられるとはおもえず、いちおう形だけ勧善懲悪の物語のラストのようにしたようにおもえるのです。
 なんていうか、このラストはどこかヘンなのです。
 最後の場面ではドンナ・アンナやオッターヴィオらが悪は滅んだと合唱するのですが、そもそも彼らは悪を滅ぼしたわけではなく、勝利なんてしていません。ジョヴァンニがいなくなったのは突然夕食の席に石像があらわれて地獄につれていってしまったからです。
 さてこの物語の後、彼らはどうするんでしょうか? ドンナ・アンナは秘かに魅かれいたジョヴァンニが滅んだ後、男性的魅力をかんじないオッターヴィオとしあわせに暮らせるでしょうか? ほんらい物語のセオリーからすれば、ドンナ・アンナとオッターヴィオが協力してジョヴァンニを倒し、その活躍ぶりからドンナ・アンナはオッターヴィオを見直し、抱き合ってエンディングというのがこういった物語のパターンで、そうすればいわゆる勧善懲悪の物語としてまとまるわけですが、そのパターンをわざと外してあります。
 ドンナ・エルヴィラはこれからは修道院に入って静かに暮らすといいますが、それくらいならジョヴァンニを追いかけまわしていたほうが楽しくてよかったんじゃないでしょうか。ルパン三世に死なれて途方にくれている銭形警部のようなかんじがします。

 実をいうと、この唐突なラストをみて、ぼくが真っ先に連想したのは1930年代末の日本映画です。『人情紙風船』とか『春秋一刀流』とかの名作です。
 これらの映画はコメディで、登場人物たちが権力者をあざ笑うかのような自由さで大活躍するのですが、ラスト近くになって急に追いつめられて状況に陥ってしまい、絶望的なエンディングを迎えます。それまでの自由な活躍ぶりからいって、唐突なまでに絶望的状況に陥ってしまうのが、異様な印象をあたえるのです。
 彼らが何でそんな映画を作ったのかといえば、当時の第二次世界大戦に突入しようとしていた日本の状況が影響していたとみるのは容易です。
 おそらく『ドン・ジョヴァンニ』がこんなラストになったのは、当時のモーツァルトの周囲に何かそういうラストを作らせるような状況があったんじゃないかとおもわれます。それが何だったのかはまだわかりませんが。
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2006年09月30日

ブルックナーを聴きはじめたこと

 ワーグナーのフォロワーのなかで、ブルックナーに興味がわいてきて、いろいろ聴いてみたりしてました。
 ブルックナーは前にも試しに少し聴いてみたことがあったんですけど、そのときはなんだかピンとこなくてすぐにやめました。あのハッキリしない始まりかたにしても、やたらに長くて不愛想な感じにしても、モーツアルトからベートーヴェン、ブラームスなどと続いていく交響曲の流れとは別のものという気がして、なんか親しみをもてなかったのです。
 けれど、ワーグナーを聴いた後に聴いてみるとすぐにわかってきて、やはりワーグナーの影響の強い人なんでしょう。
 しかし、ワーグナーの影響を受けながらも交響曲ばかりを書いたというのも不思議で、そのへんの謎にも興味をひかれてます。

 ブルックナーというと、大自然とか宇宙的といったイメージがあるようです。日本のクラシック・ファン、とくにブルックナーのファンは宇野巧芳という批評家の影響が強いらしいのですが、その人の本にそんなことを書いているので、その影響かもしれません。
 というのも、どうもぼくには交響曲というのはどこまでも人工的な建造物の極みみたいな気がするし、とくにブルックナーの交響曲はいかにも交響曲らしい交響曲といった感じで、大自然などというイメージはまったく湧きません。
 ぼくにはブルックナーの交響曲は音楽による巨大な建築物といったかんじに感じられます。

 しかし、かんがえてみると、交響曲ってかなり奇妙なものですね。
 日本人にとってもっとも有名なクラシックの曲って、たぶんベートーヴェンの「運命」だとおもいますが(あの「ジャジャジャジャーン」って聴けば、誰だって「運命」だってわかるでしょう?)、クラシックを聴く人はたいていあのへんから聴いていくので、なんだかわからないうちに「交響曲」ってものが刷り込まれてしまうから、別に変に思わないんだと思うのですが、もしそうでないとしたら、あれはかなり変なものだと思うほうが普通の感覚だと思うのです。
 演奏に1時間前後もかかる曲を、標題性もストーリー性もなく、ソロ奏者の華麗な活躍もなく、ひたすら音楽の構築力だけで聴かせようとするのは、考えてみるととんでもないことですよ。ほとんど誇大妄想スレスレの精神の産物のような気さえします。
 とくにブルックナーの交響曲は誇大妄想的な建築物におもえます。ワーグナーは演奏(上演)に4時間かかっても、それはストーリーが要請した長さなんで、むしろ普通です。観るのに4時間以上かかる映画やドラマはめずらしくはないでしょう。ブルックナーの音楽の構築性だけで1時間というほうが異常だとおもいます。

 ブルックナーの交響曲の始まりかたは、まるで霧のなかからゆっくりと巨大建築があらわれてくるような印象を受けます。
 そして、ブルックナーの場合、この巨大建築がかなり歪んだ、奇妙な形をしてるイメージがあります。
 やたらと長い回廊や、延々と続く巨大な壁、微妙に曲がりながら聳え立つ塔、巨大すぎて戦車でも通れそうな扉、異常に天井の高い広間……などなど。
 そしてその巨大建築には装飾とか表面の仕上げがまったくなくて、詰まれた石のゴツゴツした肌がそのまま見えている感じです。その建築の骨組みそのものが装飾のようにも見える……というかんじ。
 また、その巨大建築が人里離れた荒涼たる地に孤立して建っているような印象があるのです。誰も棲んでいないようで、しかし、どこかに人の気配があるような……。
 まさに幻想の建築……といったかんじに。(こんなことをイメージしながらブルックナーを聴いているのって、ぼくくらいなんでしょうか?)
 しかし、この西洋音楽の「音楽を建築する」という発想はどこからくるものなんでしょうか。ちょっと、ゆっくり考えてみたいテーマですね。

 ネットで調べてみたところ、ブルックナーは最近の録音では朝比奈隆やヴァントが指揮したものが全般的に評価が高いようです。どちらも同一曲でも何度も録音していますが、朝比奈はどれがいいのややこしいのに対して、ヴァントはだいたいベルリン・フィルでの録音が一番評価が高いようなんで、わかりやすいんでヴァントを中心にCDを聴いてみました。
 けど、どうもぼくとヴァントの相性はあまり良くないようです。なんだか細部まで神経質にカッチリし過ぎてて、息苦しい感じがするんです。いい演奏なんでしょうが個人的な好みやその時の気分もあるようで、他人の評価ばかりをアテにしてはいけないとわかりました。
 そんなわけで、どの演奏が自分の好みにあっているのか、いま探しているようです。
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2006年07月11日

パルシファル

 さて、ワーグナー作品への一言コメントも最後の作品になりました。

 『ニーベルングの指輪』四部作の台本を書き上げた後、ワーグナーは作曲にとりかかりましたが、書き上げたところで上演できる見込みがまったくないところから、上演できそうな作品を書こうということになり、『ニーベルングの指輪』の作曲を途中でやめて、『トリスタンとイゾルデ』と『ニュールンベルクのマイスタージンガー』を書き上げました。ということで、この二つの作品は結果としてはどちらもかなりの大作となりましたが、最初の心づもりでは小規模な作品のつもりで書き始められたもののようです。台本の内容的にも『トリスタンとイゾルデ』はラヴ・ストーリー、『……マイスタージンガー』はコメディと、神話的な大作『ニーベルングの指輪』に比べれば、かなりスケールの小さい、毛色のちがったものとなっています。
 ということで、『ニーベルングの指輪』以後の、劇作家ワーグナーとしての本気の部分が見られるのは、この『パルシファル』ではないかと思います。
 中断されていた『ニーベルングの指輪』の作曲が再開されたのは、ワーグナーがルードヴィッヒ二世の全面的な支援を受けることになり、わざわざ『ニーベルングの指輪』の上演用の劇場(バイロイト祝祭劇場)を建ててもらうという理想的な環境で上演できる見込みがたったからです。このバイロイト祝祭劇場はワーグナー自身が音響効果などを考えて、それを実現するように設計されたわけですが、『ニーベルングの指輪』の完成時点では劇場のほうはまだ完成していなく、そのためこの『パルシファル』はワーグナーが理想とした音を実現したバイロイト祝祭劇場が完成した後、そのバイロイト祝祭劇場での演奏を想定して書かれた唯一の作品ということになります。

 個人的にはこの『パルシファル』は音楽的にいって、『トリスタンとイゾルデ』と並んで最も好きな作品です。というか、聴きはじめた最初にこれを聴いたので、それが今回ワーグナーにハマったきっかけとなった作品です。
 ストーリー的にも非常に興味をひかれる作品ですね。『ニーベルングの指輪』以後のワーグナーが自身の本気の部分を注入した作品だけあって、わかりやすい小品のつもりで書いた『トリスタンとイゾルデ』や『……マイスタージンガー』とは対照的に、象徴劇的で意味深い内容になっています。ひとことで言えば、何がなんだかわからないわけです。
 といってもストーリー展開自体はかなり単純なんですが、その単純なストーリーが何を言いたいのかわからないわけですね。見ていってみることにします。

 タイトルの「パルシファル」は登場人物の名前で、多分英語読みして「パーシヴァル」といったほうがピンとくる人が多いでしょう。アーサー王伝説の登場人物の一人です。ぼくはアーサー王伝説にはそれほど詳しくないのですが、見習い騎士だったときに聖杯を目撃した騎士の名だと思います。
 さて、これは聖杯にまつわる話で、深い森のなか背後に聖杯城がみえる……というシーンではじまるのですが、この作品における聖杯の意味というのもよくわかりません。
 もともと聖杯というのはアーサー王伝説に登場するアイテムであり、キリスト教とは本来は関係ありません。アーサー王伝説とともに有名になるに従って、キリスト教の伝説のなかに後づけで組み入れられたんですね。だから、キリスト教における聖杯とは何かというと、最後の晩餐で使った杯だの、磔刑になったイエスの血を受け止めた杯だの、その両方だのと諸説出てきて一定しません。後づけで無理やりキリスト教伝説のなかに組み入れようとしたからそうなったのでしょう。その点、聖槍(ロンギヌスの槍)とは違います。
(ちなみに、キリストにまつわるトンデモ本をネタ元にした『ダビンチ・コード』で、レオナルドが聖杯が描かなかったのは何故かというのは、あんな珍説よりも、そもそもイエスの頭に光輪を描くことも拒否した無神論者のレオナルドなのだから、もともと存在しない聖杯なんか描かなかったと考えるほうがよほど理にかなっています)
 さて、いったいワーグナーはアーサー王伝説とキリスト教伝説のどちらを主に念頭においてこの作品を書いたのでしょうか。この作品のなかでは聖杯にいちおうキリスト教伝説のアイテムとしての説明も加えられているのですが、それにしてはこの作品における聖杯は何の役に立つのかわかりません。つまり、キリスト教伝説からすると、聖杯で汲んだ水をかけるとあらゆる傷が癒えるとか、水を飲むと永遠の命が与えられるとか、特殊な能力があって、だからこそ伝説の杯なのですが、この作品中では聖杯を持っている王は、聖槍によって負わされた傷がいつまでも癒えることなく、絶えず血を流しつづけ、弱っていっている……という設定になっているわけです。つまり、聖杯というのが何の役にも立たないものになっています。
 ちなみにアーサー王伝説でのほうでの聖杯はというと、こちらでは聖杯探究というのが主なテーマであって、聖杯そのものがどんな価値をもつものかはやくわからないような描かれかたがされてるんじゃないかと思います(ちょっとぼくはアーサー王伝説は詳しくないんで、よくわかりませんが)。
 そしてこの作品では、血を流しつづけ衰えつづける王を救うのは、その聖杯でも聖槍でもなく、「聖なる愚者」だということになっています。キリスト教的にいえば重要なアイテムであるはずの聖杯や聖槍は何の役に立つのかわからず、そもそも「聖なる愚者」っていうのは何だという話になります。
 そして、その「聖なる愚者」として登場するのがアーサー王伝説の登場人物であるパーシヴァル=パルシファルなわけですが、アーサー王伝説においては騎士であったはずの彼は、過去の記憶を全て忘れ去った狩人として登場します。
 ……思うのですが、『ニーベルングの指輪』においてはワーグナーはいろいろ手直しをしているにしても神話をもとにしたストーリーを書いていたのだとおもいます。しかしこの作品では、神話・伝説に登場する人物やアイテムを使用としても、それが神話・伝説のなかでもっていた意味・キャラクターはいったん消去して、そこにワーグナー自身による象徴的な意味あいを担わせてストーリーをつくっている気がするのです。そこのところの象徴性が難解な気がするのです。

 とはいえ、この作品はなにより音楽が魅力的です。北欧の深くて暗い森の奥から響いてくるような、厳かでいて神秘的な、まるで別世界に誘われるような響きです。森に聖性を感じていたというゲルマン民族の感性をかんじます。和音にしても、メロディにしても、いかにも『トリスタンとイゾルデ』以後の音楽という感じで、ワーグナーの最高到達点なのかもしれません。
 ストーリーの意味についてはさておいて、とりあえずは別世界に旅するような気分で聴いていたい音楽だと思います。
 定評のあるクナッパーツブッシュ盤など、バイロイト祝祭劇場でのライヴ録音盤を聴くと、ワーグナーが理想とした音というのがどういうものだったのかわかる気がします。深い闇の奥から響いてくるような音ですね。
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2006年06月25日

ニュールンベルクのマイスタージンガー

 作曲の順番からいくと、『ヴァルキューレ』の後、『ジークフリード』が途中まで書かれて、続いて『トリスタンとイゾルデ』、そしてこの『ニュールンベルクのマイスタージンガー』が作曲されています。
 どうもワーグナーの作曲家としての一生をみていくと、この『ヴァルキューレ』から『ニュールンベルクのマイスタージンガー』あたりの時代というのが最もクリエイティヴな時期だったんじゃないかという気がします。つまり、『ヴァルキューレ』と『ジークフリード』、そしてこの作品と並べると、すべて作風が違うわけです。それも作風が徐々に変化していったのではなく、あきらかに意識的に、一作ごとに内容に合わせて作風を変えた音楽を作曲している気がします。どれも4時間を超える大作であることを考えれば、これは大変なことだと思います。
 小説家で例えれば、大長編を続けざまに、一作ごとに文体を変えて発表しているようなものです。
 つまり、曲の感じなんていうのはクセみたいなものがあるので、かなり意識的に違うものを作ろうと思いながら作曲していかないと、こんなふうに違った音楽にはならないと思うのです。それでこれだけの大曲を作っているわけですから……。
 まさにワーグナーの芸の幅をかんじます。

 それで、この作品の作風というと、むしろ『トリスタンとイゾルデ』以前の作風にちかい、わかりやすいというか、鼻歌でも歌いやすいような音楽になっています。それは内容にもあっているのですが、そうだとしても、なんだか奇妙な感じがします。
 というのは、『トリスタンとイゾルデ』はあきらかにワーグナーにとってマイルストーン的な作品であり、これまでの音楽の枠を破った作品だったと思うのです。となると、その枠を破った先の可能性を探りたくなるのが、クリエイターというものの本性のような気がします。
 実際、この後に書かれた『ジークフリード』の後半や『神々の黄昏』、『タンホイザー』の書き足し部分などを聴くと、いかにも『トリスタンとイゾルデ』以後の音楽という気がするのです。
 大作『ニーベルングの指輪』が途中から『トリスタンとイゾルデ』以後の作風になったり、『タンホイザー』が書き足し部分だけが『トリスタンとイゾルデ』以後の作風になるのは、あきらかに全体の調和を欠くことにはなるのですが、気持ちとしてはこちらのほうが理解できます。
 つまり、新しい魅惑的な問題が目の前に提出され、それにとりかかってしまうと、以前の一度解いてしまった問題には戻ることはできないわけです。クリエイターというのはそういうものでしょう。
 しかし、この『ニュールンベルクのマイスタージンガー』はあきらかに、むしろ『トリスタンとイゾルデ』の前の作風に近いわけです。
 なんでこうなったのでしょう。
 正直いうと、この『ニュールンベルクのマイスタージンガー』というオペラは、音楽としてはわかりやすいのですが、ワーグナーを聴くという観点からいうとかなり難解な作品だと思います。というか、いまのところぼくには答えが出ていません。
 ひとつ考えられるのは、これは『トリスタンとイゾルデ』とは別の方向に、これまでの音楽の枠をやぶった試みがなされた作品ではないかということです。つまり、和声的には『トリスタンとイゾルデ』以前に戻っているけれども、別の新しい試みがあり、ワーグナーはそっちの試みに夢中になったために、和声的にはあえて『トリスタンとイゾルデ』以前に戻ったんじゃないかということです。
 そんな気持ちで、ワーグナーがこの作品で何をしようとしたのか探ろうとして本などを読んでいると、それは対位法ではないかという意見にぶつかったのですが、どうなんでしょうね?
 ぼくはどうもこれまでそれほど対位法というものを意識して音楽を聴いてこなかったようで、この作品の対位法がどうかといわれても、どうもピンときません。そうなのかもしれませんが、けっきょく今のところぼくにはわかりません。
 ということで、この作品については保留ということにしておきます。
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2006年06月19日

トリスタンとイゾルデ

 「題詠100題」に参加してしまったために、ワーグナー作品への一言コメントが中途で止まってしまいました。そろそろ再開してみたいとおもいます。ということで、今度は『トリスタンとイゾルデ』からです。

 ぼくが今回みょうにワーグナーにハマってしまったのは、この『トリスタンとイゾルデ』と『パルシファル』を聴いたからです。といっても、両方ともおそらく映画に使われていたのを前にも聴いていたのかもしれませんが(ヴィスコンティなんて使ってそうですね)、今回初めて意識して聴いてみてハマってしまったわけです。
 いままではワーグナーといえば「ワルキューレの騎行」とか「ニュルンベルグのマイスタージンガー」の前奏曲のような鼻歌でうたいたくなるようなタイプの音楽の人と思っていて、じじつ鼻歌でうたっていたりしてたのですが、この『トリスタンとイゾルデ』は鼻歌タイプの音楽とは違いますね。
 いってみれば、あまりメロディアスでないわけです。最初に印象づけられるのは精妙な和音の魅惑的な響きであり、その和音がゆっくりと移りかわっていく感じです。まるで大河の水がゆっくりと流れていくように、ゆっくりとまきこまれながら流されていく気分です。
 序奏が終わって劇部分がはじまると、けっこう激しい、あるいは急な動きもみせるのですが、ストーリーを外側から盛り上げていくといよりは、登場人物の内面を描きだしていく音楽のような雰囲気があります。総じて、あまりわかりやすいメロディをかんじません。
 本などを見たところによると、この音楽の不思議な魅力の秘密は、半音をつかった音階にあるようです。
 ところで、ぼくはギター演奏を趣味としてます。好きなようにメロディやアドリブを弾いて楽しんでいるだけなんですが。
 ふだんはジャズなどを聴いているので、そっち系の曲などを弾いているのですが、セロニアス・モンクの曲を弾いてみたとき、ほとんどスケールを無視したメロディであることに気づいて、こんなのアリかよ……とおもったことがあります。
 そう思ってから、アドリブで弾いているとき、スケール(ドレミファソラシド)では弾いてはいけないはずの音を弾いてみても、それはそれでいい感じになるのに気づきました。でも、そのときはスケールを意識しながら、ちょっとだけ弾くのがポイントで、そうしないととんでもないフレーズになってしまいます。
 そのとんでもない方向にあえて挑戦したのがフリージャズということになるのでしょう。
 よく知りませんが、この『トリスタンとイゾルデ』の音階というのも、おそらくそういう、調性を意識しながらも、使ってはいけないはずの半音を少し使用したものではないでしょうか。調性を意識せずにすべての半音を使っていくと、つまりは調性の破壊になり、無調の音楽、つまりはシェーンベルク以後のようになるはずですから。
 ということは、ジャズでいえば、モードジャズなどにあたるのでしょうか。まあ、こういう比べかたというのは意味がないのかもしれませんが。
 でも、ぼくが思うのは、こういったばあい、調整を破壊したシェーンベルクやオーネット・コールマンの先進性のみを高くみて、そこまでに至らないこの『トリスタンとイゾルデ』の音階というのをそこに至るまでの途中過程のようにみるのは間違いじゃないかということです。
 もちろん、完全に破壊してその先を目指す創造性というのもあるのですが、完全に破壊せずに少し綻びさせる、その位置にとどまることの創造性というのもあると思うわけです。

 クラシックでは一つの曲をいろんな演奏で聴く楽しみというのがあるわけですが、ぼくもこの作品は気にいったので何種類もの演奏を聴き比べてみました。
 いろいろ聴いてみておもうことは、それぞれの演奏にそれぞれの個性があり、良い面が違うので、いちがいにこれがベストとはいえないということです。
 けれども、そのなかで、まず最初にこのオペラを聴きたいという人にどれが良いかと聞かれれば、ぼくはフルトヴェングラー盤とカルロス・クライバー盤が双璧で、有名なベーム盤はセカンド・チョイスにするべきかと思いました。
 録音が新しいクライバー盤から説明すると、この演奏はかなり女性的で繊細な情緒がある気がします。繊細で複雑な和音が、そよ風を受けてしかし大きく揺れ動くような、心のざわめきをそのまま表しているような繊細で美しい感情の揺れ動きが魅力的な演奏です。録音もよく、とくに弦楽器の絹のような美しく、感情の襞のハッとするような表情をとらえていると思います。
 そして、たぶんこの『トリスタンとイゾルデ』はワーグナーのなかでも最も女性的で繊細な曲ではないかと思うので、その特徴を、聴いたなかでいちばん良く出しているのはこの演奏ではないかと思うからです。
 カルロス・クライバーという人は『トリスタンとイゾルデ』以外のワーグナーのオペラは指揮していないのですが、この人はレパートリーが非常に狭くて、ほんとうに自分に合った曲、得意な曲しか演奏しなかったそうですが、『トリスタンとイゾルデ』は、全ワーグナー作品のなかでこれこそ自分が演奏すべきオペラだと選び抜いたものだったのでしょう。録音も1980〜82年とあるので、時間をかけて丁寧につくったアルバムだということがうかがえます。
 対して、1952年のフルトヴェングラー盤は男性的でありながら官能的な演奏ですね。
 ぼくは管弦楽曲集などを聴いたところでは、フルトヴェングラーとワーグナーの相性はかならずしも良くないとおもっていました。ワーグナーが川でいえば大河のような、あらゆる濁りを巻き込みながらゆっくり流れていく音楽とイメージしているのですが、フルトヴェングラーはそれを激流のような音楽として演奏してしまう気がするからです。
 でも、この演奏はスタジオ録音のせいか、あまりそのフルトヴェングラーの激しい部分が出てなくて、ワーグナー向きの部分が特に良く出た演奏のような気がします。
 録音は古くてモノラルですが、かなり良いです。ジャズを聴いていると思うのですが、50年代に入ってLPの時代になった以後は、録音の良し悪しの差は年代が古い新しいより録音技師の腕のほうが大きい気がします。
 さて、このフルトヴェングラー盤と並んで名盤とされているのがベーム指揮の66年のバイロイト録音ですが、これは良い演奏には違いないのですが、この曲本来の魅力を充分に描いたというよりは、この曲から新しい魅力を引きだした個性的な解釈による演奏という気がします。
 ぼくの印象でいえば、この『トリスタンとイゾルデ』という曲はメロディアスというよりは和音の響きのなかに身を浸すように聴き、その和音が流れていくのを聴くのが快感なのです。が、誰もがいうようにベームはテンポをかなり早くとるわけです。とすると、和音の響きに身を浸すというよりは、やはりメロディのほうが聴こえてくるのです。
 それに誰もが指摘する官能性の欠如ですね。それがこの作品の最大の特徴だと思うので、最大の特徴を生かしていない演奏というのは、ちょっと違うものという気がします。
 といっても、これはこれで良くて、こういう『トリスタンとイゾルデ』もあっていいと思うのですが、やはりワーグナーの意図というのは上記のクライバーやフルヴェンの演奏のほうにあったんじゃないのかなと思うところはあります。
 いわば『トリスタンとイゾルデ』のアナザー・サイドを聴くアルバムという気がします。
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2006年02月26日

ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』

●魚食べるきみよ静かに 夜がそのドアのすぐ外まできている


 ワーグナーの先駆者について書いてきたので、こんどは後継者について書いてみます。
 ワーグナーの後継者って誰なんでしょう。たしかにワーグナーが音楽界全体に強い影響を与えたことはわかるんですが、直接の後継者というと、誰なんでしょう。
 ドイツ語圏でワーグナーへの強い敬意を表明している直接の後継者というと、ブルックナーとか、『ヘンゼルとグレーテル』のフンパーディンクとかになるんでしょうか。でもヘンな感じもしていたのです。なんで交響曲ばかり作曲してオペラを書かなかったブルックナーや、メルヘンのオペラ一曲で名を残しているフンパーディンクくらいしかいないのか。もっとワーグナー型のオペラを次々と書いたような後継者らしい後継者がいてもよさそうな気がしたのです。しかしオペラを次々に書いた人というと、ぐっと下ってリヒャルト・シュトラウスを待たないと出てきません。
 と思って本をみていると、たしかにワーグナー以後、ワーグナーのような大作オペラを書く人が次々と出てきたのだけれど、どれもワーグナーのデキの悪い亜流以上のものではなく、それらのオペラは現在までにすべて忘れられたんだそうです。その反動としてメルヘンを題材にした小型のオペラが流行ったそうで、その代表作でかろうじて残っているのが『ヘンゼルとグレーテル』だとか。
 ……そう聞くとなんとなく分かったような気もします。つまり、ワーグナーの足跡があまりに大きすぎて、同じことをやろうとした人はすべて消えてしまい、オペラではなく交響曲という方法をとったブルックナーとかが、結局いちばん大物の後継者みたいなかんじで名を残しているということでしょうか。
 つまり、影響を受けるというのはどういうことなのかというと、たんにその先駆者と似たものを作ろうとしているだけでは亜流・マネでしかなく、影響を受けつつ、それを自己のなかで消化して、その先駆者とは別の自分の方法を見出すことこそ、いい意味で「影響を受ける」ということなのではないでしょうか。
 そう考えてみると、ワーグナーの後継者として、ドビュッシーの名が浮かんできました。
 実はさいきん『ペレアスとメリザンド』を聴いたのですが、これが予想以上にすごく良かったのです。それにワーグナーの影響を感じました。もちろんやっていることはワーグナーとはまったく別です。ドビュッシーの自己の方法につらぬかれています。でも、それと同時にこれは『トリスタンとイゾルデ』や『パルジファル』の延長線上にあるオペラという感じがします。とくに『トリスタンとイゾルデ』と共通性がありますね。
 実際、しらべてみるとドビュッシーは若い頃ワグネリアンで、バイロイト詣でも二年連続で行っているとか。『ペレアスとメリザンド』の作曲中もつねに『トリスタンとイゾルデ』や『パルジファル』を念頭におき、それと似ないように、同じ音楽ではなく、その先の音楽を生み出すことを心がけながら作曲していたんだそうです。
 たんに個人的な趣味・嗜好で、ワーグナー以外のオペラでどれが好きかと聞かれたら、いまのところこの『ペレアスとメリザンド』にまず最初に指を折ることになりそうです。全体を包む神秘的で崇高なかんじが、ワーグナーとも共通する雰囲気もあって好きです。
 ぼくが聴いたのはデュトワ指揮のやつですが、他の演奏も聴いてみたくなってきました。

 この『ペレアスとメリザンド』はメーテルリンクが原作で、メーテルリンクといえばとうぜん『青い鳥』の作者として有名なわけですが、これはその『青い鳥』で大成功するだいぶ前の作品のようです。しかし、この演劇はよほどロマン派の作曲家たちのインスピレーションを刺激するもののようで、このドビュッシーのオペラの他にも、若い日のシェーンベルクやシベリウスも同じ題材で曲を書いています。
 このうちシェーンベルクのものは聴きました。『浄夜』と一緒に入っているカラヤン指揮の演奏のCDが中古屋で売ってたもんで。
 シェーンベルクというと例の十二音技法とか前衛的で小難しい音楽を作る人という印象があったんですが、このへんの初期作品を聴いてロマン派の人だったんだなと眼を開かれた思いがしました。(いまごろ気づくなって人も多いでしょうが、なにしろ初心者なもんで……)
 このあたりのシェーンベルクの初期作品はやたらに美しく、個人的には後の十二音技法などの作品より良く思えます。(後期の作品が理解できてないだけだろうという、当然の指摘もされるでしょうが)
 しかしこのシェーンベルクもやがて『モーゼとアーロン』というオペラを書き、しかもそのシェーンベルクの弟子のアルバン・ベルクも『ヴォツェック』『ルル』というオペラを書いているわけで、このへんも広い意味でワーグナーからの流れが続いている気がします。

 話をドビュッシーに戻すと、ドビュッシーはこのメーテルリンクを真っ先に取り上げただけでなく、ボードレールやヴェルレーヌなど象徴派の詩人を歌曲にとりあげたり、かなり文学的な素養もあった人のようです。
 ドビュッシーという人はそんなに長生きしなかった人なのですが、晩年にはポーの『アッシャー家の崩壊』のオペラ化を計画し、未完に終わったそうですね。これはぜひとも完成させてほしかったです。でも、完成したところまでのCDも出ているそうなんで、聴いてみたいです。
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2006年02月21日

ニーベルングの指輪 2

●雲の果て訪れたことのない場所へいますぐ還りたくなる夜明け


 『ニーベルングの指輪』を作り上げるのにワーグナーは26年かけたそうです。『ローエングリン』の次作としてとりかかり、しかし、あまりに壮大な作品のために完成しても上演することができないと断念し、中断して『トリスタンとイゾルデ』と『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を作り上げ、結局、ルードヴィッヒ二世の全面的なバックアップを受けることによって構想どおりに完成、上演のために専用の劇場(バイロイト祝祭劇場)を建ててもらって上演したわけです。(ルードヴィッヒ二世はルキノ・ヴィスコンティの映画『ルードヴィッヒ』で描かれている人ですね)
 さて、ワーグナーが完成に26年をかけ、上演には専用の劇場を建てられたというこの『ニーベルングの指輪』という作品への厚い扱われかたは、どこに由来しているのでしょうか。

 さて、ドイツには13世紀に成立した叙事詩『ニーベルンゲンの歌』がありますが、『ニーベルングの指輪』はこれが元ネタではありません。『ニーベルングの指輪』の素材として使われたのは『エッダ』です。しかし、ストーリー的には『ニーベルングの指輪』は『ニーベルンゲンの歌』と重なるような部分があり、そもそも『エッダ』と『ニーベルンゲンの歌』には重なるような部分があるのです。
 ちょっとややこしいのですが、石川栄作の『「ニーベルングの歌」を読む』(講談社学術文庫)をぱらぱらと拾い読んだかぎりのことを説明しておきます。
 もともと、このストーリーの元となったジーグフリードの婚礼と死の話は、五世紀ごろのゲルマン民族の大移動の頃にはもうあった伝承だそうです。その伝承が、他の伝承と繋ぎ合わされたり、さまざまに変化した後、13世紀頃のドイツで、当時の騎士道物語的な趣味によってふくらまされて叙事詩として成立したのが『ニーベルンゲンの歌』だそうです。
 一方、『エッダ』というのは「北欧神話」と言われるとおり、アイスランドに伝わっている神話・伝承を集めたものですが、アイスランドまで移動してきたゲルマン民族に伝わっている伝承の一つとして、このジークフリードの伝承もあるようです。もっとも名前は「ジークフリード」ではなかったりするようですが。
 さて、ではワーグナーはなぜドイツに伝わる『ニーベルンゲンの歌』ではなく、『エッダ』のほうを素材としたんでしょうか。
 たぶん『ニーベルンゲンの歌』と『エッダ』の一番の違いは、神話の部分ではないかと思います。
 『ニーベルンゲンの歌』は成立当時の騎士道趣味によってジークフリードの英雄性がかなり強められているそうですが、つまりは「英雄伝説」であって「神話」ではないのです。
 一方、『エッダ』はそもそもワーグナーらドイツ圏の文化の産物ではないのですが、実はこれはゲルマン民族(アングロ・サクソンまで含めても)に残っているほぼ唯一の神話なわけですね。
 ゲルマン民族の大移動で彼らがヨーロッパ全域に移住してきた後、しかしそこにキリスト教が入りこみ、早くからキリスト教化されていた地域はもともとのゲルマン民族の文化は破壊されて神話も残らなかったわけです。「ニーベルングの歌」のモトになった伝承は神とは関係のない話だったので、かろうじて残ったのかもしれません。
 そして遅れてキリスト教化された北欧にのみ、かろうじて神話が残されました。それが『ニーベルングの指輪』の題材となった『エッダ』なわけです。(ところで、余談ですが、ぼくは「北欧神話」と聞いていままでなんとなくフィンランドとかノルウェーとか、あのへんを想像していたのですが、アイスランドとは、それどころじゃなくて、そうとう北ですね)
 このへん、日本には『古事記』のような自分の民族の神話が残っているので、ぼくら日本人はそれが当たり前のように考えがちなのですが、世界的に見てみると自分の民族の神話が書物として残っている民族というのは、そう多いわけでもないようですね。
 大航海時代に入るとゲルマン民族は世界中の民族の文化を破壊し、虐殺・征服を繰り返しながらキリスト教を布教していくわけですが、ゲルマン民族自体もキリスト教によって半ば文化を破壊されているわけです。

 ワーグナーが、わずかに残された自分の民族の神話を題材として(正確にいうと、ドイツあたりのゲルマン民族と、北欧のゲルマン民族を同じ民族といってしまっていいのかわかりませんが)、26年の時間をかけてこれほどの大規模なオペラを作り上げるというのは、たぶんキリスト教文化に対し、自分の民族のもともとの文化を高く掲げようとするワーグナーの意志があったような気がしてきます。
 『ニーベルングの指輪』の第四部のタイトルは「神々の黄昏」です。この「神々」という言葉、日本は「八百万の神々の国」なんで、日本人はふつうに受け止めますが、キリスト教徒にとっては神は唯一であり絶対なものなので、「神々」と複数形で書かれただけで異教の香りを感じたはずです。
 そして、前にも書きましたが中世以来ヨーロッパでは異教を信仰している者は、バレたら処刑されるのが普通です。同じキリスト教でも異端を信仰していれば虐殺された社会ですから。ワーグナーの時代にはさすがにそんなことはないでしょうが、それでもキリスト教の影響は相当強かったはずです。
 当時のヨーロッパの人々はこの『ニーベルングの指輪』に、危険な香りを感じたかもしれません。
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2006年02月19日

ニーベルングの指輪 1

●海底のオペラハウスの夢をみたあとで世界の幻をみる


 ワーグナーの『ローエングリン』の次の作品は何かというと、初演の順でいけば『トリスタンとイゾルデ』、作曲順(完成させた順)でいえば『ラインの黄金』、台本を書いた順でいえば『神々の黄昏』となります。
 ワーグナーは『ローエングリン』の後に『ニーベルングの指輪』にとりかかり、この『ニーベルングの指輪』は台本は後から順に、つまり『神々の黄昏』、『ジークフリート』、『ヴァルキューレ』、『ラインの黄金』の順に書かれ、作曲は最初から順に、『ラインの黄金』、『ヴァルキューレ』と書かれ、そして『ジークフリート』の二幕の途中まで書かれたときに中断されて『トリスタンとイゾルデ』と『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が書かれ、その後で再開されて『ジークフリート』の残りと『神々の黄昏』が作曲されたというのは有名な話のようです。
 ワーグナーの作品を順に並べる場合、一般的には初演順で『トリスタンとイゾルデ』とするのが普通で、『ラインの黄金』や『神々の黄昏』は四部作まとめて『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の後の作品という順で書かれているのが普通のようです。が、初演の順というのはあまり意味がないような気がします。
 例えば小説を読む場合、一人の作家をきちんと読もうとするなら、その全作品を書いた順に読むのがいちばん良い読みかたなわけですが、それは書いた順に読むことによって、その作家がどのように自分の手法やテーマを深めていったか、ある作品を書くことによって、そこから何を得、何を考えて次の作品に生かしていったかなどを読みとることができるからだと思います。
 それを思うとやはり、作った順でみていくのが一番の気がします。実際、台本でみていったときには『ローエングリン』の後には『神々の黄昏』が書かれたとみたほうがわかるし、作曲の順でいけば、やはり『ヴァルキューレ』は『トリスタンとイゾルデ』より前の作品だと実感できます。

 まず台本のストーリーをみた場合、『ローエングリン』と『神々の黄昏』とは、ちょっとスチュエーションが似てる気がするのです。かたや遠くから白鳥の騎士がやってくる話であり、かたや遠くから英雄ジークフリートがやってくる話です。その後の展開は大きく違うわけですが、共通する物語構造があるのです。
 そう思うと、『タンホイザー』だって遠い場所からタンホイザーが帰ってくる話であり、『さまよえるオランダ人』だって遠くの海からオランダ人がやってくる話です。
 つまり台本作家としてのワーグナーは『神々の黄昏』まで、遠くからある特殊な人物(伝説の英雄や白鳥の騎士など、ヒーロー的人物)がやってくる話ばかり書いていたことになります。なにかそういうストーリーがワーグナーの心情にフィットするものがあったのでしょう。
 そしてジークフリードのそれ以前を描いた『ジークフリート』で初めてそのパターンから脱するわけですね。そして『指輪』以後の作品もそういうパターンの話ではなくなります。
 また、『指輪』を後から順にみていくと、台本作家としてのワーグナーのファンタジックな想像力の翼がぐんぐん広がっていっているのが感じられます。『神々の黄昏』ではまだ英雄が訪れた場所での人間たちの心理ドラマが中心で、非現実的な要素は背景としてある感じです。それが『ジークフリード』になると英雄と竜との対決など大がかりなスペクタクル感のあるシーンが登場し、『ワルキューレ』では天馬に乗った美女が空を駆けだし、『ラインの黄金』にいたってはついに全編が異世界の話となり、人間界の話は登場しなくなります。
 そして、このあたりが台本作家としてのワーグナーのロマン派的なファンタジックな創造性のピークだったようです。これ以後の作品はこんなふうにファンタジックな内容ではなくなり、より現実的になっていきます。
 音楽的にいうと、やはりぼくは『トリスタンとイゾルデ』がワーグナーにとっての大きな転換点だったように思うのです。『トリスタンとイゾルデ』以前の『ワルキューレ』は、『ローエングリン』から続く単純なわかりやすさがある音楽で、その単純な和音とわりにポップなメロディがこの作品の人気の理由ではないかと思います。それが『ジークフリート』の、とくに三幕めあたりから『神々の黄昏』となると、これは『トリスタンとイゾルデ』以後の音楽だな、という気がするのです。
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2006年02月17日

ローエングリン

●真夜中の都会で生まれた白鳥が言葉の森にのまれ消えてく


 だいぶ脱線してましたが、またワーグナー作品への一言コメントに戻ります。
 本などでみると、ワーグナーのこれまでの3作、『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』『ローエングリン』は習作とはいわないまでも、ワーグナーが自己の個性を完全に完成させる前の作品で、次の『トリスタンとイゾルデ』以後(作曲順でいえば『ラインの黄金』以後)がワーグナーの絶頂期の作品群とされています。
 それも間違いとは思いませんが、当時(19世紀)のワーグナー作品の人気の点でいえば、むしろ『タンホイザー』とこの『ローエングリン』あたりが最も人気があった作品だそうです。
 とくにこの『ローエングリン』は熱狂的なファンも多く、ワーグナーの最大のパトロンだったルードヴィッヒ2世もこれが一番好きで、主人公のコスプレなどをして楽しんでいたそうです。そのへんは現在の秋葉原あたりのオタクとやってることは同じですが、さらにノイシュヴァンシュタイン城(新白鳥城)なんて名前の城まで作り、それが現在もドイツの最大の観光地の一つになっているなどと聞くと、やはり同じオタクでもスケールが大きいオタクですね。
 ヴィスコンティの『ルードヴィッヒ』に、洞窟のなかに湖があり、そこに白鳥が泳いでいて、その白鳥が舟を引いている……という場面がありましたが、あのときは何のことかわからずに、でも印象には残っていたんですが、あれも実際にルードヴィッヒが造ったもので、洞窟は『タンホイザー』のヴェーヌスブルクを模したもので、湖に泳ぐ白鳥と舟はとうぜんこの『ローエングリン』を模した、いわば大型のフィギュアのようなものだったんだと、ワーグナーを聴きだして初めて理解しました。『ルードヴィッヒ』もまた観返したくなってきました。

 この『ローエングリン』は序曲がいいですね。神秘的な静けさの向こうから何かがやってくるような、どこか崇高さを感じさせる響きがあります。
 けれど、ワーグナー作品のなかではめずらしく、序曲から第一幕の冒頭へはスムーズに流れていかないんですね。もっと初期の『さまよえるオランダ人』でも序曲の海の嵐の感じがそのまま第一幕の冒頭へとつながって、一気に劇中の場面に引きずりこまれる効果を出していたのに、この作品では第一幕が始まるとあきらかに音楽が変化して違う情景を描き出してしまいます。
 言うまでもなく、序曲は白鳥の騎士・ローエングリンの登場のシーンの音楽が基調になっているわけです。ここを序曲にも使いたかった気持ちはすごくわかるいい雰囲気の音楽ですが、どうなんでしょう。音楽の流れを大事にするワーグナーとしてはかなり悩んだような気もするんですが。
 それにしても「白鳥の騎士」というのはすごいですね。日本の少女マンガでは「白馬の王子様」というのがありますが、「白鳥の騎士」ははるかにそれを凌駕している気がします。そもそも「白馬の王子様」なんているわけない日本の少女にとっては、この程度でも充分にロマンティックな理想像になるのだけど、本物の「白馬の王子様」なんて近所にいてもおかしくない当時のヨーロッパの人々にとっては、「白馬の王子様」程度ではロマンティックな理想像にはなりえないからなのかもしれません。
 やっぱ、こういうのはへんにリアリティがあっちゃ、いけないんでしょうね。
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2006年02月13日

ベルリオーズ3

●きのうまで鳥カゴの中の劇場でぼくらは同じ夢の中にいた


 またベルリオーズのつづきです。
 『幻想交響曲』の後、ベルリオーズがどんな作品を作ったのか、調べたかぎりで主だったものを書き出してみます。


  幻想交響曲          1830   交響曲
  イタリアのハロルド      1834   交響曲
  レクイエム          1837   宗教音楽
  ベンヴェヌート・チェリーニ  1838   オペラ
  ロミオとジュリエット     1839   劇的交響曲
  ファウストの劫罰       1846   劇的物語
  テ・デウム          1849   宗教音楽
  キリストの幼時        1854   オラトリオ
  トロイ人           1858   オペラ
  ベアトリスとベネディクト   1862   オペレッタ


 書いていて迷ったのはジャンルをどうするかです。いちおう調べて書いてあったとおりに書いておきましたが、『ロミオとジュリエット』と『ファウストの劫罰』と『キリストの幼時』は同一ジャンルとみてもいいと思います。オーケストラに歌唱が加わった、ストーリー性のある標題音楽で、どれもCD1枚にはおさまりきらない大作です。
 たぶん、この人はオペラ作家になりたかったんじゃないかと思います。統一感のある大伽藍を構築するよりは、変化に富んだストーリー性のある絵を描いていくことに興味あった人ですから。『イタリアのハロルド』はバイロンの長編詩『チャイルド・ハロルドの遍歴』を下敷きにした、やはりストーリー性のある交響曲ですが、多分こういう方向を目指すなら交響曲よりオペラのほうが形式的に合っている気がします。
 それに当時のフランスはオペラが最も人気のあった音楽のジャンルであり、作曲家はオペラを書くのが人気・収入を得るうえで最も効率がよかったようです。
 けれど、オペラの第一作となる『ベンヴェヌート・チェリーニ』が興行的に大失敗したらしく、あるいはそれで人生が狂ってしまった人なのかもしれません。その後はオペラ的な演劇性・ストーリー性と歌唱と、『幻想交響曲』で大成功をおさめたオーケストレーションを混ぜあわせたような、なんともジャンル分けのしずらい音楽を書きつづけたわけです。
 そして再度オペラに挑戦した『トロイ人』は上演に4時間かかる大作ですが、生前に全幕が上演されることはなかったそうです。
 4時間かかる大作オペラという点でいうわけではありませんが、たぶん彼はワーグナーみたいなことをやりたかったんじゃないでしょうか。つまり、ベルリオーズのようなロマン派趣味が濃厚な人が理想とする音楽を追求していくと、ワーグナーの「楽劇」のような所にたどり着くということではないかと思います。

 さて、その『トロイ人』を今年に入ってからBSで放映していたので観たのですが、ちょっと複雑な印象を抱きました。
 この一作だけで判断するのもなんなのですが、どうもこの人は微妙なところでオペラの適性がなかった人なのかもしれないと思ったのです。
 この「トロイ人」はヴェルギリウスの「アエネーイス」に題材を取ってベルリオーズ自身が台本を書いたものだそうですが、ベルリオーズがそれだけ賭けた大作だけあって音楽的には魅力的な部分もあるのですが、なんだかオペラとしての魅力が薄い気がしたのです。
 いったいオペラというものは、いくら個々は優れた音楽であっても、それがただ並べられているだけではダメでしょう。緩急の差をつけたり、劇的な転換をみせたり、クライマックスを盛り上げるように演出していくドラマティックな構成がなければ、数時間聴かされていると飽きますよ。つまり音楽によるストーリーテリングみたいなものが必要だと思うのです。
 しかしどうも、このオペラはそんなストーリーテリングに欠ける気がするのです。ベルリオーズ自身が台本も書いているので、よけいそう感じるのかもしれません。つまり、シーンとシーンがただ並列にならんでいる感じで、キャラクターの思いが絡まりながら劇的に盛り上がっていくかんじが薄い。そして、そこにつけられた音楽も、そのシーンの情景を描いた音楽としては良い気はするのですが、ストーリーの全体の流れや劇的な盛り上がりを丹念に演出していく感じが薄い気がするのです。
 使い古された感のある「ベルリオーズは音楽による画家である」という言葉が、やっぱり的を射ているのかなという気がしました。この人はある場面、ある情景の標題音楽を作るのは得意でも、音楽によってストーリーを語ることには興味がなかった人なのかもしれないという気がしました。
 このへんに、微妙なところですが、ベルリオーズとワーグナーのオペラというものに対する資質の差があるのかもしれないと思いました。
 それにこのオペラが書かれたのは1858年とありますが、ワーグナーでいえば『ローエングリン』(1848年) の上演は観ていたろうし、翌1859年には『トリスタンとイゾルデ』が書かれていることを思うと、この『トロイ人』の音楽はもう一昔前の作品のように聴こえますね。たとえば和音など、『トリスタンとイゾルデ』のあの幻惑的なまでに繊細で複雑な和音に比べて、あまりにも単純すぎる気がするんです。同時代の作品という気がしません。音楽にけっこう古典的な健康な安定感がかんじられます。ベルリオーズのロマン派趣味からすれば、それはそんなに歓迎されざることのような気がするんですが。
 ベルリオーズはワーグナーと10歳しか違わないわけですが、一時代前の作曲家というかんじがしてしまうのはぼくだけなんでしょうか。
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2006年02月12日

ベルリオーズ2

●凍る星きみはだれかの中庭で眠りつづける きれいな夜に


 ベルリオーズの話の続きです。
 さて、まえに言ったとおりベルリオーズは『幻想交響曲』だけがやたら有名で、後の作品は知名度がぐっと落ちます。なぜでしょうか。一発屋なのか、というと、別に他の作品もつまらないわけではなく、評価はされているようです。
 多くの人がベルリオーズの『幻想交響曲』以外の作品について指摘するのは、ムラが多いということです。つまり、一曲のなかにすごくいい部分と、つまらない部分が同居している。だから、傑作だと推しにくい。ということです。
 そんなふうにムラができてしまうというのは、ふつう作者に構成力がない証拠です。構成力のある人は、構成だけでもある程度聴かせてしまうことができるのです。構成力なしにその場の霊感のようなものに頼っていると、いいインスピレーションが浮かんだ部分とそうでない部分でムラができます。ベルリオーズもそうなのでしょう。
 ただし、ベルリオーズの場合、構成力のなさを欠点といってしまうことにも問題のような気がします。構成力がない以前に、構成しようとする意志そのものが希薄なかんじがするのです。それはたぶん、ロマン派の考え方のなかにあるものではないでしょうか。
 どうもロマン派の考え方というのは、西洋が伝統的に理想としてきた数学的構築性に反するもののような気がします。それがとくに顕著に出ているのは、イギリスの庭園だと思います。
 伝統的な西洋の庭園というのは、ベルサイユ宮殿の庭園がいい例で、つまり上空から見おろすと幾何学的な図形になっているような、統一感のある建築的な美しさをねらったものです。
 ところがこの時代イギリスに流行りだした庭園は、だらだらと曲がる遊歩道があって、それにそって歩いていくと次々に新しい風景が開けていくような、それも一つの庭のなかにイタリア風の廃墟や中国風の塔などを配置して、歩いてるだけでさまざまな世界・風景を見られるようにつくられたものです。当然全体としての統一感はまったくなく、構成的な美しさもありません。当時イギリスで流行ったゴシック文学にもそれと同じ趣味があり、総じて構成はわるいのです。
 『幻想交響曲』の全5楽章、それも、自殺を図ってアヘンを大量に飲んだ主人公が見る幻想を外枠とし、第2楽章は舞踏会、第3楽章は田園風景、第4楽章は死刑台への行進、第5楽章は地獄での「ヴァルプルギスの夜の夢」、と次々に風景が変わっていくという作りは、このイギリス風庭園と同じ発想だと思います。つまり美しい構築性ではなく、遊歩道にそってだらだら歩いていると次々に新しい絵が見えてくるかんじを目指してるんじゃないでしょうか。
 このような方法は『幻想交響曲』にかぎりません。『幻想交響曲』はベルリオーズが27歳の時に書いた出世作なわけですが、これ以後、ベルリオーズのこのような傾向はむしろ強化されていくようです。だから、いい部分とつまらない部分が同居しているムラがある作品になっていき、ベートーヴェンみたいな建築的な美しさを賛美する人たちから見れば、あまり傑作として推せない作品になっていくわけですね。
 明日へ続きます。
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2006年02月11日

ベルリオーズ1  幻想交響曲

●逃れられない幻想を石材で建築してる見えない丘に


 というわけで、ベルリオーズについて、少し書いてみたいと思います。
 たいていの人はベルリオーズといえば、おそらく『幻想交響曲』しか聴いたことがないと思います。というか、ぼくが最近までそうだったというだけですかね。けれど、この『幻想交響曲』だけはやけに有名で、たいがいクラシックの入門間近のときに聴いてしまうんで、なんとなく「こういうものか」みたいな気分で聴いてしまうのですが(というか、ぼくはそうだったのですが)これはかなりヘンな作品です。
 そしてそのヘンな部分がベルリオーズの他の作品へとつながっていくのですが、まずはこの『幻想交響曲』を見直してみたいと思います。

 さて『幻想交響曲』。どこがヘンかというと、まず題名がヘンですね。『幻想交響曲』……。ふつうなら『交響曲第何番』となるところですね。『運命』とか『英雄』みたいにサブタイトルが付いている交響曲も多いですが、これはリスナーのほうが言いやすく覚えやすいのでそうしているのが実状なようです。音楽っていうのはつまり単なる音のつらなりですから、歌詞のない音楽はタイトルは番号でいいわけです。同じく歌詞のない音楽であるジャズでも、タイトルのつけかたはきわめていい加減なものが多いです。区別がつけさえすればいいといわんばかりに。
 けれどいきなり『幻想交響曲』なわけです。『交響曲第1番「幻想」』ですらなく『幻想交響曲』。
 ところでベルリオーズには他に2曲、交響曲と分類されている曲があるんですが、それぞれタイトルはそれぞれ『イタリアのハロルド』と『ロミオとジュリエット』です。ふつう交響曲のタイトルじゃないですよね。
 それから『幻想交響曲』は楽章が5つあります。
 このことの意味が、ぼくはクラシック入門者だった頃はわかりませんでした(いまでも充分入門者ですが)。楽章なんていくつでもいいじゃないかって思ってたわけです。けれど、そうでもないわけですね。
 西洋文明って数学的な構築性を理想とするところがあるんです。だから音楽も建築と似てくるわけす。例えばベートーヴェンの第五交響曲は全四楽章のうえ、一つの楽章が「提示部」「展開部」「再現部」「コーダ」ときっちり25%づつに分かれているそうで、そういうやりかたが西洋的です。
 例えば本をつくる場合も西洋的な手法では目次にみょうに凝るわけです。つまり、だらだらと書いて、それぞれまとまりがいい所で分けて、小見出しをつければいいわけじゃない。内容が「全体」〜「大きな区分け」〜「それに含まれる小さな区分け」というふうにキチンと分類構成されて、目次を見ただけで本全体の構成・構築性がわかるような書き方を理想とすることろがあります。
 つまり、全5楽章の交響曲を作るというのは、五角形の家をつくるようなもので、やっぱりかなりヘンなのです。
 長くなってしまったので、明日につづきます……。
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2006年02月10日

ロマン派

●雪が夢のように降るから劇場へそっと出かけて夜をすごした


 まえにも書いたんですが、ワーグナーにはロマン派の極みみたいなところがあると思います。そしてワーグナーは演劇と音楽の融合であるオペラという形式を選んだこと、そしてオペラの台本も自分き書いたことでもわかるとおり、文学にも造詣が深く、当時のロマン派の文学からも強い影響を受けた人だと思います。
 当時のドイツのロマン派の文学というのをちょっとみてみることにします。
 ノヴァーリスの絶筆『青い花』が刊行されたのが1802年、ゲーテの『ファウスト』の第一部の刊行が1808年、第ニ部が1833年。ワーグナーは1813年の生まれなので、二十歳のときに『ファウスト』の第二部が刊行されたことになります。
 ホフマンの小説は『黄金の壺』が1814年、『悪魔の美酒』が15〜16年、『ブランビラ王女』が21年となります。
 詳しくは知りませんが、このロマン派文学はイギリスを中心としたゴシック文学とも同時代的な現象のような気がします。
 ゴシック文学は1764年のウォルポール『オトラント城奇譚』に始まり、翻訳されてフランス等にも強く影響を与えたといわれるM・G・ルイスの『マンク』が1796年、ゴシック文学の黄金時代の最後を飾る傑作といわれるマチューリンの『放浪者メルモス』が1820年となります。前にも書きましたがワーグナーの『さまよえるオランダ人』のストーリーは、この『放浪者メルモス』と内容的な共通性を感じます。
 1813年に生まれたワーグナーは、1809年生まれのエドガー・A・ポーの四歳年下にあたり、だいたいこの二人は同時代人となります。

 このようなロマン派の文学の濃厚な匂いを、最初に大がかりに音楽に持ち込んできたのは、しかしワーグナーではなくて、たぶんワーグナーより10歳年上のフランス人、ベルリオーズだったように思えてきました。
 もっと遡ればウェーバーとかいますが、大がかりに、半ば病的なまでに持ち込んでいったという意味ではベルリオーズだったように思えてきました。というか、少し調べてみると、なんだかこのベルリオーズという人もヘンな人で、おもしろくなってきました。
 ということで、ちょっとワーグナーを離れてベルリオーズを聴き直したりしてみたんですが、それについて書きだした長くなってきたんで、明日に続きます。
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2006年02月07日

タンホイザー

●星に似た吟遊詩人のうたごえがビルのダクトのなかからきこえる


 このオペラのストーリーを楽しむには少し予備知識が必要かもしれません。そう思ったのは、ヴェーヌスベルクから帰ってきた主人公がみんなにどこへ行っていたかを聞かれ、それを答えないでごまかす場面を「浮気をしてきたことをごまかしている男のような心境」などと説明している文章を読んだからです。もちろんこれは違います。
 このオペラの舞台は中世ということで、ミンネジンガーなど出てくるのだから、おそらく十二世紀以後のいつかなんでしょうが、この頃はキリスト教の修道院の力が非常に強かった頃で、異教、あるいはキリスト教であっても異端を信仰しているのがバレた場合には殺されるのが普通です。本人が殺されるだけで済めばいいほうで、家族一同、女子供まで皆殺しにされてもおかしくない時代だったと知ってください。じっさい「あいつは異端を信仰している」と疑いをかけられただけで、証拠もなしにガンガン殺されました。これは魔女裁判と同じです。
 こんな時代にヴェーヌス……つまり異教の神ですね……のもとで暮らしていたなどと知られたら、まず殺されます。黙っているか嘘でごまかすのが当たり前です。
 これがわからないと、この後の歌合戦の場面でのサスペンスが理解できません。
 この場面では主人公の対戦相手の歌手はキリスト教的な「愛」について歌うわけです。
 いわゆる恋愛というものは十二世紀のヨーロッパで生まれたものですが、これはもともとはセックスをともなわない精神的な愛の意味でした。キリスト教は基本的に快楽は罪悪だとかんがえますから、セックスは子孫を作るためだけに行うことが正しいとし、夫婦のあいだで子供を作るためだけにするのが神の教えだったわけです。「愛」とは「神の愛」にたいして、人間にもそのような崇高な愛があるのではないかという考えから生まれた概念で、性欲や快楽を求める行為であってはいけないわけです。だから、いわゆる騎士とお姫さまの愛というのは、セックスをともなわない不倫です。(お姫さまの夫(セックスする相手)は別にいるので、愛しあう騎士と姫が結婚することなないのです)
 つまり、主人公の対戦相手はそんなキリスト教的な愛を歌う。それに対して主人公は、そんなのはちゃんちゃらおかしいと、快楽的な性愛をふくめた意味での「愛」を歌ってしまうわけですね。しかし当時としてはこれは神の教えに反する異教的な考えです。つまり主人公は殺されたくないためにヴェーヌスベルクにいたことを隠していたはずが、歌っているうちにだんだんガマンできなくなって、ついアブナいことを歌ってしまった……というシーンなのです。
 そして歌合戦が進んでいくうちに、ついに主人公が我慢できずにヴェーヌス賛歌を歌ってしまいます。つまりこれは自分が異教の徒だと告白したのと同じであり、主人公が殺されることを意味します。だから一同大騒ぎになったわけです。これで放っておけば主人公はなぶり殺しにされたかもしれませんが、ヒロインが必死で助けに入って赦しを請い、そこでヒロインに免じて、ローマ巡礼をすれば、つまり主人公がキリスト教徒として生まれかわり、ローマ法王に赦しを受けたなら命ばかりは助けてやろうという案がでてくるわけです。
 ここのところがわからないと、このストーリーの意味はわからないのではないでしょうか。

 この『タンホイザー』にはドレスデン版とパリ版があります。ドレスデン版が初演に近いかたちであり、パリ版は『トリスタンとイゾルデ』を作曲した後あたりに、大幅な加筆を行った版だそうです。とすると加筆されたパリ版のほうが上かというとそう簡単でもないようで、意見が分かれるところのようです。
 というのも、加筆した部分が『トリスタンとイゾルデ』以後のワーグナー独特の作風になっているもので、もとの部分からあきらかに浮いているわけですね。これは普通に聴いていてわかるほどです。それに、加筆したのがヴェーヌスベルクのシーンだけだったもので、このシーンが必要以上に長く充実してしまい、ストーリー上のバランスが悪くなったという意見も多いようです。
 個人的にはワーグナーのオペラのなかではいまのところ『トリスタンとイゾルデ』と『パルジファル』がとくに好きなもので、トリスタン風の音楽が聴けるパリ版のほうが、浮いていて調和がなかろうが、ストーリー上のバランスがわるかろうが、好きです。
 『トリスタンとイゾルデ』を聴いてからさかのぼってこれを聴いたので、最初のうちは加筆部分ばかりが素晴らしく、他の部分はつまらなく感じました。聴いているうちに、モトの部分もこれはこれで良いと感じるようになりましたが。
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2006年02月06日

さまよえるオランダ人

●永遠にさまよう人が廃ビルの金庫のなかに閉じ込められてる


 ワーグナーのオペラに一言づつ現時点で感じたことのコメントをつけていってみます。といってもまだまだ聴き込みは浅いのでご了承を。
 現在一般的によく上演されるワーグナーのオペラのうちでは、『さまよえるオランダ人』は最初期の作品となります。とはいえ、これ以前にもワーグナーは『妖精』『恋愛禁制』『リエンツィ』と3つのオペラを作曲しています。通常これらは無視されてますが、はたして無視していいものかわかりません。とくに『リエンツィ』は当時かなりの評判を呼んだワーグナーの出世作だそうで、ぼくは管弦楽曲集で序曲だけ聴きましたが、かなりいい曲です。
 ではなぜ初期の3作品が無視されるかというと、ルードヴィッヒ二世の全面的な援助を受けてバイロイト祝祭劇場が完成し、ワーグナーが好きなように自作を上演できるようになったときに、ワーグナー自身がこの初期の3作品を演目から外したからだそうです。つまりワーグナー自身が切ったわけですね。
 でも、たいていの場合、作者自身の自己評価とファンや評論家の評価というのは食い違うのが普通です。それを考えると、やはりワーグナーをちゃんと聴こうと思ったら、この初期の3作品も聴くのがスジのような気もします。
 とはいえ、こっちはほんの初心者で、そこまで手がまわらないもので、やはりこの3作品は、いまのところ後の課題にしとこうとおもいます。
 で、結局『さまよえるオランダ人』からいくことにします。

 テーマとなっている「さまよえるオランダ人」の伝説は当時は一般的にけっこう知られていた伝説だったようです。作中でもゼンダは最初から「さまよえるオランダ人」に憧れている少女みたいに描かれていて、最初からこの伝説は作中の世界でも自明なことだという設定になっています。主人公はその伝説のオランダ人が自分のことだということを隠すわけですが。
 思うにこのオランダ人の伝説はマチューリンのゴシック小説『放浪者メルモス』(1820)と似ている気がします。こういうタイプの伝説って当時のヨーロッパで人気のあったものなのかもしれません。
 また、前にここに書いたウェーバーの『魔弾の射手』を聴くと、『さまよえるオランダ人』がこれからだいぶ影響を受けていることがわかります。『魔弾の射手』にあった、村(人間の論理が通用する場所)と、狼谷(人間の論理が通用しない場所)という対比がこの作品の世界観にもあります。この作品内で人間の世界はゼンダたちのいる部屋や水夫たちが酒を飲んでいる港ですね。『魔弾の射手』に「狩人の合唱」があったように、このオペラでも第三幕に「水夫の合唱」があります。対して人間の論理が通用しない世界は海ですね。
 でも、『魔弾の射手』が主人公が人間の世界から人間の論理が通用しない世界へと「魔弾」を取りに行く話だったのとはちょうど逆に、この作品は人間の論理の通用しない世界のほうから人間の世界へと侵入してくる話になっています。いわば人間の論理の通用しない世界のほうが主になっているかんじです。そのため、人間の世界が主になっている『魔弾の射手』に比べて、より不安感がかきたてられる内容になっています。
 さらにいえば、『魔弾の射手』は日常世界から始まって、非日常のアイテムが登場した後、日常世界へ戻っていって終わる話となっています。これは『ドラえもん』なんかと同じで、つまり物語の開始と終わりが同じ世界……、つまり非日常のアイテムによって破壊された日常が回復することでストーリーが終わるストーリー構造になっています。『ドラえもん』だけでなく『水戸黄門』とか、長続きしているシリーズものはだいたいこんな構成のものが多いのですが、とても安定感のある構成といえます。つまり主人公も観客も「日常生活」というものの正しさを何の不安感も抱かず信じている構造です。
 対して『さまよえるオランダ人』はストーリーの終わりには、もう始めの時点の日常には戻りません。一回きりの、くり返しのきかない物語ですね。よりドラマティックな展開であり、登場人物も観客も物語の開始時点での日常というものを、かならずしも信じていない感覚をかんじさせます。そもそもゼンタは最初から日常の内にいても非日常である「オランダ人」にあこがれている少女として登場してきます。
 全体として、明るい日常生活が基調となっていた『魔弾の射手』に比べ、『さまよえるオランダ人』はより非日常の世界への傾倒が大きくなっています。このへんにロマン派趣味の深まりを感じるのは間違ってはいないでしょう。
 そして、そのように非日常の要素が強くなり、よりドラマティックになったストーリーを支え演出するために、音楽の劇的効果がはるかに大きな役割を担っているのを感じます。つまり『魔弾の射手』でいえば狼谷のシーンのような音楽が特殊効果を担っている要素がぐっと広がってきたかんじです。第二幕の途中で狼谷に行く『魔弾の射手』と違って、いきなり序曲から嵐の海を思わせる音楽で、一気に非日常の世界につれていかれます。つまり狼谷のシーンがオペラ全体を呑み込んでしまったような感じです。
 とはいえ、ワーグナーでもこの『さまよえるオランダ人』あたりだとまだ昔ながらのオペラの形式、独立したアリアが並べられて作品を構成するやり方が残っています。ダーラントがオランダ人を紹介するときのアリアなどがそれですね。
 しかし、『魔弾の射手』では当たり前だったこのアリアという手法が、あきらかに違和感を感じさせるものになっています。全体のドラマティックな流れのなかで、独立したアリアが入ってくると、たとえそのアリアがそのキャラの性格や感情をきちんと表しているものであっても違和感がでてくるわけです。
 おそらくワーグナー自身もその違和感を感じたことで、これまでの手法をやめて、後のワーグナー独自の手法を切り開いていったのでしょう。
posted by aruka at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | オペラ、クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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