2007年08月07日

平和主義はなぜ戦乱をひきおこすのか

 最近テレビや新聞などで目にして危機感をつのらせたものがあります。それは子供の意見で、憲法九条をかえないでほしい、戦争へつながる法改正はしないでほしいといった内容のものが、二、三の別の場所で紹介されているのをみかけたことです。しょせん子供の意見といわれるかもしれませんが、そんな意見ばかりをピックアップしてマスコミに載せたのは大人です。どうもこれはいけない。こういうやりかたは戦前の軍国主義をおもわせます。
 戦前の右翼はアメリカ戦を始めるときに「神の国である日本が負けるわけがない」「いざとなれば神風が吹いてアメリカ軍を撃退してくれる」などというきわめて非現実的なことをいっていました。とうぜん現実論の立場から批判がきます。となると彼らは、そのような批判をするのは「非国民」であると罵倒して黙らせたのです。つまり、理性的に論理的に相手を説得するのではなく、自分が正義で相手が悪であるというイメージを植え付けることで現実論を黙らせたのです。そんなイメージ戦略のために使われたのが「情に訴える」という手段です。
 さて、戦後になりました。戦前において「神風」を信じていた人々は、憲法第九条の非武装による平和主義をとなえはじめました。これは悲惨な戦争を経験して反省したのだと自分たちは言っているわけですが、ぼくに言わせれば実は反省なんかしていないんだと思います。というのは「非武装にすれば平和になる」などという主張は戦前の「神風」と同じくらい非現実的な迷信でしかないからです。
 現実的に歴史を見てみれば、非武装は平和どころか戦乱をもたらすと考えるのが常識です。それは、へんな迷信に惑わされずに常識で考えてみれば誰にだってわかることでしょう。国家が軍備をもたなくなれば、テロリストやカルト教団、ヤクザが武装して略奪行為を繰り返したり、勝手に自治区をつくって支配したり、あるいはクーデターをくわだてたりしたときに、それを制圧することができなくなります。外国からの侵略から人々を守ることもできなくなります。そんなことになれば暴力だけがものをいう戦乱の世になるのは当たり前で、歴史をみれば実際そうなっています。そんなことは世界の常識であり、そうおもっていないのは世界じゅうで日本の護憲・平和主義者だけです。
 そんな非現実的な平和主義を、現実論の立場にたつ者が批判するのは当たり前です。
 さいわい戦後の日本は現実論の立場に立つ政治家が主導権をとってきたために、アメリカと安保条約を結び、自衛隊をつくり、それによって平和を守ってきました。しかし戦後のいわゆる護憲・平和主義の人々は、戦前の右翼と同じように、そんな現実主義に敵対してきたのです。
 しかし、現実的にきちんと考えるならば、護憲・平和主義が間違っているのはあきらかです。そこで護憲・平和主義者たちは「情に訴える」ことで自分の意見をとおそうとしてきました。つまり、自分たちを平和を守る正義の味方であるようにイメージづけ、自分たちを批判する現実的な思考をする人を「おまえは右翼だ、戦争賛美者だ」と罵倒することによって黙らせようとしてきたわけです。
 なんのことはない。戦前の軍国主義者はまったく反省したわけではなく、ただ信じる迷信を「神風」から「九条」に変え、相手を罵倒する言葉を「非国民」から「右翼、戦争賛美者」に変えただけです。「神風」も「九条」も、どちらも非現実的であることにはかわりなく、彼らがまったく現実を見ようとしないことにもかわりはありません。
 つまり、もし戦前の軍国主義を反省するのであれば、非現実的な迷信を信じこむことの愚かさを反省し、現実的に物事を判断するようにならなければなりません。それが反省することであるはずです。しかし戦後の平和主義者は、どうやって戦争を防ぎ、平和を守るかということをまったく考えようとせず、ただ「九条」という迷信を信仰していさえすれば平和が守れると思い込むことだけを熱心に続けてきたのです。それは戦前の「神風」を信じていれば日本が守れると信仰していた人々とかわりありません。
 そして戦前・戦後をとおして、そういった「迷信派」の人々と対立してきたのはいわば「現実主義派」であり、単純にいえば戦前は「迷信派」が主導権をとってしまったために戦争に突入し、戦後は平和主義をとなえる「迷信派」ではなく、「現実主義派」が主導権をとってきたために平和が守れてきたわけです。

 さて、問題は子供の意見です。いったい子供が歴史を知らず、戦争を理解せず、どうしたら平和が守れるのかを理解できず、間違った意見をいったとしてもそれはそれで当然のことでしょう。間違うことのない子供なんているわけありません。しかし、そんな子供の意見、それも特定の意見だけを大人がピックアップしてくるというのはどういうことなんでしょうか。
 つまりそれは、その意見を純真な子供の願いとして紹介することで、あたかも改憲が戦争をするためのものであるかのようなイメージをうえつけ、「情に訴え」て世論を誘導することがねらいでしょう。
 しかしそんな意見を、ピックアップした大人が自分でいったのなら、とうぜん批判も受けるでしょう。しかし子供がこういう意見を言ったので、それを紹介しただけだといえば、批判をかわせます。つまり発言にたいする責任を逃れられるわけです。
 しかし、もし彼がほんとうに非武装によって平和が守れると、きちんと考えた上でそう思っているのであれば、その批判から逃れず、なぜ護憲によって平和が守れるかを現実的な論理できちんと説明すればいいのであり、そうするべきなのです。
 しかし彼は、子供の意見の紹介というかたちをとることによって、自分の意見をきちんと説明することから逃げています。おそらく彼は批判されても護憲によって平和が守れる理由なんて説明できないのでしょう。ひょっとすると平和についてきちんと考えたことなんてないのかもしれません。たんに迷信を信仰してきただけで。
 ぼくは自分と違う意見の持ち主であっても、きちんと考えた上でその意見に達し、その理由を主張できる人であれば尊重します。が、このような手法で世論誘導を企てる扇動者をまったく尊重する気はありません。そういうことを考える人物は危険だとおもいます。
 たかが子供の意見が紹介されているだけで考え過ぎだとおもわれるかたも多いでしょうが、平和についてなんにも考えてないのに平和主義だと主張し、自分は正義の味方だと信じて他人を罵倒する人間はすごく多いのです。
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2007年08月02日

選挙報道をみていて

 この前の日曜におこなわれた選挙をテレビでみていて、おもしろいことをかんじました。
 もともと、あの日の選挙報道は、フジテレビでは開始が他局にくらべて一時間ほど遅れました。27時間テレビをやっていたからです。その27時間テレビのなかで、メイン司会の香取慎吾さんはしきりに「なまか」=「仲間」ということをいっていたようにおもいます。たぶんそれがあの番組のテーマだったんじゃないでしょうか。たしかに「仲間」とか「友情」というのは日本人が好きな言葉で、例えば少年ジャンプのヒット作のセオリーでは「努力」「勝利」と並んでテーマとなるものであり、実際マンガの主人公たちはそんなふうに行動します。
 しかし、今回の選挙で自民党が大惨敗をきっした理由は、まさに安倍総理が「友情」にあつい「仲間」を大切にする人物だったからでしょう。つまり、今回の選挙に至るまで、大臣たちはさまざまな問題や不祥事をおこしました。しかし、安倍総理はそれを理由に「仲間」である大臣を切れなかった。一緒に仕事をしてきた「仲間」をかばった。そのことが多くの国民に大反発をくらい、自民党は敗北したわけです。
 つまり、あの日、日本人は「仲間」を大切にしようというテーマの27時間テレビを楽しみながら、「仲間」を大切にする安倍総理を切ったわけです。これはおもしろいとおもいました。
 さて、国民に切られた安倍総理ですが、ぼくが疑問におもうのは、ほとんどの日本人には、はたして安倍総理を否定できる立場にいるんだろうかということです。
 つまり、大多数の日本人は、不祥事がおきたとき、それでも身内や仲間を大切にかばうとおもうのです。というか、27時間テレビや少年ジャンプの例でもわかるとおり、そうすることを正しいとさえ思ってないでしょうか? だとすれば、そのような人に今回の安倍総理の一連の行動を、どうして否定できるのでしょう。
 たとえば談合というのがあります。これは、れっきとした犯罪ですが、なかなかなくなりません。ぼくが思うに、その理由は、談合というのは「仲間」で「みんな仲良く」仕事を分け合う行為だからじゃないでしょうか。
 つまり、談合をしなければ競争がおき、弱いものは倒れていきます。しかし、談合をすれば互いに助けあって、仲間がみんな仲良く生き残ることができる。そうなると、日本人というのは「仲間どうしで助けあうのは良いこと」「みんなで仲良く仕事を分け合うのは良いこと」だとおもってしまうのではないでしょうか。だから談合がなくならないのではないでしょうか。
 安倍さんと小泉さんがよく比較されるのですが、この点でいえば、小泉さんが総理になってからの行動は、まったく「仲間」を大切にしませんでした。郵政選挙のときに小泉さんに敵対し刺客をおくられた議員の何人かは、小泉さんが総裁選に立候補したときから中心になって活動してくれた、まさに苦楽をともにした「仲間」だったはずです。小泉さんはそんな「仲間」を、不祥事もおこしていないのに、たんに郵政改革にたいする意見が違うというだけでバッサリ切ったわけです。小泉さんのやり方は非情だと非難していた議員もいたようにおぼえていますが、そう言われるのも無理はないともおもいます。しかし、あのとき日本人は「仲間」を大切にしない非情な小泉さんを絶大に支持したわけです。
 おそらくこのへんに共同体的な道徳感と社会的な倫理感の対立するポイントがあるような気がします。つまり、仲間を大切にするのは必ずしも良いことではなく、仲間を大切にするのが悪いことである面もあるのです。
 なぜなら、仲間を大切にするということは、仲間ではない人は大切にしないということだからです。
 そして、たとえば総理大臣をしている政治家にとって、ほとんどの日本人は、とくに個人的につきあいのある仲間ではないからです。そしてもちろん、総理以外のすべての日本人にとっても、彼以外の日本人のほとんどは仲間ではないのです。その仲間でない大多数の人に対してフェアーな立場にたつということは、つまり、少数の仲間なんか大切にしないということなのです。
 しかし、はたして「仲間を大切にするのはやめよう」というテーマで27時間テレビみたいなものができるのかというと、あまり期待できませんが。
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2007年05月26日

憲法第9条はいまや戦争憲法

 きのうの「朝までナマTV」を少し見たのですが、なんだか枝葉末節なことばかり話しているかんじで、つまらなくて寝てしまいました。中盤以後にはおもしろい話になったんでしょうか、見てないんでわかりません。
 憲法改正についての回でしたが、憲法改正って、どこをどう変えるのか、いきなり文言を議論して意味があるんでしょうか?
 ぼくは個人的には憲法第9条の改正には賛成ですが、それは次のような理由です。

 イラク戦争にかんして、ブッシュを支持する発言をした小泉さんを批判する人をよくみかけるんですが、ぼくはあの場合、たとえイラク戦争がどんなに間違った戦争であっても、日本の首相はアメリカを支持するよりほか選択肢がなかったとおもっています。というのは日本には憲法第9条のため攻撃用の軍事力がなく、たとえばどこかの国から日本にミサイルが飛んできたとしたら、反撃するためにはアメリカ軍を頼らなければなりません。いざという時に自国だけで安全保障する能力がなく、アメリカを頼らなければならないということは、事実上、日本の安全保障に責任感のある首相であれば、アメリカの軍事行動は、それがどんなに間違ったものであっても、支持して協力しなければならないということになります。
 イラク戦争のような場合に、日本の首相がアメリカの軍事行動に反対するような独自の判断を下すためには、その前提として、いざという時にもアメリカに頼らずとも自国だけで日本の安全を保障できるようにしておく必要があります。そのためには憲法第9条が障害になります。つまり、今後アメリカの間違った戦争につきあって海外派兵を行わないためにには憲法第9条を改正する必要があると思うので、ぼくは改正に賛成なのです。
 憲法第9条を「平和憲法」などという人がいますが、それは冷戦構造という状況の下だけの話でしょう。たしかに冷戦下では日本は9条を言い訳にすることによって戦争に参加せずにすみました。それは米ソの冷戦という構造下では、地政学上からいって日本はアメリカにとって重要な拠点にある同盟国であり、日本はそのことを利用することによってあらゆる軍事活動をアメリカにおしつけることができたからです。それはいわばニート的な卑怯なやり方ともいえますが、国益という点からすればうまくやったともいえるでしょう。
 しかし冷戦は終わり、日本はアメリカにとって何としてでも味方につけておかなければならない同盟国ではなくなりました。となると、日本はいざという時の安全保障をアメリカに頼るなら、ふだんからアメリカに軍事的に協力しなければならない状況になりました。その結果がイラク戦争への支持でしょう。
 このような現在の状況においては、憲法第9条は「平和憲法」どころかむしろ「戦争憲法」と化しつつあるんじゃないでしょうか。つまり、憲法第9条なんかがあり、自国だけでは国防ができず、いざという時にはアメリカに頼らなければならないがために、今後アメリカが行う可能性のあるあらゆる間違った戦争にも積極的に支持し、協力しつづけていかなければならなくなるということです。現在はもう、憲法第9条があるために、戦争をつづけなくてはならなくない状況になったわけです。
 そんなことを回避し、日本の判断で戦争を回避し、平和を維持するためには、まずアメリカに頼らない日本だけでの安全保障が前提として必要であり、そのためには憲法第9条を改正しなければならないとおもうわけです。

 さて、このようなぼくの考えがどの程度他人に支持されるものなのかはわかりません。
 けれども憲法改正について論議するっていうことは、例えばこの意見のように、現憲法下での国のありかたのどこが間違っているかを指摘し、これから日本をどのような国にしていくべきか意見をいい、そのためには現憲法のどこをどう変えていかなければならないかを議論していく、という流れになるのが本来なんじゃないでしょうか。
 改正案をもってきて、どこの文言に問題がある、なんてことをいきなりやっても枝葉末節が話にしかならないような気がして、興味がもてなかったのです。
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2007年02月14日

さいきん思ったこと

 だいぶこのブログに書き込むのをサボってたんで、少し最近おもったことを書こうとおもいます。といっても、もうタイムリーな内容でも何でもないんでしょうけど、最近気になったものとして、先頃の『あるある大事典』の問題を書こうとおもいます。ぼくはあれは酷いと思ったんですけど、どちらかというとデータ捏造とかよりも、あの後の関西テレビの事後処理の態度が酷いと思いました。その点について書きます。
 あの番組の内容の制作を関西テレビは孫受け会社に丸投げしており、関西テレビはあの問題は基本的には番組を制作した孫受け会社の責任だとし、自社に対してはきちんとチェックできなかったという責任だけを認めたわけですが、この「チェック」という言葉をどうとるかです。
 つまり、このようにいうとあの番組の制作は孫受け会社に一任されており、関西テレビはその内容の事実に誤りがないかチェックすることだけをやっていて、そのチェック時に捏造に気づかなかったという点にのみ関西テレビは責任があるといっているようにおもえないでしょうか。
 けれど(ぼくは彼らがどんなふうに番組作りをしていたのか知らないので、一般論で想像していうだけですが)ふつうこういった場合、孫受け会社が勝手に好きなように番組を作ってしまうことはありません。企画段階から何度もチェックが入り、放送局側が気にいった企画でなければ通らないし、気にいるように作らなければ制作は進まず、実際のところ孫受け会社としては関西テレビが気にいるように番組作りをしていかなければならない、関西テレビ側がかなり無理難題を要求してきたとしても、それに応えていかなければならないというのが一般的でしょう。
 そうして作られた番組が身近な食材だけ食べていれば痩せられるという、いかにもウケそうな視聴率がとれそうな内容であれば、関西テレビの側から(事実に忠実だが地味な内容の番組より)そんなウケそうな内容の番組をつくれという意向が孫受け会社に伝わり、孫受け会社は何としてもその意向にそった企画で番組作りをしなければ仕事にならない状況ではなかったのかと容易に想像できます。それで問題がおこったら全て孫受け会社のせいにしてシッポ切りを図るというのはどんなもんでしょう。
 いま格差社会というのが問題だそうですが、今回の場合関西テレビの社員と孫受け会社の社員とでは、立場上も収入の点でも大きな格差があるとおもいます。その理由はたぶん関西テレビがもつ既得権のせいでしょう。
 今回の件でもわかるとおり、地上波のテレビには絶大な影響力があります。しかしその地上波放送の許認可はごく数少ない放送局のみがもっていて、その既得権が絶大な効果があり、それが格差を生んでいるのです。つまり孫受け会社からしてみれば、自分がいいとおもう番組を作ったって自分では放送できない。地上波で放送してもらうためには関西テレビの気にいるような番組作りをしなければならないわけです。だから関西テレビの期待にそうように番組作りをし、無理な要求をされれば内容を捏造してでもそれに応えなければならない状況に追い込まれていったんではないでしょうか?
 つまり今回の場合、関西テレビはそんな既得権の上にあぐらをかいて、実際の番組制作は孫受け会社に丸投げし、自分の意向にそうように作らせておきながら、問題が起きればシッポ切りをして自分の責任をまぬがれようとしているじゃないでしょうか?
 さて、これと同じようなこと、つまり「既得権の上にあぐらをかき」「実際の制作は孫受けに丸投げ」「問題がおきればシッポ切りをして自分は責任をとらず」「一般と格差がある自分の恵まれた待遇、優位な立場を守り抜く」……ということを議員や官僚、大会社がやったとしらテレビはどういうのでしょうか?
 実際テレビを見ればそんなことをしている議員や官僚を批判しまくっているではないですか?
 それとおなじことを自分でやってどうするんでしょうか?
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2006年11月26日

テレビをみててちょっと…

 ずっと前、カート・ヴォネガット・ジュニアの小説を読んでいたとき、彼の代表作としては『猫のゆりかご』とか『スローターハウス5』とかが紹介されていることが多かったのですが、ぼくは何といっても『タイタンの妖女』だろうとひとりで思っていました。
 後になって爆笑問題の太田光さんがこの『タイタンの妖女』を特に好きな本としてあげていることを知りまして、ぼくは他にとくに理由もなく、あれを好きになる人ならきっと優れた感性をもつ人にちがいないと勝手におもっていたのですが、テレビで『もし太田光が総理大臣になったら』みたいな番組(タイトルうろおぼえです、すいません)をたまたま見てたとき、なんだこの程度の人だったのかとガッカリしてしまいました。戦争と平和をめぐる対話のとき、現実をまったく見ようとしないきれいごとばかりを言う太田さんの発言が嫌になったのです。
 ところが、この前の金曜日、たまたまテレビのチャンネルをあちこちにまわしてみてたとき、この番組をやっていまして、太田さんはいま問題になっている「いじめ」について、『いじめは無くなるものではない。だから「いじめを無くそう」などというきれいごとのスローガンを言うのではなく、現実におきている「いじめ」をしっかりとみすえて、それに対処していくことが大事なんだ』というようなことを提言されていました。
 きれいごとを信じることより現実を見ることが重要なんだとようやく気づいたようで、人間はやっぱり進歩していくものだなと、ぼくはおなじ『タイタンの妖女』ファンとしてうれしい気がしました。
 じっさい「いじめ」も「犯罪」も「戦争」も人間の行為として無くなるものではありません。もちろん無くなればいいと思うことだとはおもいますが、現実問題として無くなるものではないことを理解するリアリズムは必要であり、無くせるなどとおもう理想論によりかかってはいけません。
 だから、「いじめ」がゼロの学校などという理想論を信仰して、実際におきている「いじめ」を見なかったふりをするのではなく、現実をしっかり見すえて、その問題にきちんと対処することが大事です。もちろん「犯罪」も無くなることはありませんから、「犯罪のない、警察のいらない社会をつくろう」などといって、だから警察を無くそうなどと言うのは暴論であり、もちろん「戦争のない、軍隊のいらない世界にしよう」などといって、軍事力をもたない国家を目指すのも暴論です。
 しかし、ぼくが以前にこの番組を見たときには、太田さんは最後の暴論とおなじような平和主義を主張されているようにみえました。
 いったい、「いじめ」に対しては現実をしっかりと見ることが大事だと主張しておられた太田さんは、「戦争」に対しても事情はまったく同じなんだということに気づかれたのでしょうか。今後は彼の発言は変わるのでしょうか。
 たんに『タイタンの妖女』ファンとして共感するところが無いではない人間としては、ははやく気づいてもらいたい気でいるんですが。
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2006年11月08日

世界史の未履修

 さいきんニュースなどを見ていてばかばかしくなるのは、高校の世界史の未履修の問題です。なんていうか本質とかけはなれた、タテマエだけを話しているようなかんじがするのです。
 ぼくは高校の世界史は履修したはずだし、現在歴史が趣味ですが、ぼくの歴史の知識はほぼすべて授業とは関係のない自分で好きで読んだ本などによるもので、高校の世界史の授業が知識・教養として身についたわけではありません。それはたいてい、誰だってそうなんじゃないでしょうか。
 それは高校の世界史の授業というのは、歴史の試験でいい点をとるための授業であって、歴史を理解し教養を身につけるためのものではないからです。だから大学の入試で世界史の試験を受けないのなら、試験で点をとるためだけの授業なんて受けないのは有効な時間の使い方というべきであり、本質的には何の問題もないことじゃないでしょうか。
 そういった日本の学校の授業のありかたがはっきりとわかるのは英語で、たいていの日本人は中学・高校と6年間も英語の授業を受けているはずですが、学校できちんと勉強したために英語が話せるようになった、読み書きできるようになったという人とはまず会ったことがありません。現在の日本で英語が使える人というのはたいてい英会話学校に行ったり、自主的に勉強した人でしょう。
 なんで学校の授業では英語が使えるようにならないかはあきらかで、学校の英語の授業とは、英語の試験でいい点をとるための授業であって、英語が使えるようになるための授業ではないからです。もし英語が自由に話したい、英語が読み書きできるようになりたいと思うのなら、学校で6年間も英語の授業を受けているヒマがあったら英会話学校などに行ったほうがはるかに有効です。それでも学校で英語の授業を受ける理由は、試験で点をとるためという一点のみにあるのです。
 問題の本質は日本の大学にあることはあきらかです。日本の大学は入試偏重で、いわば大学で勉強をするところではなく、大学に入るために勉強するところになっています。そのため日本の大学生が勉強しないことは有名だし、逆に有名な大学に入るためには高度な受験テクニックを学ぶ必要があります。そのため高校までの授業とは結局その受験テクニックを教えることが目的となってしまうのです。
 しかし、その高度な受験テクニックというのは当然教養でもなんでもないので、入試をしない人間が身につけたって意味がないのです。
 現在、教師などがテレビに出て現在の高校・中学のどこが問題かを語ったりしてますが、問題の原因は大学のシステムにあるのだから、そこを変えないことには高校・中学がどう頑張ってもしかたないのはあきらかです。原因を断たなければ、対処療法だけでは所詮限界があるからです。
 つまり、日本の大学も、日本以外の先進国の大学がたいていそうなっているように、入試は簡単にして多くの学生を受け入れ、授業についていけない学生をふるい落としていくようなシステムにし、大学に入るために勉強をするところではなく、大学で勉強するところにすればいいんじゃないでしょうか。

 さて、こんな意見はまったくオリジナリティのある意見ではありません。ずっと前から、おそらく何十年も前から繰り返し指摘されていたことであり、おそらく誰もが前に何度も聞いたことがある意見だとおもうでしょう。
 しかし、こんなことは以前からいくらでも指摘されていたにもかかわらず、それでも大学のありかたはまったく変わってきませんでした。おそらく変えたくない人がいるのでしょう。
 しかし不思議なのは、大学のシステムを変えたくない人がなぜこのままがいいのか、変えたくないという意見を発言するのを聞いたことがないことです。いまだになぜ変えないのか、その理由がぼくにはわかりません。
 そして解せないのは、こういったことが問題になると、大学教授などといった肩書きをもつ人がテレビなどに出てきて、世界史の授業は必要だ、日本人は歴史の知識を身につけなければならない……などと空々しいタテマエをいいだすことです。
 歴史の知識が大事だと思うなら、単なる入試のためのテクニックを教えるものになってしまった現在の中学・高校の授業内容を根本的に変えなければならないのはあきらかだし、そうするためには入試偏重の大学のシステムを根本的に変えなければならないのはあきらかでしょう。それを放置しておいて、世界史の入試で点をとるためのテクニックを学ぶ授業を履修することが、なんで歴史の知識を身につけることであるかのように言えるのでしょうか。6年間英語の授業を受けても英語が話せないのと同じで、あんなものは履修したって世界史の知識なんて身につく授業ではないということはあきらかでしょう?

 結局、それでも未履修がいけないといえる理由は、履修している人もいるのにフェアじゃない、という一点につきるでしょう。
 しかし、それでは私立高校出身者と公立高校出身者を同じ入学試験で計るのはフェアなんでしょうか。聞いた話では世界史が履修しなければならない授業と決められているのは公立高校だけだという話ですが。
 なんでタテマエばかり話してて、本質に迫らないのかわかりません。
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2006年09月09日

失われていくもののはなし

 過去の話、自分の知らない時代の話というのは、ほとんど異文化の話のように思えることも多いです。それほど古い話でもなく、自分が生まれる数年前の話や、もう少し遡って、でも、いまのお年寄りなら誰でも知っている時代の話でも、現在からみると、ほとんどわからない、異文化のようにかんじられることがよくあります。
 そういった時代のことを誰かがきちんと記述しておいてくれれば、後から来た者にも理解できるのですが、その時代を生きて知っている人にとっては、あまりにも当たり前のことなんで、わざわざ書いておこうと誰も思わなかったりすることもあるようです。そうなると、それが当たり前ではなくなった以後に生まれた人間にとっては、まったくわからなくなります。
 それが少し前の時代にはあまりにもポピュラーであったにもかかわらず、むしろポピュラーで当たり前だったために、かえってすっかり忘れられてしまうということがあるようです。
 そんなことを二、三書きます。

 このまえ、昭和初期のモダニズムについて調べてみようかと思ったとき、では、その当時は小説ではどんなものが書かれていたんだろうと見てみました。こっちのカンでは、稲垣足穂とか、あのへんの時代なのかな……などと思っていたのです。
 すると、当時「新感覚派」と呼ばれた作家がいて、モダニズムの詩人とおなじように、新しいものとしてもてはやされていたと書いてありました。その「新感覚派」の代表は横光利一や川端康成だと書いてありました。それが妙に意外で、印象に残っていたのです。
 どうも川端康成というと、古き良き美しき日本みたいな印象で、あまり「新しい」というイメージがありません。たぶん、ぼくがも川端康成と聞いてイメージするタイプの小説とは違ったタイプの小説も書いていたんだろうな、と思ったりしました。もう一人の横光利一は、名前ぐらいは聞いたことがありますが、読んだことはありません。川端康成と違って文庫本もあまり見かけないし、あまり人気のない作家だろうと思っていました。
 ところが、山本夏彦の『完本 文語文』を読んでいると、ある時代について書いたところで、この時代は横光利一が最も人気のあって、小説の神様と呼ばれていた……という文章にぶつかりました。
 横光利一って、そんなに人気があり、かつまた評価もされていた作家なのかと驚いたわけです。
 しかし正直、いま横光利一と言われてもほとんどイメージがわきません。今も読まれてる人気のある小説というのも思い浮かびません。いったい当時は横光利一のどんな小説が人気があったんでしょうか。どんな理由で人気があったんでしょうか。

 それから、こんなこともありました。
 以前、瀬戸川猛資の『夜明けの睡魔』というたいへんおもしろいミステリ論に、アルセーヌ・ルパンのシリーズはルブランが書いた原作を読むより、南洋一郎という人が子供向けに書き直したシリーズを読んだほうがおもしろい……という一節があります。ぼくは読んでいて、そんなこともあるのかと印象に残っていたわけです。
 と、どこかで立川談志が誰かと対談しているのを読んだときだったと思いますが、突然この「南洋一郎」という人の名前が出て、しかも対談している相手に何の説明もなしに話が進んでいくのをみて驚きました。
 ぼくは「南洋一郎」なんて人は知らなかったし、子供向けのルパン・シリーズの訳者だということで、おそらく瀬戸川猛資のようなその道の好事家だけが知っているような、目立たないけれどもいい仕事をした作家なのかと思っていたのです。が、この「南洋一郎」という人は、ある世代の人にとっては誰でも知っている少年小説家であり、「南洋一郎」といっただけで、なんの説明もなしに誰もが理解するような有名人だったのです。
 しかし、多分その後の世代の人にとってはわからないでしょう。(ひょっとすると、瀬戸川猛資も知らなかったかもしれません)
 しかし、談志やその同世代の人にとっては、「南洋一郎」なんて説明する必要もないほどの有名人なんで、とうぜん説明もせずに語っていってしまうわけで、しかし、説明されないから、後の世代の人からみれば、やはりわからない存在になってしまうわけです。

 この横光利一にしても南洋一郎にしても、作品自体は探せば手に入るでしょう。しかしぼくは当時のその作品の受け入れられかたにも興味があるんです。それは作品を読んでもわかりません。
 例えばビートルズをいま聴けば、誰しもポップで親しみやすく口ずさみやすい軽快な音楽だと思うでしょう。あれが当時は過激な音楽で、世界じゅうに熱狂と反撥を巻き起こしたというのは当時の証言があるからわかることで、いまビートルズのCDを聴いてもわからないのです。
 たぶん作品が人気があったというのは、その時代に求められていたものと波長が合っていたということだと思います。当時がどんな時代で、横光利一や南洋一郎の小説がどんなふうに読まれていたのか、彼らが当時どんな存在だったのかは、その時代を知っている人が書いておいてくれないと、後から来た世代にはわかりません。
 しかし、たぶん当時を知っている人にとっては説明するまでもないようなことに思えて、あえて書かないまま終わってしまうということが多いような気がするんです。

 ぼくはネット・サーフィンをするとき、ときどきお年寄りが書いているブログはないかと探します。ぼくが知らない時代の、その時代には当たり前だった風俗が書かれているようなものはないかと。
 しかし、これがけっこう見つかりません。あるのかもしれませんが、どうやって検索すればいいかも思いつかないし……。

 この横光利一や南洋一郎のほかにも、例えば「小松崎茂」とか「大伴昌司」なんて人の名前は知ってるでしょうか? おそらく知ってる人にとっては、あまりにも当たり前なんで、説明する必要もないと思われてる名前なんじゃないでしょうか。しかし、知らない世代の人にとっては、まったく誰なのかわからないのでは?
 ぼくはいろんなものに興味をもつうちにポツポツとそういう人の名前を知っていくわけですが、おそらくもっと沢山いるんでしょうね。ぼくがまったく知らなくて、しかし、その世代の人にとってはあまりにも有名な人って。
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2006年08月25日

ここに書いてきたものをまとめました

 このブログに書いてきた文章のなかから、いままで短歌や詩について考え、書いたものを、少し書き足し書き直しして、まとめて編集したものをここに載せました。


http://www.bekkoame.ne.jp/~echika/airlike/bltanme.html

 このブログに書いてきた文章のなかから、ワーグナーのオペラを中心にしたクラシック音楽について書いたものをまとめてここに載せました。


http://www.bekkoame.ne.jp/~echika/airlike/opmenu.html


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2006年06月11日

図書館って犯罪じゃないか?

 ぼくは図書館は利用しているほうです。ですから、こんなことを書くと自分で自分の首を締めることになる面もあるのですが、前々から思っていることを書かせてもらいます。
 それは、こういうことです。

 図書館がしていることって、あきらかに犯罪行為ではないでしょうか?

 つまり、商業出版の無料レンタルっていうのは、どう考えても著作権法上許される行為とは思えないのです。公共機関が犯罪行為をおこなっているとしか。
 もちろん図書館には重要な役割・機能があります。各種資料や学術書など、調べものや研究などのために必要な書籍を保存し誰にでも閲覧できるようにしておくことです。その点に関しては問題なく、図書館というのは必要だし便利なものでしょう。
 けれど商業出版に関してはどうでしょうか?
 たとえば誰かが現在ロードショーをしている映画を不特定多数の人に無料で見せてしまったり、発売したばかりのCDを不特定多数の人に無料レンタルしたりしたら、あきらかに著作権上違法行為でしょう。以前、ロードショー中の映画を無断でDVDでコピーして販売している違法ソフトのことをテレビのニュース番組で見たおぼえがありますが、図書館がやっていることは無料で見せてるぶんだけより悪質ともとれます。つまりロードショー中の映画を無料でネットで流してしまっているようなもんです。
 どんな本であれ、著者や編集者、印刷業者、本屋など様々な人々の努力の結晶であり飯のタネでもあります。そうしてようやく作った本を、しかし出版したそばから、公共機関が無料で不特定多数の人にレンタルしてしまうという、他人の努力を踏みにじり、営業妨害をする行為がほんとうに許されていいのでしょうか。
 もうずいぶん前から本が売れない……ということが言われてますが、その大きな原因は、図書館なんかがあるからではないでしょうか。タダで読めるなら買わないで読む人が増えます。当たり前のことです。
 嘘だと思うなら、ロードショー中の映画を無料配信してみてください。客は確実に減るはずです。そんなことをした人は逮捕されるでしょうけどね。でも書籍の場合、なぜ逮捕されるどころか、そんな行為を公共機関が率先して行ってるんでしょうか。
 正確な数字は知りませんが、現在、日本では書籍よりマンガの単行本のほうがずっと多く売れてると思います。なぜマンガのほうが多く売れるんでしょうか。そこには現在マンガは発売したそばから図書館に無料レンタルされてしまうという被害から逃れられているジャンルであり、金を出さないと読めないものだから……という要因はないのでしょうか。

 商業的な本に関しては、もう図書館に置くべきじゃないんじゃないでしょうか。少なくとも出版後数年は図書館に置いてはいけないという規則を作るべきではないでしょうか。
 雑誌なども、うちの近くの図書館では何種類もの雑誌の最新刊が無料で閲覧でき、古くなったバックナンバーはリサイクル本などにまわされているようです。が、これも考え方がまったく逆なんであって、最新刊は無料で閲覧させるべきではなく、むしろ本屋では入手できなくなったバックナンバーはきちんと保存し、閲覧させるべきではないのでしょうか。
 ぼく自身、一度しか読まないエンターテイメント系の小説は図書館ですませてしまうことも多いので、こんなことを書くと自分で自分の首を締めることになるのですが、前々から思っていることなんで、書かせてもらいました。
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2006年05月21日

ニートについてかんがえた

 きのうの土曜日の日本テレビの『報道特捜プロジェクト』でニートの問題をやっていました。
 どうもぼくはニートの問題には考えさせられてしまうところがあります。というのは、ぼくは(べつにニートを擁護する気もないのですが)ニートを否定する側の意見に説得力を感じないのです。
 例をあげましょう。ニートを否定する人は(この番組でもそうでしたが)大人になってもいつまでも自立できないのは問題ではないかといいます。確かに彼らは親のスネをかじって生活しています。
 けれど、ヒトラーのナチス・ドイツもこれとまったく同じ考えから、身体障害者や精神病者を大人になっても自立できない、社会にとってマイナスしかもたらさない者たちであるとし、虐殺したそうです。大人になっても自立できない人間を否定するコメンテーターはこのようなヒトラーの考え方を肯定するのでしょうか。
 いや、それとこれとは違う。身体障害者や精神病者は自立したくても障害によって自立できない人間だし、ニートはそうではないではないかというかもしれません。
 ぼくはこのような意見には二つのレベルで反論があります。まず第一に、何年も引きこもっていて部屋から出てこないニートには、半分自閉症的な気質の人間がかなり含まれているという可能性をなぜ否定できるのかということです。たしかに精神病者とまではいえないでしょうが、体温が38度なら風邪とみとめて学校は休んでもいいが、37度9分ならきちんと学校へ来いというようなことが、そんなに正当性があることなのかという疑問があります。
 そして第二に、例えそのニートが健康だったとしても、そのような考え方には「身体障害者や精神病者のような人間が役立たずなのはかまわないが、健康な人間が役立たず(ニート)なのは問題だ」というニュアンスが含まれていないかということです。
 つまり、このような考え方はその根本において身体障害者や精神病者を役立たずな人間として差別していることにかわりなく、しかし身体障害者や精神病者は役立たずでも仕方のない欠陥人間だから勘弁してやっている……という考え方になります。はたしてこれは正しい考え方なんでしょうか。

 例えばゴッホという人を見てみましょう。彼の描いた絵は今では億の値がつくのでしょうが、生前はまったく売れませんでした。つまりゴッホは一生弟のスネをかじって生きていた、まぎれもないニートです。
 この番組に出演していたニートはマンガを描いているといい、コメンテーターはそれを雑誌などに送ったことがあるのかと聞き、送ったが相手にされなかった……という答えを引きだしてました。いったいあの番組を見た人で、もしあのニートが送ったマンガが編集者に評価され、彼がマンガ家として大金を稼いでいたらそれはいい事で、編集者に相手にされないマンガしか描けないからあのニートはダメなんだと思った人はいないでしょうか。
 しかし、ゴッホはまさしく生涯、自分の描いた絵を相手にされず、絵がまったく売れなかった画家なのです。いや、絵が売れてないのですから画家ともいえないでしょう。趣味で絵を描いていた、自称画家のニートです。
 では、ゴッホは売れない絵など描くのをやめ、きちんと職業訓練を受けて自立するべきだったのでしょうか。
 それとも、結果的にゴッホの絵は死んだ後に高値がついたから良いということなんでしょうか。でもそれはゴッホが生きて絵を描いていた時には誰にもわからなかったことのはずです。
 こういった例はゴッホばかりでなく、それこそ数かぎりなくあるでしょう。
 といっても、ぼくはニートの味方をしたいわけでもありません。もし目の前に、自分はゴッホのような世の中に理解されない芸術家なんだと自称し、働かないで生きている人がいたら、嫌な奴だと思うでしょう。
 しかし、これはそう単純な価値観で割り切ってしまうことのできない、かなり難しい問題があるといいたいのです。

 ぼくがいま漠然と思い描いているイメージは、その時代の社会・共同体が決めた枠組みが正常と異常を生み出すのではなかということです。
 つまり、いまの社会に、社会が定めたある枠の内に入るような人間を求めている仕組みがあるとします。すると、その枠に入る人間が役に立つ人間であり、正常な人間、有用な人間となります。しかし、当然その枠からどうしてもはみだしてしまう人間も出てきます。これが役立たずな人間と呼ばれる、社会不適応者や障害者なのではないかと思うのです。
 これは聞いた話ですが、ある種の精神分裂病患者は狩猟を主におこなっている社会では何の問題もない人間として暮らせるのだそうです。つまり、その時代の社会・共同体の仕組みのほうが、彼らを社会不適応者としてはじき出しているともいえるようです。
 そして、ぼくが思うことは、そんな正常の枠のなかに入れない人たち、枠からはじき出されてしまった人たちというのも、役立たずのようにみえて、実は必要な人たちなのではないかということです。
 「有用なものの限界」というのはバタイユの本のタイトルですが、枠内に入る有用な人間や社会そのものに力を与え、あるいは社会・共同体が時代によって変化するときに重要な役割をするのは、その枠内に入らない、無用だとおもわれている人たちだということはないでしょうか。すくなくとも、そういう一見無用とおもわれる部分を許容し、共存している社会・共同体のほうが、ぼくには正常のように思えるのです。
 ニートを自立させようとする試みとは、つまり枠の内に入れないでいる者たちをなんとか枠の中へと押し込んでしまおうとする試みだと思います。それもわるいとはいいません。そしてヒトラーが行ったことは、無理にでも枠に押し込み、それでも枠の中に入らない人間は虐殺して無くしてしまうということでしょう。
 けれど、ヒトラーが夢想したような、すべての構成員が有能で機能的に組織された、つまり有用なものだけの社会というのは、たぶん一つの目的に向かっているときには強力なパワーを生み出すかもしれませんが、あんがい脆くて、時代の変化に対応する能力ももたないのではないかと思うのです。
 例えば前近代社会では精神異常者はむしろ社会にとけ込んで生きていて、ある種の聖性を帯びて受け入れられていた例も多いそうです。
 あまりにも多くのニートを生み出している現代社会というのは、別の見方をすれば、社会が人間にたいしてあまりに狭い枠を設定し、その狭い枠に人間を強引に押し込もうとするように変化してきているため、より多くの人間がはじき出されるようになったからだということもいえるのではないでしょうか。
 そういった許容力をなくしつつある社会の側にも問題はないのでしょうか。

 もちろん、それでも自立を良いこととし、ニートに自立をうながすことをわるいことだという気はありません。
 でも、この番組で紹介されていたニートの社会復帰のためのカリキュラムには疑問を感じずにいられなかった部分もあります。
 集団生活になじめないニートたちに合宿をさせて集団生活を教え、武道で鍛えたりしながら職業訓練しているようですが、なんというか日本のこういう組織ってなんでどれも軍隊式の色彩をおびるのでしょうか。
 そもそも引きこもりになるような人間は集団生活が苦手な人間でしょう。そんな人に無理やり集団生活を叩き込むことがそんなにいい結果をもたらすものなんでしょうか。むしろ、集団生活などしなくてもやっていける仕事を紹介し訓練する場を与えるほうが有効なんじゃないでしょうか。
 工芸品の職人のなかには後継者不足に悩んでいる場合も多いようですが、たとえば大半を部屋に閉じこもって一人で作業するタイプの職人などの仕事のほうが適性がある人も多いような気がするんですが。
 もともと適性のない事を無理にさせようとしても、一時はうまくいったとしても、結局はその無理が蓄積されていって、あまり良くない結果をもたらすような気がするんですが、どうでしょう。
 集団生活ができなくたって、生きていく道はありますよ。
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2006年02月15日

ホリエモンとゲーム脳 2

●みんなじゃない人たちはとてもこまるんだ みんなで仲良くなんかされたら


 きのうの続きです。

 昨日ぼくは法を超える倫理なんてものはないし、あっては困ると書きました。そのことについて説明します。

 もともと「倫理」という言葉は孔子の論語からきています。その孔子を批判したのが韓非子の法家の思想です。韓非子の批判の要点をいい加減に簡略化して説明させてもらうと、こうです。

「孔子が理想としたのは古代の小規模の共同体である。たしかに小規模の共同体であれば倫理だけで運営することも可能である。しかし社会が巨大化し複雑化してくると倫理だけではやっていけなくなる。そのときにはしっかりとした法を定めて、システマティックにものごとを判断していく必要がある」

 ……ということです。
 倫理だけではやっていけなくなり、法が必要となる事態とはどういうことなのか、それをこれから説明してみます。

 ぼくの意見を言わせてもらえば、現在の日本においてはホリエモンみたいな人間が株で大儲けすることよりも、例えば談合のほうがよほど根強く深刻な問題です。最近、防衛施設庁の談合が明るみに出ましたが、氷山の一角であることは誰でもわかっていることでしょう。日本では実に多くの企業、団体が談合にかかわり、しかも確信犯でやってます。ホリエモンなんか叩いてる暇があったら、こっちを何とかしなけりゃいけないんですよ。
 でも、談合は根強く、なかなか無くなりません。なぜか。
 談合とは「みんなで仲良く利益を分けあう」行為だからです。談合をしなければ競争がおこり、弱い者は淘汰されていきます。しかし談合をすれば、みんなで仲良く生き残っていくことができます。日本人は「みんなで仲良くする」ことが良いことだという倫理観をもっているのです。だから、違法であることは知っていても、なかなか談合はなくならないのです。
 しかし広い視野に立てばその倫理観は間違っているのです。正確にいえばもう時代遅れになり、現在の社会の実状と合っていないのです。「みんなで仲良くする」のは良いことではないのです。なぜなら、「みんなで仲良く」なんかされたら、「みんなではない人」が不当な不利益を被ることになるからです。
 さて、「みんな」とは誰のことでしょう。「みんなで仲良くする」ことが良いことだという日本人の倫理観はどこから生まれてきたのでしょう。

 日本人は何千年ものあいだ山あいの村で農業をして暮らしてきました。日本のように山地の多い島国で定住型の農業をするのですから、人々の暮らしは自分が耕作する土地に縛られることになります。つまりお隣さんは一生お隣さんであり、先祖代々、孫子の代までお隣さんです。ご近所さんも、ずっとご近所さんであり、村の住人も生まれる前から死んだ後まで一緒です。日本人の倫理観とは、いわばそのような村社会でどうやって生きていけばよいのかという生きる智恵から出てきたものであることが多いのです。
 例えば、隣りと仲が悪かったとしたら、孫子の代まで仲が悪いままで暮らさなければならないわけですから、なるべく角をたてずになあなあで仲良くやっていこうという処世術が生まれます。例え互いの関係で嫌なことがあっても、水に流してまた仲良くしようとする習慣が生まれます。つまり小さな村で共に生きていくために「みんなで仲良くする」ことが良いことだという倫理観がここで生まれます。つまり「みんな」とは同じ村の住人のことです。
 さらに農業というのは、隣りが豊作になったから自分が不作になるということはありません。豊作の年は村じゅうが豊作だし、日照りや冷害で不作になるときには村じゅうが不作です。農村では住人どうしで利益を奪いあって競争するということはないのです。だから、競争するより助けあって生きていくのがいいという考え方になります。
 また、機械化される以前の農業では一人の人間が耕作できる面積はだいたい変わらず、どんなに能力のある人間でも人の何十倍も耕作することはできません。むしろ日頃から怠けずに丹念に手入れをしていったほうが確実に収穫があがります。そのため、個人の能力はさほど評価せず、むしろ怠けずに額に汗してせっせと働く人を評価する価値観ができあがります。
 こういったものが、数千年間にわたって小さな村社会で生きてきた日本人に身についた倫理観でした。そしてそれは小さな村社会で生きていく限りにおいては優れた生活の智恵だったのです。
 さて、しかしこの百年ほどのあいだに日本の社会は、この数千年のあいだになかったほどに大きく変化しました。いまでは山あいの村で農業をして暮らしている人口より、都市でサラリーマンをしている人間のほうがはるかに多いでしょう。
 そのときに多くの日本人は、しかし山あいの村で暮らしていた頃の感覚・倫理観からまだ抜け出せないでいるのです。
 そのため、社会のあちこちで小さな村社会ができ、その村社会で「みんなで仲良く」利益を分け合う習慣が生まれました。これが談合です。
 防衛施設庁の談合の場合、防衛施設庁や関連企業が小さな村を形成し、その小さな村で利益を分け合って「みんなで仲良く」していたわけです。しかしそれはその村社会以外の人間にとっては大きな不利益になるのです。だから談合は犯罪なのです。
 つまり、山あいの小さな村で暮らしていた頃はそれで良かった倫理観が、時代が変わって、人間がより複雑で巨大化した社会で生きるようになってくると、そんな倫理観だけではたちいかなくなってくる。そこに韓非子が孔子を批判した要点があります。
 そのため早くから商業が発達していた国では「みんなで仲良くする」のが良いのではなく「フェアに競争する」のが正しいというルールになっています。そして日本でも談合は犯罪であると法によってきちんと定められたのです。しかし日本人はなかなか村社会の倫理が抜けきれず、そのため談合がなくならないのです。犯罪であるとわかっていながら、それによって大きな不利益を被る人々がいるのを知っていながら、確信犯で犯行を続けるのです。
 だから、例えばホリエモンを批判するときにも「額に汗して働くことが正しい」的な、ほとんど時代錯誤の農村社会的なイメージが登場してくるのです。現代のサラリーマンは空調の完備した部屋で激務をこなしている人も多いと思いますが、彼らは「額に汗して」ないからダメだというつもりでしょうか。
 つまり、法以前に倫理があるなんていいだしたら、その倫理こそが犯罪の温床になるのです。そんな倫理で法を守っている人間を断罪していいわけがありません。
 しかし自分の倫理観を疑うことはなかなか困難です。いくら理屈でわかっていても、どこかで心が従ってしまう。だから日本における談合のような倫理観と妙に合致した犯罪こそが深刻な問題になるのです。
 もちろん談合をとりあげたのはほんの一例であり、日本には他にも根強い問題はあります。そしてそれが根強い問題であるほど、日本人の長いあいだの習慣や倫理観に根ざしており、そのために解決が困難になっているのです。

 このように、倫理観が時代や社会の変化にそぐわなくなったために問題を生じてくることの他に、倫理観がもたらすまた別の問題もあります。それは、倫理とは単一ではないということです。
 どんな民族でも歴史に根ざしたそれぞれの倫理観をもっています。しかしその倫理観は文化や信じている宗教によって異なるものです。その倫理観どうしが正面からぶつかれば争いになります。
 それを避ける機能をもつのもまた「法」です。
 つまり、どんな倫理観をもっているにせよ、その国で生きていくうえではその国のルールを守らなければならない、そのルールを条文化したものが法です。それは社会が複雑化し、さまざまな立場の人間が一緒に暮らしていくうえでは必要なことでしょう。ここも韓非子が孔子を批判した要点です。
 だから、法とはどんな倫理観をもつ者であっても、その倫理を超えて守らなければならないルールであり、法を超える倫理なんてものはないし、あっては困るのです。だからこそ「違法でなければ何をやってもいい」のだし、そういえるように法を作らなければなりません。
 そして、もし現行の法では罪にはならないが、これはしてはいけない行為だと誰もが思うような行為があるとしたら、それは倫理において裁くのではなく、法そのものを変えることによって、そのような行為を許さない新しいルールにしていくことをしなければならないのです。

 ただし、日本の場合、司法にもかなり問題があるのですが。
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2006年02月14日

ホリエモンとゲーム脳

●また雨がやってくる きみの知らない羊の国で少女が濡れる


 現在テレビでホリエモン叩きが続いています。善人然としたコメンテーターが「違法でなければ何をやってもいいというのではなく、会社経営には倫理が必要であり、法律よりもそれ以前に倫理が重要なのだ」とか、ホリエモンのやっていることは虚業であり「額に汗してものを作り出す仕事、他人によろこばれる、できれば国際競争力のある商品を作りだす仕事にこそ生き甲斐を見出すべきだ」風のコメントを言っています。
 ぼくはとくに堀江氏に好意をもっているわけではないのですが、このようなことを言う人、コメンテーターが大嫌いなのです。
 そのことについて書いてみようと思います。

 そんなとき思い出したのが、少し前にテレビでよくやっていた「ゲーム脳」についてです。つまり「テレビゲームをやっていると、子供の脳が異常をきたし、犯罪に走りやすい脳になる。最近子供が加害者になる事件が増えているのは、そんなゲームによって悪影響を受けた『ゲーム脳』の子供が増えているせいだ」という説で、おそらくどっかの大学教授が言い出したアヤシゲな説だと思いますが、一時はいろんなチャンネルで特集など組んだりしてましたが、最近は言わなくなりました。
 言わなくなった理由の一つは、おそらく統計が出て、子供が加害者になる事件は年々減っているという結果がわかったことではないかと思います。つまり、凶悪な事件がたまたま連続しておきたために子供が加害者になる事件が増えているような錯覚をし、ロクに考えもせずに早計にそんな珍説に飛びついてみたものの、後で冷静に見てみたら子供が加害者になる事件は年々減っていることがわかり、もし「ゲーム脳」なんてものがあるとしたら、むしろ犯罪をおこしにくくなる脳だと考えなければいけないということになったというところでしょうか。
 さて、しかしロクに考えもせずに大学教授の珍説に飛びついてテレビで何度も「ゲーム脳」の特集を組めば、とうぜん日本のゲーム業界が悪影響を被ります。
 しかし考えなければいけないことは、ゲーム業界はまさに「額に汗してものを作り出している」業界であり、しかも日本有数の国際競争力のある商品を次々に作りだしている業界だということです。そのような業界をみんなで叩いていた、つまり、現在ホリエモンとの対比において奨励している業界を、昨日はみんなで叩いていたということです。
 この一貫性の無さはなんでしょうか。
 しかし、ぼくはそのテレビの一貫性の無さを批判する気はないのです。むしろ、その一見一貫性が無いように見える底に隠れた一貫性があるように見え、そこが嫌なのです。
 それは「現在の社会には問題がある。しかし、その真の深い問題を問わず、眠らせたまま、わかりやすいスケープゴートを叩くことによって溜飲を下げようとする姿勢」です。
 そしてその時にスケープゴートにされるのは、彼らの村人的倫理観にそぐわない「異物」や「よそ者」です。つまりゲームやホリエモンです。

 例えばゲームのような、新しく力をもってきた分野、「異物」を叩くということは、以前からずっと行われていました。手塚治虫の本を読むと、マンガが人気を得ていく過程でいかに社会から叩かれたか、手塚がそういった偏見と戦ってきたかが書かれています。マンガに限らず、映画だって全盛期には叩かれたし、ビートルズが出現すればロックは不良化のモトとされたようです。テレビだって、とうぜん教育によくないと叩かれました。
 インターネットが普及し始めた頃も、テレビでしきりにネット社会がもたらす犯罪の特集が組まれていたようにおぼえています。たしかにネットが犯罪に結びつくことはありますが、例えば犯罪に自動車が使われたとしても「自動車社会がもたらした犯罪」とは言わず、犯罪に電話が使われたとしても「電話社会がもたらした犯罪」とは言わないことがポイントです。つまり自動車や電話は彼らの村の風景なわけです。そこにインターネットという彼らにとって見慣れぬものが進出してきたときに、それを犯罪という悪のイメージとことさら結びつけることによって排除しようという衝動が生まれるわけですね。
 最近はあまりそんな言われかたをしなくなりましたから、多分彼らもインターネットを始めて、これも村の風景に馴染んできたからでしょう。
 そして勿論「よそ者」の排除です。つまり村の倫理観にそぐわない者が力をもってくると、みんなで排除する。これは歴史を見てみると織田信長を筆頭にいくらでも例の上げられる現象です。

 つまり彼らは自分がレッテルを貼った価値観を疑わず、見慣れた世界のなかでお馴染みの顔だけを相手に生きていきたいのです。そのため、見慣れぬものが出てくると汚名を着せて排除したがる。しかもその見慣れぬよそ者が力を持ったり、大金を稼いでいたりすると、ことさらに嫉妬し引きずり下ろそうと虎視眈々と狙いはじめます……。
 ライブドアに強制捜査が入ると喜び勇んでテレビに出てきて、得意顔で「倫理」だの「額に汗して働くことの素晴らしさ」などを善人顔して主張する彼らの顔を見ると、その腹の底にどす黒い嫉妬心と異物排除の怨念が渦巻いているのがすけて見えて、うんざりさせられ嫌な気分になるのです。

 ホリエモンが法律違反をしたのなら当然処罰されるべきです。でも、それは法律違反をしたから処罰されるのであり、「額に汗してものを作り出す仕事」をしなかったから処罰されるのはおかしいし、まして日本人の倫理観にそぐわないからといって不当に叩かれることは許されてはいけません。法を超える倫理なんてものはありません。あっては困るのです。
 だからもちろん「違法でなければ何をやってもいい」のです。そのように法を作らなければなりません。そうなっていないのだとすれば、法に不備があるということなのです。
 そして、そんなホリエモンやゲーム脳などを叩いているうちに忘れられてしまうのは真の深い問題です。それはむしろ、彼らの倫理観そのものに根ざした問題です。
 自分勝手な倫理観でスケープゴートを叩くことで満足してしまうと、まさにその倫理観そのものがもつ深い問題から目をそらされてしまうのです。ホリエモンなんかより、彼らの倫理観のほうがより深く根強い問題を含んでいます。

 そのことについて書きたいのですが、長くなったので明日につづきます。
posted by aruka at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月27日

試しにブログをはじめてみました

●まっすぐに防波堤に立っているアバラ全開の決意少年

 あんまりよくわかっていないブログってものを調べてみているうちに、ついいきいで、試しにブログを作ってみようと思ってしまいました。
 短歌を一つ載っけて、それに短い文章をそえる、っていうかんじでやってみようと思います。
 けど、なんせ、いままで日記も続いたことがない人間なんで、はたしてコンスタントに書いていけるかあやしいもんなんですが、ものは試しってかんじで。

posted by aruka at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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