2008年05月03日

院政って

 堀田善衛の『定家明月記私抄』の正篇を読んでから、ちょっとこの時代に興味をもちまして、続篇を読むのをおいて、いろいろな本でこの時代のことを拾い読みしました。
 定家が活躍したのは後白河院から後鳥羽院におよぶ、いわゆる「院政」の時代にあたります。ぼくは歴史を趣味にはしてきましたが、歴史といっても興味のある部分とない部分があり、このへんの院政とか公家文化にはいままで興味がなく、なんで「院政」なんてややこしいことをしたのかわからないできました。天皇の座を退いてから権力をふるわなくたって、天皇のまま力を発揮すりゃあいいじゃないかと思ってきたわけです。
 しかし、ここにきてようやくこの「院政」なんてことをする理由がわかってきた気がしました。
 というのは、どうもそれはこの時代の宮廷文化というのが理由のようです。

 どうもこの時代は日本に、いわゆるサロン的な宮廷文化が生まれた時代のようです。後鳥羽院という人を見てみますと、この人は歌においても名人なら、当時のさまざまなスポーツのようなものも率先してやるような人だったようです。ところが、宮廷でそういった、いわばゲーム的な文化をしようとするなら、身分上の上下関係をいったん無しにしてやらなきゃ面白くないわけですね。そうしないと永遠に続く接待ゴルフみたいなもので、歌合などやっても常に身分が上の者が高い評価を受けなきゃならないし、スポーツやっても上の者に勝たせなきゃならない。そんなんでは身分が上のほうとしても面白くないわけです。
 おもしろくするためには、そのゲームの内においてはいったん身分の上下関係は無しにして、対等な立場にしなければならない。でも、天皇は神聖なものなんで、天皇の権威を引き下ろすことはできない。他の貴族がゲームで天皇に勝つわけにはいかない。となると、天皇は位は幼い皇子にゆずって、天皇は宮廷の外において宗教的な行為に専念してもらうことにする。そしてその天皇も年をとると天皇の位をさっさと幼い皇子にゆずって、自分は世俗化し、宮廷文化に加わる……ということをやっていた。それがいわゆる「院政」の時代だったようです。
 つまり、こういったサロン的な宮廷文化というのは、貴族階級の身分上の上下関係が弱まって、最高権力者の世俗への下降指向みたいなものが出てきたときに生まれるもののようです。
 後白河院は当時の庶民の「はやり歌」を集めて『梁塵秘抄』を編んでいますが、これも当時の公家の庶民文化へあこがれる下降指向の産物とみてよいようです。フランスのブルボン朝の末期にマリー・アントワネットは当時の農村のテーマパークみたいなものをつくってその中で遊んでいたという話ですが、そういった貴族の庶民へのあこがれみたいなものは、文化の爛熟期に出てくるもののようです。
 ということは、院政の頃の日本の宮廷文化というのは、ブルボン朝の末期のように、爛熟していたということなんでしょうか。
posted by aruka at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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