2008年03月09日

短歌とオカルティズム

 塚本邦雄という人の作品を最初に読んだとき、ぼくは澁澤龍彦とか種村季弘といった人たちの文化圏と似ているような気がしました。そして、調べていくとそれもあながち間違いでもなかったようです。年譜を見てみると、塚本は1950〜60年代は3〜5年おきに歌集を出版するていどだったのが、1968年に澁澤龍彦が責任編集をしていた『血と薔薇』に評論を載せるようになり、そこから歌壇以外の一般読書界に活躍の場を広げ、出版する本の数も一気に増えていっています。
 この塚本と澁澤〜種村あたりとのつながりというのはどういうことなのか、最近その理由がわかってきた気がしました。

 澁澤〜種村がした主な仕事とは何かといえば、おそらく西洋のオカルティズムの紹介というのが大きい気がします。もちろんここでいうオカルティズムとはUFOとかスプーン曲げなどの通俗化したオカルトのことではなく、数百年にわたって秘教伝授されてきた文化としてのオカルトです。
 そしてどうも最近わかってきたことは、象徴主義というのは、どうもそういったオカルティズムと地続きらしいということです。
 それは象徴主義の詩人は何か象徴となるイメージ・言葉をとりだすときに、人間の内面の奥深くに手をさしのべて、無意識の奥からイメージ・言葉をとりだそうとします。そしてユングの心理学をみるとわかるとおり、その深層心理の領域とはオカルティズムの領域であるようです。それはおそらくオカルティズムとは人間にとっての根源的な衝動、闇への恐怖とか、自分を超えて巨大なものへの畏れとか、そういったものに形象を与えたものだからではないかとおもいます。それはいわば反理性の領域とでもいうものです。
 そもそも西洋文学をじっくりと見ていけば、そういった反理性のオカルティズムというものは理性的な文学の裏側につねに存在したものであるのがわかってきます。『ボヴァリー夫人』の作家は『聖アントワーヌの誘惑』の作家でもあるし、『ゴリオ爺さん』の作家は『セラフィタ』の作家でもあります。象徴主義の詩人もたいてい何らかのオカルティズムに親しんでいるようです。
 しかし、多分明治以来の日本の文学界というのは西洋から西洋文化の理性的な側面、『ボヴァリー夫人』や『ゴリオ爺さん』の側ばかりを輸入して取り入れようとしてきたような気がします。とうぜんそこには問題もあるわけで、そういった風潮に対して、反理性的な西洋文化を紹介したところに澁澤〜種村の仕事の意義があったのではないかとおもいます。
 そして塚本邦雄の仕事というのは、あまりにも理性的な「写実」の方法論が支配的だった日本の短歌界に、象徴主義的な手法をとりいれたことにあったのではないかとおもいます。となると、必然的にオカルティズムに接近していかなかければなりません。西洋の、あるいは日本のオカルティズムでもいいわけですが、その深みのなかから象徴をとりだしてこなければいけないことになります。
 塚本邦雄と澁澤龍彦らとのつながる部分て、そういう部分だったのではないでしょうか。

posted by aruka at 21:44| Comment(5) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めてコメントさせていただきます。
arukaさんのブログは文章がとても面白く、いつも興味深く読ませていただいています。
私は一ヶ月ほど前にふとしたきっかけで短歌に興味をもち、あれこれ歌集を読んだりしている超初心者です。
そこで、突然なのですがarukaさんに塚本邦雄の短歌について質問をさせていただきたいのです。(本当に突然ですみません・・)
「作歌のヒント」(永田和宏著・NHK出版)という昨年12月に発売された本の中で、次の塚本邦雄の歌が、比喩表現の成功例として紹介されています。(P178)

ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺    「感幻樂」

この「ほほゑみに肖てはるかなれ」というのが比喩表現なのだと説明がされているのですが、私にはいったい何の比喩なのかさっぱりわかりません。
とても気になっているのですが、残念ながら私には短歌について質問をすることができるような知人がおりません。
突然の質問で大変失礼なのは承知しておりますが、ご教授いただけませんでしょうか。よろしくお願いします。
Posted by 海月 at 2008年03月10日 21:52
 はじめまして。コメントが遅れてすいません。

 ぼくはその「作歌のヒント」という本を読んだことがありませんので、どういう文脈で出てくるのかはわからないのですが、ご質問の歌の意味は、火事で燃えている家のなかにある一台のピアノにたいして、「ほほゑみに肖てはるかなれ」、つまり、「微笑みにも似て遥かであれ」といっている内容です。
 比喩表現という点であれば、「ほほゑみ」が「はるか」であることの比喩ともとれますし、ピアノへかかる比喩ともとれそうな気がします。
 このような説明でいいのでしょうか。ぼくの説明が筋違いでしたら、もう一度質問してください。


Posted by aruka at 2008年03月13日 04:35
 ふたたびarukaです。
 きのうは寝ぼけながらオンラインでよく考えもせず書いてたんで、もう少しちゃんと書き直します。

 これは「○○は××と似ていて△△だ」という内容ですから、直喩というべき喩法ですね。直喩というのは対象としたものを強引にくっつける効果があります。例えば「きみの指は雨のように優しい」と書くと、「きみの指」と「雨」がともに「優しい」ものであると表現していることになります。つまり

ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺

 は、「火事のなかのピアノ一台」が、「微笑み」と似ていて、ともに「遥かな」ものであるといっていることになります。
Posted by aruka at 2008年03月13日 10:08
こんばんは。
大変丁寧な解説をどうもありがとうございました。よくわかりました。
なるほど、「火事の中のピアノ」と「ほほゑみ」が似ているとは、塚本邦雄の想像力のすごさみたいなものを感じることができました。
ますます短歌に対する興味がわいてきそうです。
Posted by 海月 at 2008年03月13日 21:52
郵政儲金(ちょきん)簿や生命保険証書など8点。前田
Posted by トリーバーチ 財布 at 2012年07月30日 22:33
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