2008年02月19日

風流と雅(みやび)

 以前、山本夏彦の『完本 文語文』を読んだとき、短歌というものは江戸時代までは「風流」であったのが、正岡子規が「文学」にしてしまったという記述に出会ったのですが、そのときは「風流」ということについてそれほど深くは考えはせず、そんなものかという程度の感想で読みすごしてしまいました。
 ところが最近、たまたま小西甚一の『中世の文藝』という本をぱらぱら見ていて、おもしろい記述にぶつかりました。ぼくなりに要約させて書かせていただきます。

 この本によると「風流」とは「雅(みやび)」というものと結びついたものであり、「雅」とは、既に完成されているとするある表現こそ永遠のいのちをもつものだとする考え、そこを目指していくような考え方で、「古典主義」に近いものなんだそうです。そして「風流」とはそんな「雅」にしたしむ生活の理想的典型のようなものなのだそうです。
 ぼくはつい短歌とか、文芸系のものを見ると、それは作者が表現するものと考えがちですが、考えてみれば(簡単に気づかなければならなかったことですが)そんな主体が表現するものが文芸であるといった考え方はおもに近代以後に根付いてきたもので、それ以前の文芸においてはかならずしもあてはまるものではありません。つまり短歌とは、江戸時代までは、ある理想的な典型に向かって自らの表現を高めていこうとするものであり、そんな「風流」を楽しむためのものだったようです。
 となると、すでに完成されている典型を目指すわけですから、個性とか創意といったものはそれほど重視されないもので、むしろ、それでよかったもののようです。
 おそらく近代短歌というのは、正岡子規がそんな「風流」を「月並み」だといって否定し、創意や個性を重視したところからはじまるのでしょう。

 しかし、子規の時代においては、いわばそうなっていくのが大きな時代の流れだったのかもしれませんが、そんな近代化の時代もずいぶん遠く過去になり、「文学」というのもずいぶん色を失った現在からすれば、そういった考え方も疑ってかかるべきなのかもしれません。
 そもそも個性や創意を本当に重視するなら、なんで短歌なんていう千年前からの定型をいまだに守るんだという問題もあるわけで、それでも短歌を書くという行為は、どこかでそんな近代に背を向けて、既に完成された理想的典型を目指してみる行為(雅)という側面があるんじゃないでしょうか。
posted by aruka at 04:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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