2008年02月18日

「題詠100題2007」を観賞しておもったこと

 しばらく短歌ともブログとも関係のない生活をおくってまして、「題詠100題2007」の観賞も中断しておりました。
 観賞が中断した理由は、なんだか答えが見えてきてしまったからです。
 もともと、他人が書かれた作品を自分で選んでみることによってわかることがあるのか確かめてみるつもりではじめた観賞でしたが、だいたいぼくが選ぶ作品の傾向もその問題点も、最初の10題くらでもわかってきてしまいました。
 まずぼくはおもしろい言い回し、美しい表現をしている短歌をいいと思い、選ぶ傾向があるようです。では、そのような表現力のある作者を良い短歌の書き手だと思い、これからも書き続けてほしいと思うかというと、よく考えてみると、そうは思えないのです。
 というのは、たった31字前後しかない短歌という形式では、いくら表現力のある作者であってもたいした内容は書けません。せいぜい「この表現はおもしろいでしょう」という程度のレベルで止まってしまいます。となれば、こういう人は、力のある人であればあるほど、短歌なんかさっさと卒業して、小説とかエッセイとか、より長い文章を書ける形式にすすんでいったほうがいいと思うのです。そのほうが、その表現力を駆使して、もっと複雑で深い内容のものが書けるはずだからです。恋愛小説の1シーンのような短歌を書いている人は、おそらく短歌なんか卒業して素直に恋愛小説を書いたほうがいいんです。
 そうなると、短歌という31字前後しか書けない形式を、あえて選んで書きつづける必然性ってどこにあるんでしょう。
 どうもそこがわからなくて、止まっていたわけです。

 そんなとき、ダンテの『神曲』など叙事詩の味を知りまして、ちょっと興味がそれていました。
 そして疑問におもったことがあります。それは、『神曲』やミルトンの『失楽園』など、物語的な内容をもった長大な叙事詩というのは、小説とどこが違うのだろう。両者の本質的な違いはどこにあるんだろう、ということです。
 もちろん韻文であるという理由がまずありますが、それだけが理由でもない気がしました。
 そして思ったことは、叙事詩というのはだいたい世界全体・宇宙全体を象徴するように構成され書かれているのにたいし、小説はそうでないということです。たぶんそこに最も本質的な違いがあるんじゃないでしょうか。
 そう考えると、じゃあ短歌というのは何なんだろうという気になります。長大な叙事詩とちがってたった31字しかないのでは、宇宙全体や世界全体を象徴させられるわけないじゃないかという気がしました。
 けれど思ったのは、やはり短歌もまた、本来は31字で宇宙を描きつくすようなところを目指している形式なのではないかということです。それはつまり、路傍のちいさな小石に宇宙を見る……というような境地でしょう。
 だいたい世界観・宇宙観のようなものは、原稿用紙何千枚で描いたって、しょせん書き尽くせるものではありません。けっきょく暗示し、象徴させるしかないでしょう。だとすれば、数千枚の枚数をつかわずに、あえて31字で暗示するのが短歌というものではないのでしょうか。
 たぶん短歌というのは31字前後で表現するものと考えることは間違いなんでしょう。おそらく31字の長さは作品全体の長さではありません。描かれているのはその作品の背後に広がっている巨大な世界であり、31字はその世界を暗示するための文字数と考えるべきではないのでしょうか。路傍のちいさな小石は、それがどんな形の小石かが重要なのではなく、それを眺めていると宇宙が見えてくるかどうかが重要なのではないでしょうか。
 そう考えると、日常的な会話体を定型にあてはめてみたような作品が、どれもこれもくらだなく、つまらないものに感じられる理由もわかってきました。そのような作品は短歌の背後に広がる世界がない、カラッポなものでしかないからです。
 そしてここに書いてきたようなぼくの短歌の観賞のしかたも、考え直す必要がありそうです。つまりどんな美しい表現、おもしろい言い回しを駆使しているかは、実は短歌の読みどころではまったくなく、どれだけ広大な世界・宇宙を暗示・象徴しているかという点こそが、ほんらい短歌の読むべき点ではないでしょうか。
posted by aruka at 03:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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