2007年12月16日

短歌の効用?

 この前、『神曲』を寿岳文章の訳で読んでいたときにも感じていたのですが、どうも短歌に興味をもつことの効用って、古い日本語に親しむという点が大きいんじゃないかという気がしてきました。
 実はずいぶん前からぼくは、泉鏡花の小説を、そのうち読んでみたい気がしていました。ぼくは映画ファンであり、日本の映画では泉鏡花を原作としたものがけっこう多く、名作も多いからです。でも、いままで何度か読もうとしても、あの文語の文体に抵抗があって読めずにいました。なんだか読んでいても内容が素直に頭に入ってこなくて、いらいらしてダメだったのです。
 しかし今回、『神曲』をの寿岳文章訳で味をしめたんで、久しぶりに泉鏡花を手にとってみたら、意外なほどすうっと頭に入るようになっていることに気がつきました。泉鏡花以外にもいくつか日本の古典文学を読んでみましたが、けっこう読めそうにかんじました。これはたぶん短歌というものを読んでみた効用でしょう。

 いままで、なんで歌人というのは文語を使いたがるのか、わざわざ苦労して、一般の人にわかりにくい言葉使いをするのか、理解ができませんでしたが、逆に文語への入口として短歌を読み詠むことをかんがえると、なかなかいい入口ではないかという気がしてきました。それは古語の語彙に親しむというだけでなく、どうも文語による文章というのは、韻律とはいわないまでも、文語文特有のリズムで読ませる面のあるものが多いような気がするのです。そして、そういった文語文特有のリズムの味わいかたも、短歌の韻律を通じて理解できてきた気がしたのです。

 いままで文章は平易でわかりやすく書くのがいいとおもってましたし、いまでも実用的な文章にかんしてはその通りだろうとはおもいますが、どうも文章にはそうとも言い切れない部分があるようです。
 古い日本語と接するということは、いわば異文化と接するのと同じであり、そこには抵抗感があって当たり前です。そして異文化を理解することとは、けっきょくその抵抗感が少なくなるように異文化を自分の側に翻訳することではなく、その抵抗感の向こう側に、異文化のほうに自分の感性を近づけていくことが肝要でしょう。つまりは、現代人にもわかりやすい短歌を読んだり詠んだりすることではなく、むしろ古語を使用して、古語を使っていた時代の日本人の感性をかんじることに、古代詩形である短歌というものを現在も続ける意義があるとはいえないでしょうか。

 しかし、以前から文語で短歌をつくることも少しづつは試みてはいるのですが、どうも個人的には文語を使って書いてみると、ほとんどファンタジーを書いているような気分になります。自分の言葉ではないもので、書いていても地に足がついている感じがしせず、現実感がないのです。
 慣れればそうでもなくなるもんなんでしょうかね。
posted by aruka at 06:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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