2007年12月02日

西洋の叙事詩と日本

 ぼくが普段どんな本を読んでいるかというと、文芸というジャンルでいうならやはり小説が圧倒的に多いです。だから西洋の古い作品を読む場合でも、小説であるとけっこう気軽に手にとれる一方、詩というと二の足を踏むところがありました。
 しかし、最近詩というものを意識してみてわかってきたのは、どうも詩、とくに叙事詩というジャンルが、西洋の文明をみる上でかなり重要なのではないかということです。とくにルネサンスあたりから見た場合、ダンテの『神曲』、スペンサーの『妖精の女王』、ミルトンの『失楽園』などといった叙事詩の存在感というのが大きく見えてきました。
 そんなわけで、ダンテの『神曲』を寿岳文章の訳で読んでみました。寿岳文章訳を選んだのは、山田正紀が『神曲法廷』でこの訳をすすめていたのが記憶にのこっていたという理由です。
 山田正紀が勧めるだけあって、この寿岳文章の訳はかなりの名訳で、一種の韻文といっていいようなリズムで読ませる文章になっています。以前ならこういうクセのある文章は好きでなかったのですが、短歌を読んだせいか抵抗なく味わえるようになっていました。そこは短歌に興味をもってみたことの成果といえそうです。
 そういう目で読んでいくと、やはり『神曲』はすごい傑作で、正直短歌を読んでいるより余程面白いと感じてしまいます。
 もう一つ参照にしながら読んでいるのは、ブックオフで\105でみつけた現代教養文庫の野上素一訳の『ダンテ 神曲物語』です。こちらは普通の文章による訳で、読みやすくてわかりやすいのはこっちのほうで、するすると読めるのですが、叙事詩という雰囲気はなく、タイトルどおり「物語」を読んでいるようです。きらびやかで壮大なイメージに溢れ、『神曲』の世界が目の前にあるようにかんじるのは寿岳文章訳のほうですが、速読して大意をつかむのには野上素一訳のほうが適しているし、モノクロながら多くの画家が『神曲』の一場面を描いた絵が挿絵のように載せられているのが、なかなか楽しいものです。
 また、読んでいる途中でブックオフで永井豪のマンガ版『ダンテ神曲』の文庫版の下巻だけも見つけ、これらを交互に見ながら読みすすめました。

 さて、『神曲』を読んでいて疑問におもったことは、なんで日本にはこのような叙事詩がないんだろうということです。というのは、歴史に興味がある人は誰でも感じることでしょうが、西洋の歴史と日本の歴史というのはわりと似たルートを辿ってる面があり、比べてみるとたいていのものには似たような対応物というのが見つかるのです。これは日本の歴史と、中国や朝鮮の歴史を比べたときとはまったく違います。
 しかし、和歌など日本の詩の歴史をみると、新古今のあたりでは洗練の極みをつくしますが、それはつまり短詩形の作品のみであり、長歌などは万葉集以後むしろ廃れていきます。西洋のような長大な叙事詩というのが書かれた時代というのはないようです。なぜなんでしょうか。
 そこを考えてみると、やはり『源氏物語』などの小説というのが、日本においては西洋における叙事詩と同じような役割をしたのではないかという想像に駆られます。
 しかし、それでもまだ疑問は残ります。というのは、やはり『源氏物語』などの小説と、西洋の叙事詩とではかなり違いがあるんじゃないかということです。
 思うに、西洋の叙事詩というのは、後に書かれることになる西洋の近代小説とは構造的な違いがあるようにおもえます。それは韻文と散文の違いというだけでは、おそらくないとおもいます。
 それはルネサンス期以後の叙事詩には、まず全体の構想があって、そこから細部が書かれていくという構成感があることです。
 例えばダンテの『神曲』は全体が「地獄編」「煉獄編」「天国編」と三つに別れ、それぞれがだいたい同等の分量である構成になっています。
 しかし、読んでみた感想からすれば、おそらく「地獄編」がもっとも密度が高いと感じるのが普通でしょう。「地獄編」は次々と鮮烈なイメージが噴出するのに対し、「天国編」は対話だけがえんえんと続いていると感じる場面が多いです。例えば永井豪のマンガ版『ダンテ神曲』では全体の3分の2が「地獄編」にさかれ、のこりの3分の1のうちの4分の3は「煉獄編」、「天国編」はごく短いものになっています。これは永井豪が自分の好きなところを自由にマンガ化したからこうなったというより、誰がやったとしても、だいたいそんなバランスになんるもんなんじゃないかともおもわれます。
 けれど、ダンテにすれば、やはり「地獄編」「煉獄編」「天国編」はそれぞれ同等の分量でなければいけないと感じていたことでしょう。それはどれだけ書くべき内容があるかの問題ではなく、この3つの部分は同じ分量でないとバランスが悪いとかんじる、どこか建築に似た構成感です。
 スペンサーの『妖精の女王』も、これが未完の作品といわれているのは(これで完成しているという評もあるようですが)、この作品がそれぞれ12の徳をあらわす12巻の作品にするという全体の構成がまず構想され、その半分を書いたところで中断したからです。
 このような全体の構成から発想して、その後に各部分へと至っていく構成感が、西洋の近代小説では薄くなっている気がします。そして、どうも日本の『源氏物語』や、その前後の文芸作品をみていると、はじめからそういう発想が無いような気がするのです。
 これはなぜなんでしょうか。
 ちょっと考えてみたいテーマです。

 それにしても『神曲』を寿岳文章の訳文を読んでいると、日本語の韻文による叙事詩というのも、それはそれで可能だったんじゃないかという幻想にもかられます。本当にこういうタイプの作品って日本にないのかな……。
posted by aruka at 21:34| Comment(0) | TrackBack(1) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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