2007年11月02日

ネット短歌は盛り下がってもいいということ

 ぼくがネット短歌は盛り下がってもいいものだとおもいます。その理由を書きます。

 ぼくは短歌というものはほんらい「詩」でなければ存在理由がないものだとおもいます。
「詩」ではない短歌というのは、アブクみたいなもんだとおもいます。親しみやすさ・もの珍しさから一時的に目を集めることはあったとしても、そのうちはじけて消えるものだということです。
 なぜなら存在理由がないからです。つまり、「詩」でないなら57577という定型なんて守る必要がないのです。そんな定型にこだわらずに自由に書いたほうがいいものが書けるにきまってます。
 定型なんて守る必要がまったくないのに定型を守ってみせるのは、ただのオアソビというべきでしょう。それはつまり、ほんらいなら小説とか、もっと自由に書けるジャンルの作品を書いたほうがいいのに、そこまでの筆力がないので、とりあえず一行で書ける定型短詩を書いているという状態にすぎません。でも、そのうちに小説なども自由に書ける筆力も身につくかもしれませんし、定型なんて守る必要がまったくなかったことにも気づくでしょう。そのときアブクははじけて消えるでしょう。これは当然読者の側でもおなじことがいえます。
 定型とか韻律というものが存在理由をもつのは、短歌が「詩」であった場合のみです。なぜならパスがいうように、韻律というものは「聖性に対峙したときの呪詛、あるいは祈り」から生まれたものであり、「詩」の属性だからです。
 小説などもっと多くの人に読まれているジャンルのものを書くのではなく、短歌という形式を選ぶことに積極的な意義が見出せるのは、「詩」を書いた場合のみです。
 だから短歌というものは、本質的みて「詩」でなければ存在理由がないのです。

 さて、ネット短歌の盛り上がりといったときに、しかしアブクの部分がいくら盛り上がったところで、べつに意味などないのです。なぜならそんなものは最初から存在理由のないものであり、やがてはじけて消えるものだからです。
 むしろ、そんなアブクに紛れて本質を見失ってしまうことのほうが危機だといえます。なぜなら、多すぎるアブクに惑わされて本質が見失われてしまっていたら、アブクがはじけると同時に、すべてが無くなってしまうからです。
 しかし、ぼくが二年ほど前からネットで短歌を書き始めてかんじてきたことは、あまり「詩」と思えない短歌ばかりピックアップし、アブクを盛り上げることばかりに熱心だとしかおもえない状況でした。(もちろん個人的見解ですが)
 最初のうちはぼくも、初心者で何も知りませんから、それはそれで楽しみはしましたし、楽しめない部分は自分には理解できないけど本当はいいものなんだろうとおもってました。でも、楽しんでいた部分はすぐに飽きましたし、理解できないものも本当はいいものかどうか疑わしくなってきました。そして、その程度のものであるかぎり、短歌の盛り上がりなんて意味はないのです。
 アブクがいくらふくれあがって、盛り上がっているようにみえたとしても、それはまったく意味のないことなんです。そんなアブクは消えたってかまわないのです。盛り下がってもいいのです。
 大事なのは盛り上げることよりも、本質を見失わないことです。


 さらに、短歌の本質とは何かということについて、「詩」であるということの他に、ぼくが最近かんじていることがあります。それは、どうも短歌というものの本質は盛り下がった後のほうにありそうだということです。
 おもうに短歌というのは、祭りの盛り上がりより、祭りの後のむなしさとか、祭りそのものに背を向けた心情のほうに本質があり、勝者よりも敗者、成功者よりも失敗者のものであるようにかんじます。
 万葉集をみると、当時政治的に敗北して思うとおりの生をまっとうできなかった者たちの歌がかなりの部分を占めるわけで、近代においても例えば石川啄木など、ほんらい小説や詩などで成功したかったのがことごとく失敗し、敗者の悲しき玩具として短歌を書くわけです。それが結果的には売れたとしても、それは結果論であって、どうも有名になりたいとか売れたいとか、立身出世のために短歌を書くというのには、イメージとして違和感をかんじるようになってきました。
 ぼくは二年ほど前にネットで短歌を書き始めて、最初のうちはオアソビとかウケねらいとか、その程度のかるい気持ちの部分も大きくて、だいたいそれまで短歌とか日本の詩なんてものをまるで読んだことがなかったもんで、あまりにも未知な世界に、未知であることがおもしろくてはじめてみたわけです。でも、やってみると、単純にオアソビとかウケねらいというのは、短歌でやってもそうおもしろくないような気がしてきました。それは自分でもその時はおもしろいつもりで書いていても、少し時間をおいて読みかえしてみるとつまらないし、他人が書いたものも多分本人はおもしろがって書いているんだろうなとわかるのだけど、さむくかんじたり、ちょっと違うんじゃないかとおもいながら、ではいつまでも魅力的な短歌というのはどういうものかとかんがえてみると、けっこう短歌の本質ってそのへんのところにあるんじゃないかといまのところおもっています。
 斎藤茂吉の『赤光』にしても、有名な連作というのは母との死別や、成就しなかった恋愛をあつかったものであり、これが幸福な母子ものや、ハッピーエンドの恋愛を描くなら、たぶん短歌以外のジャンルのほうがいいものが書けるんじゃないかとおもうわけです。
 思うとおりの生をまっとうできなかった者たちが、その思いを歌というかたちで残し、ほかの者たちは彼らがこの世に残さざるをえなかった思いを慰撫するために歌をつくり、といったところが短歌というものの本質にちかいのような気が、最近してるんですが、どうでしょうか。

 もちろん、自分が書いた作品のことは棚にあげていってるのですが。
posted by aruka at 01:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして

>
思うとおりの生をまっとうできなかった者たちが、その思いを歌というかたちで残し、ほかの者たちは彼らがこの世に残さざるをえなかった思いを慰撫するために歌をつくり、といったところが短歌というものの本質にちかいのような気が、
>

おっしゃられておられるのが
いわゆる「短歌的叙情」という
日本人の心性に骨がらみのもので、
現代の短歌は程度の差こそあれ、
この「叙情」の克服をこそ
視野に入れてきたのではないでしょうか?


ある意味先祖がえりのような発想が
ネット上で綴られるのは
なかなか興味深いことだと思います。
Posted by at at 2007年11月02日 02:44
ご指摘ありがとうございます。
どうもぼくは過去に過去に根拠を求めていくクセがあるので(趣味が歴史なんで)ご指摘のとおり先祖がえりかもしれません。

「叙情」をどう克服してきたかという点は今後の課題とさせていただきます。
Posted by aruka at 2007年11月03日 04:32
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