今度はモーツァルトを聴きこんでみまして、いろいろとおもしろいことがわかり、モーツァルトというのはオペラを聴かないとわからないものだと実感しました。それも、できれば2、3種類以上の演奏を試聴したほうが良さそうです。というのも、一つだけだと、その演奏者・演出家の解釈のほうが見えてしまうことも多いようで、複数試聴することによってそれぞれの演奏の向こうに作者モーツァルトの意図が見えてくる気がするのです。
思えばモーツァルトという人は伝説が多すぎてよくわからない人でした。例の早熟の天才説も、超人的な能力を宣伝するばかりでどんな人だったのかはわかりません。いっぽう映画の『アマデウス』あたりから出てきたとおもわれる、ハチャメチャな人のイメージもあって、これもこれでなんだかわかりません。(でも、よくみてみると、モーツァルトを早熟の天才とする説にも、あの『アマデウス』のイメージにも、かなり疑問があることがわかってきました。これは後日説明します)
一方、モーツァルトという人の姿が見えてきたとおもったのは、先述したとおり彼のオペラです。とくに『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』のダ・ポンテと組んだ3作は、台本のほうもモーツァルトがかなり口を出していて、事実上共同制作だったようで、この3作を何種類かの演奏でみることでモーツァルトという人の姿が見えてきた気がしました。
とくにぼくがモーツァルトという人の姿が見えてきたとおもったのは、最近、『ドン・ジョヴァンニ』を、例の有名なフルトヴェングラーが指揮したオペラ映画をみたときです。ぼくは『ドン・ジョヴァンニ』を最初、NHKのBS-2でやっていたハーディング指揮の舞台の映像で見たのですが、そのときはいまいちピンとこなかったのですが、今回みてみて『フィガロの結婚』から『コジ・ファン・トゥッテ』までつながった一本の線がみえてきた気がしました。といってもフルトヴェングラーのオペラ映画の演出のほうがモーツァルトの本来の意図にそったものだといいたいわけでもないのですが、複数の演出でみてみることによって、その奥の作者モーツァルトの意図がみえてきた気がしたのです。
おもうに、モーツァルトという人はかなりアクの強い人物で、すごく大人だとおもいます。たとえばずっと長生きしたベートーヴェンと比べると、ベートーヴェンはモーツァルトよりずっと子供っぽい、より正確にいえば青年的な人という気がします。ベートーヴェンが「男とは、女とは、愛とはこうあるべき」などと青臭い理想を主張しそうなのに対して、モーツァルトは冷徹でリアリステックな視線で「人間とはこういうもの」と突き放して観察している気がします。どこか、うわついた理想などで曇らされていない絶望をとおりぬけたリアリズムをかんじるのです。
どうして『ドン・ジョヴァンニ』を二種類の演出でみてそう感じたのかというと、どうも最初にみたハーディング指揮の舞台の演出は、主役のドン・ジョヴァンニという人を悪人というイメージで描こうとしていたように感じました。そして、そういう話だとおもってしまうとピンとこなかったのですが、フルトヴェングラーのオペラ映画でシエピの演技をみると、やはりカッコイイんですね。たぶんこっちのほうが本来の作者の意図で、やはりドン・ジョヴァンニはカッコよくて、さらにいえばコミカルじゃないといけないとおもったのです。
そもそもモーツァルト自身はこのオペラを喜劇だといっているんですね。これを言葉どおりとらず、『ドン・ジョヴァンニ』は喜劇ではなく、モーツァルトのデーモニッシュな面が出た作品としている評論などをよく見るのですが、たしかにそういう面もあるものの、基本的にはやはりこれは喜劇だとおもうわけです。ドン・ジョヴァンニという公序良俗など笑い飛ばすようなカッコいいヒーローを主人公にしたコメディです。
例えば主役のドン・ジョヴァンニに対してレポレロという従者が出てくるわけですが、これはドン・キホーテとサンチョ・パンサみたいなコンビなわけで、夢中に女を口説くジョヴァンニにレポレロがツッコミを入れていくという漫才みたいな会話も出てきます。
全体としては、なんとなくアニメの『ルパン三世』に構図が似ているとおもいます。果てしなく追いかけてくるドンナ・エルヴィラはちょうど銭形警部のようなもんで、ここにもコメディの要素があります。ルパン三世がお宝を狙うのに対して、ドン・ジョヴァンニは女を狙うわけですが、さまざまな計略や手練手管でモノにしようとするところは同じです。つまり、ドン・ジョヴァンニはカネや権力・暴力で無理やり女を従わせる人ではなく、あくまで自分が行動して女を誘惑する人であり、いわゆる悪人のイメージとは違うとおもいます。
ドン・ジョヴァンニを捕まえようと追ってきたマゼット率いる集団に、ジョヴァンニは逆に一緒にあいつを捕まえようと協力を申し出てしまって、集団を率いてテキト−に指揮してしまって煙にまくところなど、サスペンスというより、やはりギャグとしてみるべきでしょう。レポレロに身ぶり手ぶりだけさせて、セリフは自分が隠れてしゃべって、口パクで女を誘惑するところなんかも、典型的なギャグでしょう。
それに対して、ドン・ジョヴァンニを悪人ぽくイメージさせるエピソードとしては、冒頭近くのドンナ・アンナとの一件、つまり強姦未遂から殺人といった行為を犯しているという点があるでしょう。
でも、これも考えてみればはたして強姦未遂なのか、殺人なのかという点はあいまいです。ドンナ・アンナの件に関していえば、ジョヴァンニは無理やり犯そうとしたわけではなく、婚約者のドン・オッターヴィオに化けて誘惑しようと試み、それがバレたということで、その後の物語をみればドンナ・アンナはむしろオッターヴィオ以上にジョヴァンニに男性の魅力を感じるようになってしまいます。
また、騎士長を殺した件に関していえば、これは騎士長のほうが先に剣を抜いたために、ジョヴァンニも騎士のプライドとしてこれに応じて決闘になり、結果ジョヴァンニが勝ってしまったために殺してしまったわけで、これを一般の意味で殺人としてみると、むしろ正当防衛の要素もみてとれないわけではないです。なにより、ジョヴァンニが犯した決定的な罪ともいえるこのシーンを、しかしモーツァルトはさほど劇的に盛り上げてなく、簡素な音楽しかつけていない点に作者の意図をみるべきでしょう。
では、なぜぼくがジョヴァンニをコミカルなヒーローだとみるのかというと、その理由は、彼が公序良俗を超えた存在だからです。
『フィガロの結婚』から『コジ・ファン・トゥッテ』までを視野にいれてみれば、モーツァルトのオペラにおいては、公序良俗、こうあるべきといったきれいごとや道徳、あるいは権威といったものは、つねに嘲笑される対象になってます。男女の関係はこうあるべき、愛とは清らかで美しいものであるべき……などと口先だけのきれいごとを並べていても、ほんとうは人間はこういうものだろ! と冷徹なリアリズムをつきつけ、世間の人々がいっているきれいごとを笑いとばしていくのがモーツァルトのやり方でしょう。
だからこそ、世間の道徳・公序良俗といったものを超えて行動するドン・ジョヴァンニは、カッコいいヒーローでなければならないわけで、公序良俗に縛られた世間を笑いとばす者でなければならないわけです。
そんなドン・ジョヴァンニがいきなり破滅するのがこのオペラのラスト・シーンなわけですが、しかしみているとドラマが彼の破滅へむけてなだれ込んでいくのではなく、このラストはまるでとってつけたように唐突な印象ががします。
おもうのですが、このオペラのラストは当時の世間への妥協だったんじゃないでしょうか。このドン・ジョヴァンニのようなヒーロー像が当時の社会に受け入れられるとはおもえず、いちおう形だけ勧善懲悪の物語のラストのようにしたようにおもえるのです。
なんていうか、このラストはどこかヘンなのです。
最後の場面ではドンナ・アンナやオッターヴィオらが悪は滅んだと合唱するのですが、そもそも彼らは悪を滅ぼしたわけではなく、勝利なんてしていません。ジョヴァンニがいなくなったのは突然夕食の席に石像があらわれて地獄につれていってしまったからです。
さてこの物語の後、彼らはどうするんでしょうか? ドンナ・アンナは秘かに魅かれいたジョヴァンニが滅んだ後、男性的魅力をかんじないオッターヴィオとしあわせに暮らせるでしょうか? ほんらい物語のセオリーからすれば、ドンナ・アンナとオッターヴィオが協力してジョヴァンニを倒し、その活躍ぶりからドンナ・アンナはオッターヴィオを見直し、抱き合ってエンディングというのがこういった物語のパターンで、そうすればいわゆる勧善懲悪の物語としてまとまるわけですが、そのパターンをわざと外してあります。
ドンナ・エルヴィラはこれからは修道院に入って静かに暮らすといいますが、それくらいならジョヴァンニを追いかけまわしていたほうが楽しくてよかったんじゃないでしょうか。ルパン三世に死なれて途方にくれている銭形警部のようなかんじがします。
実をいうと、この唐突なラストをみて、ぼくが真っ先に連想したのは1930年代末の日本映画です。『人情紙風船』とか『春秋一刀流』とかの名作です。
これらの映画はコメディで、登場人物たちが権力者をあざ笑うかのような自由さで大活躍するのですが、ラスト近くになって急に追いつめられて状況に陥ってしまい、絶望的なエンディングを迎えます。それまでの自由な活躍ぶりからいって、唐突なまでに絶望的状況に陥ってしまうのが、異様な印象をあたえるのです。
彼らが何でそんな映画を作ったのかといえば、当時の第二次世界大戦に突入しようとしていた日本の状況が影響していたとみるのは容易です。
おそらく『ドン・ジョヴァンニ』がこんなラストになったのは、当時のモーツァルトの周囲に何かそういうラストを作らせるような状況があったんじゃないかとおもわれます。それが何だったのかはまだわかりませんが。
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