2007年09月25日

(題詠100題2007観賞)001〜010 まで観賞してみて

きよらなるあを染み透るまだなにも殺してをらぬひと日の始め     (萱野芙蓉)


いかほどの悪意であらばゆるさるる使ひ魔として夜に放つ蝶      (萱野芙蓉)


週末の水ぎはできく鳥の歌、身投げそこねし娘のはなし        (萱野芙蓉)


蜻蛉をひき裂いたこともあるのでせう かうして握りあふこの指で    (萱野芙蓉)

              蜻蛉:とんばう




 いちおう10番までのお題までの観賞が終わりました。まだ作品が提出されている最中の企画ということで、以後はゆっくりやろうかとおもっています。
 観賞してみてまず感じたことは、この観賞方法だととりあげにくい人がいるということです。それが上にあげた萱野芙蓉さんの作品です。
 ぼくは基本的に気になった作品を見つけたばあい、なるべくその方のブログへ行って作品を読むようにしていたのですが、萱野芙蓉さんの場合、ブログへ行って作品をまとめて読むとかなり強烈な印象がありました。しかしそのお題につき一首づつとりあげ、他のかたの作品と並べてみると、みょうに印象が薄くなってしまうのです。
(たとえば4首めの「蜻蛉」の歌を上の3首の後に読むと作者のなみなみならぬ世界観が打ち出されているように見えますが、一首だけ読むと恋人にじゃれている女の子の言葉のようにも見えませんか?)
 こういうことは当たり前のことで、同一作者の作品はまとめて読んだほうが印象が強くなるのかというと、どうもそうでもなさそうです。ほとんど印象のかわらない人もいるし、一首だけなら強い印象があるのに、いくつも続けて読むと逆に印象が薄まる場合さえあります。
 ではなぜ萱野芙蓉さんの作品の場合はそうなのか、と考えながら1〜10番までのお題のなかから選んでみたのが上の4首です。このような殺伐としたとでもいいたくなるような厳しさのなかに聳立した世界観が呪詛のように繰り返されることによって基調を創りあげ、それに違ったタイプの作品がはさまれることで広がりをもたせるような効果をもたせているのではないでしょうか。そのため続けて読むと厳しく力強い世界が構築されているような感触があり、しかし、一つ一つの作品を取り出してしまうと効果が薄くなるのでは……。
 というのが、ぼくがとりあえずおもった事ですが、ほんとうのところはどうなのかはわかりません。
posted by aruka at 22:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
4ヶ月もたってしまってからのコメントですみません。
自分の歌についてこのように総評的にお言葉をちょうだいすることって殆どありませんので、
拙作の問題点も含めてとてもうれしく興味深く拝読いたしました。
自分の歌を客観的に見ることはなかなかできないものですから本当にうれしかったのです。

たった31文字でいったい何を伝えられるのかと考えると、それはもう困惑してしまうのですが、
理解とか思考とかを経由せずに直截的に何かを感じてもらえるように詠み出だせたらいいな、と
今は漠然と思っているところです。本当にどうもありがとうございました。
Posted by 萱野芙蓉 at 2008年02月24日 01:33
お読みいただいてありがとうございます。

さらにだいぶ遅れてのコメントですいません。
ほんのときどき、思いついたときしか自分のブログを見ないもので、、、
Posted by aruka at 2008年03月13日 05:07
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