とすると、最初は斎藤茂吉かな、と思って、とりあえず『赤光』を読みはじめてみました。ついでに図書館にあったので西郷信綱の『斎藤茂吉』と塚本邦雄の『茂吉秀歌「赤光」百首』も借りてきて、ちょこちょこ見ながら読みました。
と、これがけっこう驚きで、みょうに新鮮な印象を受けました。斎藤茂吉は学校で「死にたまふ母」のなかのいくつかを読まされたおぼえがあるんですが、ちゃんと読んでみると印象が変わりました。
『赤光』には初版と改選版と二種類の編集があるんですね。ちなみに岩波文庫から出てる『赤光』は、この両方とも収録されてます。
作者自身は改選版を定本としているようですが、西郷信綱の『斎藤茂吉』も塚本邦雄の『茂吉秀歌「赤光」百首』も初版のほうを支持し、初版の編集で話をすすめています。ということでぼくも初版で読んでみました。
と、感じたことはまず、みょうに新しいということでした。なんだか新鮮なんです。このまえ俵万智の『サラダ記念日』を読んだときはあまりに古くて驚いたんですが、斎藤茂吉の『赤光』は新しいんで驚いたわけです。
さらに、おもしろいんです。つまり、エンターテイメントとしておもしろいように書かれていると思うわけです。
というのは、どういうことか、例をあげて説明していきます。
まず初版『赤光』はこのように始まります。冒頭の三首を引用してみます。
ひた走るわが道暗ししんしんと堪へかねたるわが道くらし 斎藤茂吉
ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍を殺すわが道くらし 斎藤茂吉
すべなきか蛍をころす手のひらに光つぶれてせんすべはなし 斎藤茂吉
まず歌集がはじまると、一首め、夜に走っているわけです。なんで走っているかわからない、とにかく走ってるわけです。しかも一首のなかで「暗い」という言葉が二度くり返されていて、どうも主人公の心情も暗い状況のようです。
そして、二首め、走りながら飛んできた蛍を殺します。蛍を殺すというのは、なんとも不気味ですね。
だいたい蛍は周囲の目のとどく範囲に外灯など人工の光があると生きていけないものなので、この主人公が走っている道というのは、文字どおりの真っ暗闇でしょう。その真っ暗闇のなかで貴重な光である蛍を握り潰して殺してしまう。そして蛍の光も消えて、さらに「暗」くなったとくり返されます。三度目のくり返しですね。
三首めでは蛍を殺した手を見て反省します。しかたがなかったのか? しかし、しかたがなかったんだ、という結論を出します。いきなり蛍を殺しておいてです。
……さて、みればわかるとおりこれは同じスチュエーションの連作で、それはこの連作の最後まで続きます。つまり一首々々に独立性がそれほどなくて、一連のストーリーテリングがあるわけです。もちろん現在でもストーリー性のある連作というのはあるわけですが、こんなふうに映画の1カット1カットみたいに連続していくのは、むしろ現在でもめずらしいような気がします。こういう手法って茂吉以前からあったものなんでしょうか。それとも茂吉がはじめたものなんでしょうか。
こういうのって、いがらしみきおの『ぼのぼの』とか、ああいった4コマまんがが連作として長編的なストーリー作りがされているのとかを連想させます。
しかも、このオープニングのスチュエーションというのが、主人公が夜闇のなかをひたすら走っているというシーンです。何で走っているのかさえわかりません。
このように説明もなしにいきなり動的でサスペンス溢れる状況に読者を放り込んでいくのは、サスペンス系の映画やドラマ・小説などでよく使われる手法です。いきなり読者を主人公の危機的状況へと感情移入させて読者を掴むわけですね。といっても、これは少しあざとい手でもあるんで、現在はそれほど多用はされていないと思いますが。
こういう、あざとい手だろうが何だろうが、いきなり読者を掴む……ということを、ちゃんと考えている歌集って案外少ないんじゃないでしょうか。
というか、、『赤光』が出たのは1913年なんで、まだ映画もグリフィスが出てきたあたりで、すでにこういう映画的といいたくなる手法をやっていたというのもすごいですね。さらにいえば、歌集のタイトルが『赤光』ですから、読みはじめるといきなり真っ暗だと落差があるわけです。
さて、『赤光』ではこの後、主人公は氷屋が氷室から氷を出して切っている、その煙草の火の明かりを見つけたりしながら走っていき、島木赤彦の家に着いて一泊する様子などが描かれていきます。
そして連作の最後にようやく状況説明が書かれています。これは、茂吉の師である伊藤左千夫の訃報をきいて走って駆けつける場面なわけですね。
ここでまず最初の連作が終了です。
初版の『赤光』は逆編年体で、つまり新しく書いたものからの順になっているんですが、そう機械的に逆編年体にはなっていません。順でいくと、この後伊藤左千夫の墓前で詠んだ歌があるんですが、それはずっと後に編集されていて、この暗闇のなかを走る場面から始められています。その他にも必ずしも逆編年体でないところはあって、けっこう意図的に作為的に編集されてるんだとおもいます。
さて、この次の連作は「屋上の石」というもので、山の風景を背景にした恋愛が描かれています。ちゃんと調べたわけではありませんが、おそらくこの時代って、登山が最新のプレイ・スポットだった頃だと思います。ヨーロッパで登山が観光化したのはロマン派の時代で、それが明治時代に日本に入ってきたんで、登山が西欧文化の香りがした頃だとおもいます。この「山+恋愛」というのは、当時としてはかなりおシャレな印象だったんじゃないでしょうか。
その他「麦奴」という監獄を舞台にした連作など、かなり毛色の違った読者が興味をもちそうな小さな連作がいくつか続いて、例の「死にたまふ母」の全59首の連作になります。いわば母子ものの泣かせの部分で、ストーリー性のある連続したスチュエーションの連作という手法が駆使される長編といったおもむきです。
学校などではこのうちの有名な何首かを読まされたわけですが、全59首を流れで読むと、ストーリーで読まされる部分もおおきくなるわけで、一首だけ独立して読むのとは違った効果があるわけです。
それに続いては「おひろ」という全44首の悲恋ものの大連作となります。
この後もまだまだ続きますが、このへんだけ見ても、まずサスペンス溢れる冒頭からはじめて、おシャレな恋愛や、監獄という異世界、そして母子もので泣かせ、悲恋もので酔わせる……といった構成は、とにかく読者をツカンで読ませてやろう、酔わせてやろうというなみなみならぬ迫力を感じます。あざといくらいです。
とにくストーリー性というのを強くかんじます。小説を読んでいるような気にもさせるのです。
こういう手法って、この後、受け継がれてきてるんでしょうかね。この『赤光』自体も改選版で読むとそのようなパワーは失われてしまうわけですが。
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