2008年03月13日

呪文 2


オフェーリア流れる川岸に立ちて少女は溟き腰部をもてり

狭霧たつ彼方に黒く聳えたる無数の塔が揺らめく水面

風の舟こへ失ひし人らのせ砂の樹海をただよひゆきぬ

閉ざされし館の閉ざされし庭で月のひかりは徴となりつ

posted by aruka at 04:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月09日

短歌とオカルティズム

 塚本邦雄という人の作品を最初に読んだとき、ぼくは澁澤龍彦とか種村季弘といった人たちの文化圏と似ているような気がしました。そして、調べていくとそれもあながち間違いでもなかったようです。年譜を見てみると、塚本は1950〜60年代は3〜5年おきに歌集を出版するていどだったのが、1968年に澁澤龍彦が責任編集をしていた『血と薔薇』に評論を載せるようになり、そこから歌壇以外の一般読書界に活躍の場を広げ、出版する本の数も一気に増えていっています。
 この塚本と澁澤〜種村あたりとのつながりというのはどういうことなのか、最近その理由がわかってきた気がしました。

 澁澤〜種村がした主な仕事とは何かといえば、おそらく西洋のオカルティズムの紹介というのが大きい気がします。もちろんここでいうオカルティズムとはUFOとかスプーン曲げなどの通俗化したオカルトのことではなく、数百年にわたって秘教伝授されてきた文化としてのオカルトです。
 そしてどうも最近わかってきたことは、象徴主義というのは、どうもそういったオカルティズムと地続きらしいということです。
 それは象徴主義の詩人は何か象徴となるイメージ・言葉をとりだすときに、人間の内面の奥深くに手をさしのべて、無意識の奥からイメージ・言葉をとりだそうとします。そしてユングの心理学をみるとわかるとおり、その深層心理の領域とはオカルティズムの領域であるようです。それはおそらくオカルティズムとは人間にとっての根源的な衝動、闇への恐怖とか、自分を超えて巨大なものへの畏れとか、そういったものに形象を与えたものだからではないかとおもいます。それはいわば反理性の領域とでもいうものです。
 そもそも西洋文学をじっくりと見ていけば、そういった反理性のオカルティズムというものは理性的な文学の裏側につねに存在したものであるのがわかってきます。『ボヴァリー夫人』の作家は『聖アントワーヌの誘惑』の作家でもあるし、『ゴリオ爺さん』の作家は『セラフィタ』の作家でもあります。象徴主義の詩人もたいてい何らかのオカルティズムに親しんでいるようです。
 しかし、多分明治以来の日本の文学界というのは西洋から西洋文化の理性的な側面、『ボヴァリー夫人』や『ゴリオ爺さん』の側ばかりを輸入して取り入れようとしてきたような気がします。とうぜんそこには問題もあるわけで、そういった風潮に対して、反理性的な西洋文化を紹介したところに澁澤〜種村の仕事の意義があったのではないかとおもいます。
 そして塚本邦雄の仕事というのは、あまりにも理性的な「写実」の方法論が支配的だった日本の短歌界に、象徴主義的な手法をとりいれたことにあったのではないかとおもいます。となると、必然的にオカルティズムに接近していかなかければなりません。西洋の、あるいは日本のオカルティズムでもいいわけですが、その深みのなかから象徴をとりだしてこなければいけないことになります。
 塚本邦雄と澁澤龍彦らとのつながる部分て、そういう部分だったのではないでしょうか。

posted by aruka at 21:44| Comment(5) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。