2008年02月22日

短歌とは呪文のようなもの?

 ぼくは最近おもっているのですが、短歌っていうのは「呪文」みたいなものに近いんじゃないでしょうか。そうおもうと、いろいろなことがわかってきた気がしたのです。

 二、三年前に短歌を書き・読み始めた頃は、なんで「文語」なんて使う人がいるのか理解できなかったし、ものを書くうえではできるだけ読者にわかりやすく、明確に書くべきではないか、つまり、短歌だって現代語で、自分の言葉で表現し、自分の伝えたい内容がきちんと伝わるように心がけるのが本筋だとおもっていましたが、どうやらそういう考え方も正しくはないということがわかってきました。

 短歌を読みはじめたときは、わかりやすい現代語による短歌を中心に読んで、現代文でありながら57577という定型におさまっている感じにおもしろさも感じたのですが、そういった、いわば安っぽいおもしろさにすぐに飽きてしまうと、だんだん現代語の短歌というのにも不自然さを感じるようにもなってきました。
 それは、現代語で読者にきちんと内容を伝えるという、一般的な文章と同じ価値観で書くのだとすると、ではなんで定型なんて守るのかという点です。
 つまり、短歌もまた一般的な文章とおなじように、作者が伝えたい内容をきちんと伝える表現であるのなら、短歌なんて書かずに、一般的な文章を書けばいいのです。定型なんて気にせずに、31字という長さにとらわれずに自由に書いたほうが、作者が伝えたい内容はきちんと伝えられるに決まっています。つまり短歌なんか書く必要がないのです。
 つまり現代語で書かれた短歌を読むと、なんでこの人はこの内容を短歌という手法で書くのだろうか? このような内容を書きたいのなら、定型なんかにとらわれずにもっと自由に書いたほうが、もっとおもしろいものになるんじゃないかと感じることが、だんだん多くなってきたのです。
 もっとも、それは現代語で書かれた短歌にのみ感じるわけではなく、文語で書かれた短歌でも同じように感じるものは多いし、そのため、そんなに深くは考えずにいたわけです。

 さて、では何で短歌を書く人は、わざわざ定型なんて守って、ほぼ31字で終わるように書くのでしょうか。そんな定型なんかにとらわれずに、もっと自由に書いたほうが、もっとおもしろいものが書けるはずなのに、です。
 それは、そもそも「短歌とは一般的な文章とは違うものであり、作者が伝えたい内容を伝える表現ではない」と考えないと答えが出ません。
 いくらか遠回りはしましたが、たぶんそれが答えでしょう。
 つまり、短歌においては、読者がわかりやすいかどうか、作者の伝えたい内容がきちんと伝わっているかどうかは、それほど重要な事柄ではないのでしょう。そう考えなければ、なんでわざわざ定型を守るのかという理由がありません。そしてそう考えるのなら、そもそも現代語で書くか・文語で書くかといったようなことは、むしろどうでもいい、どっちでもいいことになります。

 短歌とは「呪文」のようなものではないでしょうか。ある世界を喚起させ提示する、そのための「呪文」のようなものというのが、短歌の本質なんじゃないでしょうか。パスがいうとおり、韻律というのは恐るべき神聖なるものに対峙したときの呪詛から生まれたもののようです。
 こんなことを言うと、たしかにそれが詩の源泉かもしれないが、それは遥かな過去の話であり、現在はそんな時代ではないという人もいるかもしれません。でも、そうだとするならなんで韻律なんか守って短歌を書くのでしょうか。現在はそんな時代ではないと思うのなら、短歌なんてやめてしまえばいいというだけの話です。
 つまり、短歌を書くということは、短歌という定型を受け入れたときから、もはや一般的な現代文ではないものを書いているんだと思うべきなんでしょう。
 さいきんまた文語で短歌を書いてみる習作を作りはじめましたが、以前文語で書いてみたときは自分の言葉ではない言葉で書いているもので、いかに地に足がついていない、ファンタジーを書いているような気分になっていたのですが、これを「呪文」のようなものだとおもってみると、文語を使ってみることにも抵抗がなくなりました。短歌というものは、そもそも自分の言葉で書いた、自分の書きたい内容の表現ではないとおもうようになったからです。
posted by aruka at 01:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月21日

呪文 1


蒼穹をみたす無限の羽のごと雪は非在の翼ひらきつ

舞い墜ちる無数の羽根に護られて使徒ははるけき峪を渡れり

球形の城の図書館、長椅子のレンズに残りしかの日の光

神々の庭の園丁、いくつもの迷路を刻む円盤の地で

風景を錬金術師の死蔵せる写本のごとく卓上に置く

posted by aruka at 05:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月19日

風流と雅(みやび)

 以前、山本夏彦の『完本 文語文』を読んだとき、短歌というものは江戸時代までは「風流」であったのが、正岡子規が「文学」にしてしまったという記述に出会ったのですが、そのときは「風流」ということについてそれほど深くは考えはせず、そんなものかという程度の感想で読みすごしてしまいました。
 ところが最近、たまたま小西甚一の『中世の文藝』という本をぱらぱら見ていて、おもしろい記述にぶつかりました。ぼくなりに要約させて書かせていただきます。

 この本によると「風流」とは「雅(みやび)」というものと結びついたものであり、「雅」とは、既に完成されているとするある表現こそ永遠のいのちをもつものだとする考え、そこを目指していくような考え方で、「古典主義」に近いものなんだそうです。そして「風流」とはそんな「雅」にしたしむ生活の理想的典型のようなものなのだそうです。
 ぼくはつい短歌とか、文芸系のものを見ると、それは作者が表現するものと考えがちですが、考えてみれば(簡単に気づかなければならなかったことですが)そんな主体が表現するものが文芸であるといった考え方はおもに近代以後に根付いてきたもので、それ以前の文芸においてはかならずしもあてはまるものではありません。つまり短歌とは、江戸時代までは、ある理想的な典型に向かって自らの表現を高めていこうとするものであり、そんな「風流」を楽しむためのものだったようです。
 となると、すでに完成されている典型を目指すわけですから、個性とか創意といったものはそれほど重視されないもので、むしろ、それでよかったもののようです。
 おそらく近代短歌というのは、正岡子規がそんな「風流」を「月並み」だといって否定し、創意や個性を重視したところからはじまるのでしょう。

 しかし、子規の時代においては、いわばそうなっていくのが大きな時代の流れだったのかもしれませんが、そんな近代化の時代もずいぶん遠く過去になり、「文学」というのもずいぶん色を失った現在からすれば、そういった考え方も疑ってかかるべきなのかもしれません。
 そもそも個性や創意を本当に重視するなら、なんで短歌なんていう千年前からの定型をいまだに守るんだという問題もあるわけで、それでも短歌を書くという行為は、どこかでそんな近代に背を向けて、既に完成された理想的典型を目指してみる行為(雅)という側面があるんじゃないでしょうか。
posted by aruka at 04:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月18日

「題詠100題2007」を観賞しておもったこと

 しばらく短歌ともブログとも関係のない生活をおくってまして、「題詠100題2007」の観賞も中断しておりました。
 観賞が中断した理由は、なんだか答えが見えてきてしまったからです。
 もともと、他人が書かれた作品を自分で選んでみることによってわかることがあるのか確かめてみるつもりではじめた観賞でしたが、だいたいぼくが選ぶ作品の傾向もその問題点も、最初の10題くらでもわかってきてしまいました。
 まずぼくはおもしろい言い回し、美しい表現をしている短歌をいいと思い、選ぶ傾向があるようです。では、そのような表現力のある作者を良い短歌の書き手だと思い、これからも書き続けてほしいと思うかというと、よく考えてみると、そうは思えないのです。
 というのは、たった31字前後しかない短歌という形式では、いくら表現力のある作者であってもたいした内容は書けません。せいぜい「この表現はおもしろいでしょう」という程度のレベルで止まってしまいます。となれば、こういう人は、力のある人であればあるほど、短歌なんかさっさと卒業して、小説とかエッセイとか、より長い文章を書ける形式にすすんでいったほうがいいと思うのです。そのほうが、その表現力を駆使して、もっと複雑で深い内容のものが書けるはずだからです。恋愛小説の1シーンのような短歌を書いている人は、おそらく短歌なんか卒業して素直に恋愛小説を書いたほうがいいんです。
 そうなると、短歌という31字前後しか書けない形式を、あえて選んで書きつづける必然性ってどこにあるんでしょう。
 どうもそこがわからなくて、止まっていたわけです。

 そんなとき、ダンテの『神曲』など叙事詩の味を知りまして、ちょっと興味がそれていました。
 そして疑問におもったことがあります。それは、『神曲』やミルトンの『失楽園』など、物語的な内容をもった長大な叙事詩というのは、小説とどこが違うのだろう。両者の本質的な違いはどこにあるんだろう、ということです。
 もちろん韻文であるという理由がまずありますが、それだけが理由でもない気がしました。
 そして思ったことは、叙事詩というのはだいたい世界全体・宇宙全体を象徴するように構成され書かれているのにたいし、小説はそうでないということです。たぶんそこに最も本質的な違いがあるんじゃないでしょうか。
 そう考えると、じゃあ短歌というのは何なんだろうという気になります。長大な叙事詩とちがってたった31字しかないのでは、宇宙全体や世界全体を象徴させられるわけないじゃないかという気がしました。
 けれど思ったのは、やはり短歌もまた、本来は31字で宇宙を描きつくすようなところを目指している形式なのではないかということです。それはつまり、路傍のちいさな小石に宇宙を見る……というような境地でしょう。
 だいたい世界観・宇宙観のようなものは、原稿用紙何千枚で描いたって、しょせん書き尽くせるものではありません。けっきょく暗示し、象徴させるしかないでしょう。だとすれば、数千枚の枚数をつかわずに、あえて31字で暗示するのが短歌というものではないのでしょうか。
 たぶん短歌というのは31字前後で表現するものと考えることは間違いなんでしょう。おそらく31字の長さは作品全体の長さではありません。描かれているのはその作品の背後に広がっている巨大な世界であり、31字はその世界を暗示するための文字数と考えるべきではないのでしょうか。路傍のちいさな小石は、それがどんな形の小石かが重要なのではなく、それを眺めていると宇宙が見えてくるかどうかが重要なのではないでしょうか。
 そう考えると、日常的な会話体を定型にあてはめてみたような作品が、どれもこれもくらだなく、つまらないものに感じられる理由もわかってきました。そのような作品は短歌の背後に広がる世界がない、カラッポなものでしかないからです。
 そしてここに書いてきたようなぼくの短歌の観賞のしかたも、考え直す必要がありそうです。つまりどんな美しい表現、おもしろい言い回しを駆使しているかは、実は短歌の読みどころではまったくなく、どれだけ広大な世界・宇宙を暗示・象徴しているかという点こそが、ほんらい短歌の読むべき点ではないでしょうか。
posted by aruka at 03:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月17日

円形の庭園


円柱が見まもる陰よ無数の眼ひらく真昼の無人の広場

比類なき表情をもつ石像と機械じかけの噴水のまち

かぎりなき天文台を彷徨よへる孤児らの交わす奇妙な言葉

方形の宇宙の縁に立ち数学者らは永遠のかずを数えり

円形の庭園、月のひそかなる音に現われて舞ふ蝶の群れ

方形に森を開墾(ひら)きて赤き酒の杯と皿をしずかにはこぶ

posted by aruka at 03:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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