2007年11月24日

「プラットホーム」


ぼろぼろの自転車でいく海の旅 自殺志願の少女とぼくと


たそがれに風化していくいくつもの壁をならべてだまりこむ街


眠るためまぶたがほしいとぼくたちは眠りを忘れた街をさまよう


飛ぶ夢をみたことがない少年が壊れた喉で奏でる軍歌


正義とは考えないこと正義とはいばりちらすこと目をとじたまま


音もなくとびらが閉じる部屋だけが無限につづく深夜のホテル


この都市は闇に浮かんだ電車だという人が待つ停車場(プラットホーム)

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2007年11月17日

ビートルズ入門者向けCD

 ひきつづいて中山康樹の『超ビートルズ入門』を読んだ感想です。
 前回、こういった場合、いちばんおいしいところを勧めるのが紹介者の役割ではなかと書きました。
 となると、じゃあおまえは入門者に何を勧めるんだといわれそうです。で、参考のために一応ぼくが初心者に勧めるものを書かせてもらいます。といっても、先に書いたとおりぼくはさほど熱心なビートルズ・ファンでもないもので、ぼくの意見が参考になるかわかりませんが、でも、一般論でいって誰がみてもこのへんが妥当というところはあると思うのです。
 まず、ビートルズというのは活動中に作風を大きく変化させたバンドなんで、一枚のアルバムでビートルズを代表させるのは無理があるとおもいます。そこで、前期・中期・後期から一枚づつと、ビートルズを入門するなら3枚くらいは聴きたいところだとおもいます。
 となると、後期は『アビーロード』できまり、中期は『ラバーソウル』できまりでしょう。『レット・イット・ビー』や『サージェント・ペパーズ……』から聴きはじめるよりずっといいです。
 そして前期ですが、これはオリジナル・アルバムではなく、63〜64年頃の軽快なロックン・ロールのヒット・ナンバーを集めたベスト盤を勧めたいところです。
 なぜベスト盤などと言うかというと、ビートルズがアルバムという単位を中心において作品づくりをはじめるのは65年の『ラバーソウル』以後で、それ以前はシングルが主体だったからです。これは当時のロックはみんなそうだったので、『ラバーソウル』以後のビートルズの影響で、ロックはアルバムで聴くものになっていったのですね。だから『ラバーソウル』以前のビートルズを聴くなら、アルバムよりシングルを集めたベスト盤のほうがいいわけです。
 むしろ問題は63〜64年頃の代表的なナンバーをうまく編集したベスト盤があるかという点になります。
 これが、『超ビートルズ入門』に載っていた正規盤を見ると、どうもこれが一番と勧められるものがありません。『1』は「プリーズ・プリーズ・ミー」が入ってないなど問題がありますし、コンピものの『パスト・マスターズ Vol.1』はオリジナル・アルバム未収録のものを集めたものなので、この場合は勧められません。
 とすると、いま出ているもののなかでは、赤盤(『1962年〜1966年』)のCD1を、1曲目をとばして2曲めから聴くのが、一番いいかなと思います。もっとも、これはカヴァー曲は代表的なものも入ってなく、登場時のビートルズの勢いを感じるにはベストの選曲とはおもいません。それに当然2枚組であり、CD2のほうは『ラバーソウル』とダブる曲が出てくるなどの難点が出てきます。
 この他にもおそらく廉価盤などで様々な編集でビートルズのベスト盤は出てるのでしょうが、よくわかりません。
 ビートルズほどのバンドなら、63〜64年頃の登場時のビートルズのヒット・ナンバーの数々を、CDの収録時間限界まで詰め込んだベスト盤が正規盤として出ていてもいいとは思うのですが。


 最後に、今回あらためてビートルズを聴いてみて、おもったことを一つ。
 どうも高校時代のぼくは、それでもビートルズの各時代の作品をまんべんなくは聴いていたようで、聴き逃していた部分を聴いても、それほど大きな新発見というのはなかったです。
 でも、以前も聴いていたものが、現在聴くと違ったふうに聴こえた部分があります。
 それは初期のビートルズの演奏が思っていたよりずっと上手いということです。
 こんなことを書くと、ビートルズがヘタだとおもってたのかとファンに怒られそうですが、はっきりいって高校生の頃に聴いたときにはビートルズの演奏能力が上手いとはおもえませんでした。それは、後から聴いた世代からすれば、ビートルズ登場当時のエレキ・ギターの音って、すごく情けない音に聴こえたからです。
 エレキ・ギターという楽器は1960年代末に一気に性能アップした楽器で、ジミ・ヘンドリックスとか、あのへんの時代以後のエレキ・ギターの音と、1960年代前半の音とでは、それこそマシンガンと水鉄砲くらいの迫力の差があります。さらに1970年代に入ればスタジオ録音の技術も格段に進歩し、たいして演奏能力のないバンドでも立派で迫力あるサウンドを作りだすようになります。
 ぼくのように、1970年代以後の楽器や録音のレベルで育った人間からすれば、初期のビートルズは単にその録音された音からいって、すごく情けない音を出すバンドに思えたし、けれども曲自体は親しみやすくてすごくいい曲が多いな、という印象をもっていたわけです。
 でも、それ以後、ジャズとか古いブルースとかも聴くようになり、格段に進歩する前のエレキ・ギターの音などにも親しみ、当時の楽器やスタジオ録音の限界もよく理解したうえで、もう一度初期のビートルズを聴いてみると、以前聴いていたときより格段に上手いという印象をかんじました。もちろん、超絶技巧とはそういった上手さではないのですが、コンパクトによくまとまった力のあるバンド・サウンドという気がしました。

 このコンパクトでまとまったサウンドという点でいえば、ビートルズって、エルヴィス・プレスリーというよりは、バディ・ホリーからより多くのものを受け継いでいたのかもしれません。

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2007年11月13日

ジョン・レノンの最高傑作は?

 ひきつづいて中山康樹の『超ビートルズ入門』を読んだ感想です。
 まず当初の目的の、どのアルバムを揃えれば全部の曲が聴けるかという点を調べたのですが、結果からいえば、現在ビートルズの曲をすべて聴くには、オリジナル・アルバムのほかに『パスト・マスターズ Vol.1 / 2』という二枚のコンピものを聴けば揃うようです。(『アンソロジー』のシリーズが別にありますが)
 しかし、この『パスト・マスターズ』という二枚も、私感でいえば落ち穂拾い以上の意味はかんじられないコンピですね。収録曲をみてみると、これらの曲をこの順序で聴きたいかといわれると、はっきりいってそうはおもえなかったりします。アルバム未収録の曲を集めたんでこうなったのは理解しますが。
 ともかく、近くの TUTAYA へ行ったらオリジナル・アルバムはもちろん、この『パスト・マスターズ Vol.1 / 2』も揃っていたので、わりと簡単にビートルズのオリジナル音源はぜんぶ聴けるとわかり、さっそく何枚か借りてきました。

 さて、この『超ビートルズ入門』を読んでなるほどと思った点と、あまり同意できない点を書きます。
 まず、なるほどと思った点。それは、ジョン・レノンの最高傑作は『ア・ハード・デイズ・ナイト』であるという指摘です。
 たしかにそう言われれば、そうかとおもいました。
 といっても個人的には『ジョンの魂』を強く推したいのですけど、たしかにあれはビートルズのジョン・レノンというキャラクターを前提として初めて存在する作品だといわれれば、そういう部分もあるかもしれないという気がします。『ダブル・ファンタジー』も、ジョンの曲だけ選んで並べて聴けば、ジョン・レノンというキャラクターを前提としなくても聴ける、いい曲の多い優れたアルバムだとおもいますが、たんにアルバムが作品として優れているというだけでなく、ジョン・レノンという人の勢いの頂点という意味も含めていえば、やはり『ア・ハード・デイズ・ナイト』の頃のジョンが一番凄かったんじゃないかというのは、納得できる指摘です。
 ぼくはビートルズは後から一気に、順番もめちゃくちゃに聴いたもんで、この頃はジョンに勢いがあり、この頃はポールがすごかったなんていうことはまったく考えずに聴いていたのですが、たしかにそういう点を注意して見てみると、ビートルズの初期、『ア・ハード・デイズ・ナイト』を頂点とするあたりはジョンの個性がビートルズをリードしていて、それが後期に入った頃には精彩が失われるのがよくわかります。

 続いて、あまり同意できない点です。
 さて、この『超ビートルズ入門』、ビートルズの入門者が聴くべきアルバムの順番が紹介されているんですが、ぼくはまったくこの順序に賛成できませんでした。
 これは、リスナーがビートルズがリリースした曲をすべて聴くことを前提として、聴くべき順序を紹介しているんですが、はたしていままでビートルズを知らなかったリスナーで、最初からビートルズのアルバムを全部聴こうと決めてから聴きはじめる人なんて、そんなにいるもんなんでしょうか?
 ふつう、まず良さそうなものから聴いてみて、気に入ればその次、その次と聴いていって、結果的に全部聴くことになるかもしれないし、途中で飽きるかもしれないっていう聴きかたのほうが正常じゃないでしょうか。
 筆者はビートルズを聖域にするなというのですが、そのかわりにビートルズをお勉強の対象に化そうとしているように感じます。つまり、まずビートルズの全体像を掴もうなんて、受験勉強でビートルズを聴くような発想で、落ち穂拾いの寄せ集めでしかない『パスト・マスターズ Vol.2』や、『マジカル・ミステリー・ツアー』のようなアルバムから聴かせようとします。そして結局は『アビー・ロード』より先に『レット・イット・ビー』を聴かせたがるのです。
 でも、こういう場合、紹介者っていうのはビートルズのいちばんおいしい部分を紹介するのがつとめなんじゃないですかね? だいたい『レット・イット・ビー』が一番売れてるなんていうのは、みんなビートルズのアルバムでどれがいいのかわからないんじゃないですか?
 ビートルズのアルバムでどれが傑作かというと、評論家はみんな『サージェント・ペパーズ……』をホメますけど、あれって本当にそんなにいいアルバムですかね? サウンド作りが革新的だったことは認めますけど、曲の点からいうとビートルズのアルバムのなかでは、そんなに親しみやすい名曲がそろってるアルバムじゃないですよ。少なくとも初心者にビートルズのアルバムを全部聴かせたら、あれが一番いいと第一印象でおもう人って案外少ないんじゃないですかね。
 ビートルズの入門書を書くなら、どれがいいアルバムかを紹介して、それを勧めるべきなんじゃないですかね。

 といったところで、この項はまだつづきます。
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2007年11月11日

ビートルズって聴かれているの?

 図書館へ行ったとき、中山康樹の『超ビートルズ入門』という本があったのをみつけ、他の本のついでに借りてきました。
 ぼくはとくにビートルズの熱狂的なファンだったことはなく、高校生くらいのときに聴いて、すこしだけの期間ハマってはいましたが、わりとすぐ卒業して興味が他に移ってしまいました。そういった意味ではローリング・ストーンズのほうがずっと長く深く聴いています。
 けれども、ハマッて聴いていたのが短期間であり、当時は高校生でお金もありませんでしたから、とうぜん聴き逃している曲やアルバムがけっこうあります。いつか機会をみて、それらを一通り聴いてみたいなという気持ちはありました。
 けれどもビートルズってオリジナル・アルバムを聴いていっただけでは、けっこう洩れている有名曲が多く、では、どのようなCDを聴けば効率的に全部の曲が聴けるのか、熱心でないリスナーにはわかりにくいところがあります。そこでこの本を見つけたとき、その参考にしようかとおもって借りてきて読んでみたわけです。
 けれど、それ以前にこの本にはけっこう個人的には衝撃的な事実を知らされました。
 というのも、この本に載っていたことによると、日本で一番売れたビートルズのアルバムとは、2000年に出た『1』というベスト盤だというなんだそうです! いったい60年代以来のビートルズ・ファンたちは何を買っていたのでしょうか?
 さらに、ビートルズのアルバムの売り上げで『1』に続くのは、いわゆる赤盤、青盤というベスト盤だそうで、まあここまではゆるします。なにしろビートルズはオリジナル・アルバムだけ聴いていたのでは聴けない有名曲がたくさんあるバンドですから。
 しかし、それに続くのが『レット・イット・ビー』で、これがビートルズのオリジナル・アルバムとしては一番売れたものだというのです!
 なんてことだ! 日本におけるビートルズの聴かれかたって、こんな惨状だったのでしょうか? 自己申告によると山ほどいるはずのビートルズおやじたちは何をしていたのでしょうか。ビートルズのアルバムなんて聴かないでビートルズ・ファンを自称してたんでしょうか? ビートルズって聞いてまず『レット・イット・ビー』を手にとるなんて、そりゃあビートルズなんてほとんど聴かない人の選択ですよ。ジョン・レノンってきいて『イマジン』って即答するのと同じです。

 しかし、そう思うとけっこう思い当たることもあります。
 高校時代のことです。友達と話していて、たまたまビートルズのラストアルバムのことが話題になり、ぼくはまビートルズのラストアルバムはリリース順でいえば『レット・イット・ビー』だが録音順でいえば『アビー・ロード』であり、『アビー・ロード』こそがビートルズのラストを飾る名作だと、いまでもそう思っている当然のことを言いました。
 しかし、友達の一人はたしかに録音順ではそうかもしれないが、『レット・イット・ビー』こそがビートルズのラストを飾る名作なんだから、『レット・イット・ビー』をビートルズのラストアルバムと呼びたいといいだし、ところがその場にいた他の友達全員もその意見に同意し、『アビー・ロード』派はぼく一人になってしまいました。
 あれだけウルトラ・メジャーなロック・バンドでも、ビートルズってこの程度しか聴かれてないんだと思った瞬間でした。といっても、それはぼくが高校生の頃の話で、もっと上の世代、とくにビートルズ世代などといわれる人たちのあいだでは、もっと違った、深い聴かれかたをしているのかとおもってました。
 それが、この程度だったとは……。

 といったところで、この項はつづきます。
posted by aruka at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | ポピュラー音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月08日

福島正実『未踏の時代』を読んだ

 ブックオフで安く売っていたので、『未踏の時代』という本を買ってきて読みました。SFマガジンの初代編集長だった福島正実による、日本のSF黎明期からSFマガジンを編集しつづけた時代のことを書いた本です。
 それなりに興味深い点はあったのですが、なんだか期待と違うかんじがしながら読みました。といっても、それはぼくが勝手に期待していたことであり、それと違うからといってこの本に批判されるべき点などないはずで、勝手に期待したぼくのほうがわるいわけですが、それでもぼくが期待と違うとおもった点を書きます。
 それはファンへの視線がないという点です。
 たぶんSFというのはジャンル小説のなかでも、とくに固定ファンが多いジャンルじゃないかとおもいます。SFマガジンを創刊後数年で黒字に転じさせたのは、たぶん当時の固定ファンの増加によるところが大きかったんじゃないかと想像します。ぼくはその当時のSFファンたちがどんな作品にどんなふうに熱狂し、SFに何を求めていたのかが読みたかったのです。
 しかし、この本では当時のSFに無理解なジャーナリズムと福島正実がいかに論争し、SFを社会的に認知させようと闘ったのかは詳しく書かれているのですが、固定ファンへの視線がありません。むしろ、SFとは一部のマニアックなファンの読み物であると思われないために、もっと広い読者層に開かれていかなければならないとする立場で書かれています。たしかにそれは編集者というものの正しい在り方・意見なのかもしれません。でも、正直いうとぼくが読みたかったのは、むしろ福島正実がマニアックな一部の読者と呼んだところのSFファンの視線のほうであり、そのファンの視線にSFマガジンがどう応えてきたかのほうでした。
 こんなふうにかんじるのは、ぼくがオタク文化はなやかな現代に生きているからなんでしょうか。時代や世代の差というものなんでしょうか。
 以前、古本屋でアメリカのSFの古いアンソロジー(ヒューゴー賞などをとった作品を集めたもの)を買って読んだことがありまして、そこについていたアイザック・アシモフの前書きはいいものだったとおもいます。
 最初のSF大会というものがアメリカで開かれたときのことが書かれていました。そうすると、アメリカ各地から、ほんとに地方のど田舎みたいなところから、SFファンが集まってきたんだそうです。彼らは周囲に大好きなSFのことを語れる友人などなく、かえってSFが好きなどというとみんなからバカにされるので、隠れて読んでいたようなファンたちで、それがSF大会に行けば大好きなSFのことを共に語れる人々と出会えるはずだとおもって、それぞれ苦労しながら遠い道のりをやってきたのだそうです。
 なんだか当時のSFファンたちはそんなふうにして自分が愛する夢をつないでいたんだなとおもうと、なかなか感動的なエピソードでありました。
 ぼくはそんなふうなエピソードが読めるのかと期待してしまったわけです。もちろん勝手に期待したぼくのほうがわるいわけですが。
 その他、もっとこういうところを書いてほしかったと思う点はあるのですが、あまりないものねだりをする気にならないのは、この本が未完であり、作者の福島正実はこの本の執筆中に死去したらしいからです。どんな理由かはわかりませんが、巻末の著者欄に「1976年没」とだけ書いてありました。1929年生ということなんで、50歳にもならずに亡くなったようです。激務の編集の仕事で命をすり減らしてしまったんでしょうね。
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2007年11月04日

巨匠の時代・小ツブの時代

 ぼくはずっとジャズ=フュージョン系の音楽を中心に聴いてきて、わりと最近になってクラシック系の音楽も並行して聴きはじめたのですが、クラシックについて書かれた本を読んでいると、ジャズとクラシックのあいだにも妙な共時的現象がおきているように感じる部分があって、興味深いものがあります。
 最近、中野雄さんの『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』という本を読んだのですが、それにこんなことが書かれていました。
 クラシックの演奏家で、いわゆる「巨匠」と呼ばれる人がいたのはだいたい二十世紀の前半までで、1950年代あたりを最後にして「巨匠」は姿を消していき、新しく登場する演奏家たちはどんどん小ツブになっていくのだそうです。これはどうもジャズを聴いていても、ほぼ同じように感じる部分です。
 たとえば指揮者でいうと、「巨匠」といえる指揮者はフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、ブルーノ・ワルターといった人たちで、この人たちは1960年代に入ると姿を消していき、しかしその後につづくカラヤンやベームの世代までは、指揮者はオーケストラの団員たちに畏怖されるような特別な存在ではあった、しかし、その後の世代の指揮者となると、オーケストラの団員にとって一緒に音楽を作っていく仲間か、せいぜいその音楽をどう演奏すればいいのか解説してくれる人というかんじになると、これは有名オーケストラの団員へのインタビューのなかで聞き出しています。
 さらに、器楽演奏者となると、最近の演奏者は、テクニックという面にかんしていえば、むしろ過去の巨匠以上の優れた演奏テクニックを身につけている人が多いのだそうですが、しかしそのテクニックで伝えるべき内容が何もないか、あってもすごく貧弱という演奏者ばかりが増えているのだそうです。
 これなどはジャズ=フュージョンの世界でもそのまま当てはまるような状況だとおもいます。
 さらにいえば、こういった現象はジャズ以外のポピュラー音楽にもある程度あてはまる部分があります。たとえばロックの場合、録音技術の発達によりいろいろごまかしがきくようになったため、演奏家のテクニックはむしろレベルダウンしているとおもいますが(下手でも立派にきこえるようにできるようになったため)、ビートルズやストーンズらがいた1960年代から、どんどんミュージシャンが小ツブ化してきているのはあきらかでしょう。あるいはR&Bやソウルといったブラック・ミュージックの分野でも事情は同じでしょう。

 しかし、なぜクラシック、ポピュラー音楽に関係なく、おなじような現象がおきているんでしょうか。
 さきの中野雄さんの『ウィーン・フィル 音と響きの秘密』では、このような説明のしかたをしています。
 つまり、最近の演奏者というのは音楽学校出のエリートであると。学校で合理的な演奏法や指揮法を教えてもらい、練習して習得する。もっともはやく上達する近道を先頭をきって走り、コンクールで入賞して世に出るというのが、彼(彼女)らが出世してきた道です。こういうコースをたどれば、高度なテクニックを確実に身につけることができますが、そうやって身につけた彼(彼女)らのテクニックや奏法というのは、つまりは学校で教えられた内容に、せいぜい自分なりのアレンジを加えたていどのものになるということです。
 対して、過去の巨匠というのは、誰かにとくに奏法を教えられたわけでもなく、それらを先人たちから自分で盗んだり、あるいは見い出したりしてきて、そしてとくにコンクールで入賞するなどという手っとり早い出世コースがなかった時代に、なんだかわからないコースをたどって頭角をあらわしてきた人たちなんだそうです。
 それは、おそらく音楽の教育システムが現在のように確立していなかったので、そうするよりほかなかったという理由も大きいんでしょう。それだけに遠回りもしたかも、非合理的な成長のしかたをしてきたかもしれませんし、そのためテクニック面では最近の演奏者に劣ることもあるのかもしれません。が、そうして彼らが迷いながら見いだした彼らの方法というのには、強烈なオリジナリティがあるということなんだそうです。

 ぼくはミュージシャンではないので、この理由のほうは正しいのかどうか判断がつかないのですが、理由はどうであれ、小ツブ化のほうは実感としてかんじています。
posted by aruka at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | オペラ、クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

短歌って息ぬきじゃないの?

 なんていうか、最近、短歌に熱い情熱とやらをもっているらしい様々な人の意見を読むことになって、ぼくはすっかり嫌気がさしてきてしまいました。
 ぼくは短歌っていうのは短いから、ほんの息ぬきていどの気持ちで書いたり読んだりできるものって気持ちではじめて、それ以来、基本的にはそのていどのもののつもりで細々とつづけてきましたが、それじゃあいけないんでしょうかね。
 売れたいとか有名になりたいとかおもうなら、もっとメジャーなジャンルを選んだほうがずっと近道なわけで、短歌みたいな短い形式のいい所って、息抜きとかかるい気持ちでできるとこにあると思うのですが。
 たぶん短歌をやる主な人たちって、なにか創作をしたいけど、長い小説などを書くほどの力はない青少年がとりあえず一行で作れるものとして選ぶか、あるいは別の職業をもってて心に余裕のある大人が、本業のあいまに息抜きとして趣味でなにかを書きたいんだけど、創作にそんなに時間をかけることはできないから短歌か俳句でもってかんじで選ぶか、そんなところだとおもうし、それでいいんじゃないかと思うんですけど。
 それで、ほんのときどき大歌人みたいな人が出てくるだけで、たとえば二十世紀でいえば前半に斎藤茂吉がいて、後半に塚本邦雄がいて、その周辺に数人の特徴的な活躍をした歌人がいて、それくらいでいいんじゃないでしょうか。
 そんなに立身出世めざしてやるものでも、大声を張り上げて熱く意見を闘わせたりってものでもないとおもうんですけど。

 ぼくはこのブログにいろいろ意見を書いてきましたけど、それは短歌とか日本の詩ってものをいままで読んできたことがなかったぼくが、あまりにも未知なジャンルなんで、こういうものか? いや、こうではないのか? と試行錯誤してきた過程を書いたもので、基本的にひとり言です。もし熱い意見だとおもわれていたら嫌だな。
 そりゃあ未知なものを調べていくのは個人的に大好きなもので、それはそれでおもしろがって熱中していた部分もあるわけですけど、それだけっていえばそれだけで、もともと好きだった歴史の理解に役だったあたりが儲けものっていうぐらいのかんじです。
 今後短歌を続けていくとしても、ぼくはやはり息抜きでできるからっていう理由で続けるだけでしょうね。あきたらいつでもやめるとおもうし。
 でも、短歌ってそういうものでいいんじゃないんでしょうかね。
posted by aruka at 10:57| Comment(4) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月02日

ネット短歌は盛り下がってもいいということ

 ぼくがネット短歌は盛り下がってもいいものだとおもいます。その理由を書きます。

 ぼくは短歌というものはほんらい「詩」でなければ存在理由がないものだとおもいます。
「詩」ではない短歌というのは、アブクみたいなもんだとおもいます。親しみやすさ・もの珍しさから一時的に目を集めることはあったとしても、そのうちはじけて消えるものだということです。
 なぜなら存在理由がないからです。つまり、「詩」でないなら57577という定型なんて守る必要がないのです。そんな定型にこだわらずに自由に書いたほうがいいものが書けるにきまってます。
 定型なんて守る必要がまったくないのに定型を守ってみせるのは、ただのオアソビというべきでしょう。それはつまり、ほんらいなら小説とか、もっと自由に書けるジャンルの作品を書いたほうがいいのに、そこまでの筆力がないので、とりあえず一行で書ける定型短詩を書いているという状態にすぎません。でも、そのうちに小説なども自由に書ける筆力も身につくかもしれませんし、定型なんて守る必要がまったくなかったことにも気づくでしょう。そのときアブクははじけて消えるでしょう。これは当然読者の側でもおなじことがいえます。
 定型とか韻律というものが存在理由をもつのは、短歌が「詩」であった場合のみです。なぜならパスがいうように、韻律というものは「聖性に対峙したときの呪詛、あるいは祈り」から生まれたものであり、「詩」の属性だからです。
 小説などもっと多くの人に読まれているジャンルのものを書くのではなく、短歌という形式を選ぶことに積極的な意義が見出せるのは、「詩」を書いた場合のみです。
 だから短歌というものは、本質的みて「詩」でなければ存在理由がないのです。

 さて、ネット短歌の盛り上がりといったときに、しかしアブクの部分がいくら盛り上がったところで、べつに意味などないのです。なぜならそんなものは最初から存在理由のないものであり、やがてはじけて消えるものだからです。
 むしろ、そんなアブクに紛れて本質を見失ってしまうことのほうが危機だといえます。なぜなら、多すぎるアブクに惑わされて本質が見失われてしまっていたら、アブクがはじけると同時に、すべてが無くなってしまうからです。
 しかし、ぼくが二年ほど前からネットで短歌を書き始めてかんじてきたことは、あまり「詩」と思えない短歌ばかりピックアップし、アブクを盛り上げることばかりに熱心だとしかおもえない状況でした。(もちろん個人的見解ですが)
 最初のうちはぼくも、初心者で何も知りませんから、それはそれで楽しみはしましたし、楽しめない部分は自分には理解できないけど本当はいいものなんだろうとおもってました。でも、楽しんでいた部分はすぐに飽きましたし、理解できないものも本当はいいものかどうか疑わしくなってきました。そして、その程度のものであるかぎり、短歌の盛り上がりなんて意味はないのです。
 アブクがいくらふくれあがって、盛り上がっているようにみえたとしても、それはまったく意味のないことなんです。そんなアブクは消えたってかまわないのです。盛り下がってもいいのです。
 大事なのは盛り上げることよりも、本質を見失わないことです。


 さらに、短歌の本質とは何かということについて、「詩」であるということの他に、ぼくが最近かんじていることがあります。それは、どうも短歌というものの本質は盛り下がった後のほうにありそうだということです。
 おもうに短歌というのは、祭りの盛り上がりより、祭りの後のむなしさとか、祭りそのものに背を向けた心情のほうに本質があり、勝者よりも敗者、成功者よりも失敗者のものであるようにかんじます。
 万葉集をみると、当時政治的に敗北して思うとおりの生をまっとうできなかった者たちの歌がかなりの部分を占めるわけで、近代においても例えば石川啄木など、ほんらい小説や詩などで成功したかったのがことごとく失敗し、敗者の悲しき玩具として短歌を書くわけです。それが結果的には売れたとしても、それは結果論であって、どうも有名になりたいとか売れたいとか、立身出世のために短歌を書くというのには、イメージとして違和感をかんじるようになってきました。
 ぼくは二年ほど前にネットで短歌を書き始めて、最初のうちはオアソビとかウケねらいとか、その程度のかるい気持ちの部分も大きくて、だいたいそれまで短歌とか日本の詩なんてものをまるで読んだことがなかったもんで、あまりにも未知な世界に、未知であることがおもしろくてはじめてみたわけです。でも、やってみると、単純にオアソビとかウケねらいというのは、短歌でやってもそうおもしろくないような気がしてきました。それは自分でもその時はおもしろいつもりで書いていても、少し時間をおいて読みかえしてみるとつまらないし、他人が書いたものも多分本人はおもしろがって書いているんだろうなとわかるのだけど、さむくかんじたり、ちょっと違うんじゃないかとおもいながら、ではいつまでも魅力的な短歌というのはどういうものかとかんがえてみると、けっこう短歌の本質ってそのへんのところにあるんじゃないかといまのところおもっています。
 斎藤茂吉の『赤光』にしても、有名な連作というのは母との死別や、成就しなかった恋愛をあつかったものであり、これが幸福な母子ものや、ハッピーエンドの恋愛を描くなら、たぶん短歌以外のジャンルのほうがいいものが書けるんじゃないかとおもうわけです。
 思うとおりの生をまっとうできなかった者たちが、その思いを歌というかたちで残し、ほかの者たちは彼らがこの世に残さざるをえなかった思いを慰撫するために歌をつくり、といったところが短歌というものの本質にちかいのような気が、最近してるんですが、どうでしょうか。

 もちろん、自分が書いた作品のことは棚にあげていってるのですが。
posted by aruka at 01:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月01日

入門者向けのオペラ


 『フィガロの結婚』を聴いていておもうことは、もしオペラというものを聴いてみたいという人がいたら、これから聴いてみるのが一番いいんじゃないかということです。
 それはぼくが言わなくても、いろいろな本とかで、オペラ入門の推薦作としてはヴェルディの『椿姫』とかプッチーニの『蝶々夫人』とかとならんで、この作があげられていることが多いようです。
 でも、ぼくとしては『椿姫』や『蝶々夫人』は入門作としてはあまりよくなく、やはり『フィガロの結婚』がいいとおもうわけです。
 まあ、このブログを読んで参考にしてオペラを聴きはじめるという人はまずいないでしょうが、自己満足として、ここでその理由を書いてみます。

 個人的に、それほどクラシックを聴いていたわけではなく、ポピュラー系の音楽を聴いてきて、オペラを聴きはじめたときに、いちばん違和感をかんじたのはあの歌い方です。なにもそこまで声を張り上げなくたっていいじゃないか、というのが正直な印象で、たしかにマイクが無かった時代にはあの声の出しかたが必要だったのはわかるけど、時代が変わったんだから歌い方を変えたっていいんじゃないかとおもったんです。
 つまり最初のうちは、聴き慣れてないせいで、あまり魅力的には感じられなかったわけです。
 それでも、聴きつづけていけばだんだんこの歌い方の魅力というのもわかってくるのですが、たぶん最初は違和感をかんじるほうが普通なんじゃないでしょうか。普通に育ってきた人なら、ポピュラー音楽の歌手の歌い方のほうに耳が慣れているわけで。
 というわけで、ぼくの場合、最初は歌手に多少の違和感をかんじながらもオーケストラとか音楽の魅力にひかれてオペラを聴いていったわけですが、そういう耳で聴くと、ワーグナーとかは歌手に多少の違和感をかんじていても、オーケストラの魅力で聴けるわけです。
 しかし、ヴェルディとかプッチーニとか、イタリア系のオペラは、これは歌手の魅力で聴くものであって、あの歌い方に違和感をかんじているうちは、聴いたってそんなに楽しめないんじゃないかというのが、ぼくの実感としての意見です。だから『椿姫』や『蝶々夫人』は入門作としては適当でないとおもうわけです。
 ぎゃくにいえば歌手の魅力にとりつかれると、今度はイタリア系のオペラこそ最高だと感じる人が出てくるのも、それはそれでわかります。
 だから、ポピュラー系の音楽を聴いてきた人がオペラを聴く場合、最初のうち、あの歌い方に多少でも違和感があるうちはイタリア系のオペラは無理に聴こうとはせず、ああいう歌がもっと聴きたいとおもったところで聴きはじめるのが、おそらくいいタイミングなんじゃないかとおもいます。
 もちろん、いままでずっとクラシックを聴いてきて、歌曲などは好んで聴いてきたのであの歌い方には魅力はかんじるものの、オペラは一度も聴いたことがなかったという人ならいきなりヴェルディから入門でもいいわけですが、はたしてそんな人ってそんなにいるんでしょうかね。

 じゃあ、最初はどれから聴いたらいいのかということですが、最初はあの歌い方などに違和感があっても親しみやすいオペラを、できるだけ何度も何度も繰り返し聴いて、あの歌い方に慣れてしまうというのが、いちばんいい入門法だとおもいます。慣れてくれば、あの歌い方の魅力もわかってくるもんです。
 では、それには何がいちばん適当かというと、やはり『フィガロの結婚』だとおもうわけです。
 といっても、もちろんモーツァルトが嫌いだという人なら別ですが、まあたいていの場合、モーツァルトを大嫌いだという人は少なく、オペラは聴いたことがない人でもモーツァルトの交響曲や協奏曲などは聴いたことがあり、好きな曲もあるという人は多いです。
 それならまず『フィガロの結婚』を、歌手がソロをとる協奏曲のようなつもりでくり返し聴くのが、いちばんいい入門法じゃないかとおもうわけです。
 なにしろ、オペラという形式はモーツァルトがもっとも得意とした音楽形式で、つまりモーツァルトの音楽のいちばんおいしい部分といえます。それに『フィガロの結婚』というオペラは、極端にいえば歌詞やドラマの部分をまったく無視してしまって、たんに音楽として聴いたとしても、それはそれで楽しめる音楽です。モーツァルトが一番あぶらが乗り切ったともいえる時期の作品ですから親しみやすく魅力的な曲がそろっています。
 おまけにこの『フィガロの結婚』はおそろしく敷居が低いというのも特徴だとおもいます。つまり、いくら芸術性が高くても、あまりにも深刻で重厚な作品や、ベタベタのメロドラマみたいなオペラだと、それほど日常的にくり返し聴けないとおもうのです。どうしても構えてしまったりします。
 ところが『フィガロの結婚』なら、基本はラブコメだからまったく構えなくていいし、電車のなかで聴いてもいいし、家に帰ってコーヒーでも飲みながら聴いてもいい、掃除をしながら聴いても、キッチンで料理や洗い物をしながら聴くのにも適したタイプの音楽です。
 こういう敷居が低くて気軽にくり返し聴けるタイプのオペラでまずあの歌い方などに耳を慣らしておいて、慣れてきて、オペラの魅力がわかってきたところで、いろいろ聴いてみるといいとおもうわけです。

 ただ、この前も書いたとおり、『フィガロの結婚』を音楽だけでなく、オペラとしてドラマの部分も含めて楽しむには、やはり映像か実演で舞台を見ないとほんとうのおもしろさはわからないとおもいます。
 だから、最初はCDだけ聴いて耳を慣らしておくにしても、ある段階でやはり映像か実演で観たいところです。
 一番安上がりに手軽くすませるにはテレビでの放送を待つという方法があります。これも『フィガロの結婚』が入門者向けにいいろころで、すごくポピュラーな作品なもんで、わりとよく放送します。ぼくがオペラに興味をもって2年弱ですが、その間にもすでにNHKのBSで2種類の映像を放送しています。大きな図書館などに行けばDVDも貸しているかもしれません。

posted by aruka at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | オペラ、クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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