2007年10月28日

クラシックにおけるオペラ

 オペラを聴きはじめてわかったことは、本場の西洋においてクラシックの中心はオペラだということです。日本ではクラシックのCDの紹介本などでオペラを扱ってないものも平気で出ているのですが、ほんらいこれはおかしいようで、クラシックというのは交響曲もその他のものも、すべてオペラが中心にあってこそ成立している世界のようです。
 ではなぜ日本ではオペラがそれほど人気が出てこなかったのかといえば、やはり日本においては音楽はレコードという形で輸入されてきたので、レコードだと交響曲や協奏曲の魅力はわかっても、オペラの魅力はわかりにくかったからではないでしょうか。
 日本ではまだ専用のオペラ劇場もない状態ではありますが、おそらくDVDなどの普及によって、日本においてもだんだんオペラはクラシックの中心になっていくんじゃないかとおもいます。

 とにかく、オペラが中心だと知ってみてみると、クラシックというのはよくわかってくることがあります。
 作曲家にはオペラに向いている人といない人とがいて、例えばベートーヴェンなどあきらかに向いてない人の代表なんですが、それでも一つだけ『フェデリオ』というオペラを書いています。この『フェデリオ』はベートーヴェンの作品のなかではとくにベスト1とかにあげるべき大傑作というほどのものではないような気がするのですが、ベートーヴェンがこのオペラにかけた情熱たるやなみなみならぬものがあって、一つの作品にかけた情熱の量でいったらベートーヴェンの全作品中これが文句ナシのベスト1じゃないかとおもわれるほどです。
 シューベルトも歌曲が得意だったわけなんで、オペラも書けそうな気がするんですが、どうもなぜかオペラの適性はなかったようで、しかし失敗しても失敗してもオペラを書きつづけたようです。
 じっさいクラシックの作曲家はオペラの成功によって最も名声も評価も収入も高まったようで、オペラを成功させることが作曲家としての成功への王道だったようです。
 その点モーツァルトはオペラを得意とする作曲家で、一般的にモーツァルトの作品中もっともモーツァルトの良さが一番出てる形式といったら、第一にオペラ、第二に協奏曲とするのが普通でしょう。
 だとすれば、本来モーツァルトのようなタイプの作曲家はオペラをバリバリ書いていけば他はべつに書かなくてもいいくらいのはずです。しかし、モーツァルトの曲をみるとオペラの数はわりと少なく、交響曲とか弦楽四重奏曲とかありとあらゆる種類の曲を数多く書いています。これはなぜなんだろうという疑問がわきます。
 それでみてみると、どうもオペラの上演というのは、現在でいえばハリウッドで映画を作るようなもので、才能や実力があればいいという世界ではなかったようです。つまり、非常に多くの人やカネがかかわり、また地位や名声にも直接かかわるだけに、嫉妬や妨害行為も呼ぶようで、そういった騙しあい足を引っぱりあうドロドロとした世界でプロジェクトを実現させる政治力のようなものがないとうまくいかない世界だったようです。(考えてみればワーグナーだってルードヴィッヒ二世という国王が熱狂的なパトロンになったからこそ『ニーベルングの指輪』を完成させられたわけです)
 モーツァルトはどうも若い頃にそういった点で失敗し、それ以後オペラからはいったん遠ざかざるをえなかったようです。しかし、やはり評価を得るにはオペラでの成功が不可欠なわけで、なんとかオペラを成功させたい、その思いで起死回生を計るべく力を込めた一作が『フィガロの結婚』だったようです。
 このオペラの台本選びのためにモーツァルトは数百冊の台本を読んだといいますから、その情熱がうかがえます。
 で、結果はどうだったのかといえば、その後、それほどはオペラを作曲する機会にめぐまれてない点からみて、そうは成功しなかったようです。
 それはそうでしょうね。これはぼくがみてもその責任はモーツァルトにあるとおもいます。というのはもちろん、芸術的価値とは別のレベルでの話ですが。
 『フィガロの結婚』という劇はもともと貴族(金持ち)をおちょくってあざ笑う内容の劇なんです。モーツァルトは台本を直してそういう部分を抑え、ラブコメ度を高くしていますが、もともとそういう内容なんで、そういう要素は無くなりはしません。モーツァルトのパトロンにしてみれば、当然自分がおちょくられて笑われるようなオペラを喜ぶわけがないと、常識でかんがえてもわかります。
 けれど、本などみると、この時代はモーツァルトにとって生涯でもっともパトロンとの関係がうまくいっていた時代で、だからこそ起死回生・一発逆転の勝負をかけたオペラ制作に踏み切ったようです。
 そんな状況でこんなパトロンを怒らせるような内容のオペラを、それも数百冊も台本を読んだ中で、選びに選びぬいたすえに、よりによってこれを選ぶモーツァルトという人の人間性というのに、ぼくはたいへん興味を感じます。
 これってやっぱりワザとなんでしょうかね。それとも、そんなことにまったく気をつかわない人だったんで、そんな意識をせずに単におもしろかったからという理由で選んでしまったということなんでしょうか。どちらにしろ、ふつうの人の感覚とはかなり違うでしょう。
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2007年10月27日

モーツァルトのオペラ、CDかDVDか。

 モーツァルトのオペラを聴いていて思うことは、モーツァルトのオペラの場合、映像か実演で観ておかないとおもしろさは理解しずらいんじゃないかということです。
 というのは、去年ワーグナー中心にオペラを聴きはじめた頃はそんなことは考えなかったということです。
 そもそもぼくは音楽を観賞する場合、映像つきで観賞することはほとんどありません。ジャズとかフュージョン系の音楽でもライヴを録画したDVDとか出ていますし、持っているのも何枚かありますが、どうも映像というのは一回か二回観ればそれで満足してしまい、後はCD、あるいはDVDでも音声だけ別のメディアにダビングして聴いたりしています。
 映像だと見ていなきゃならないけど、音なら「ながら聴き」もできるせいなのか、わかりませんが、どうも話をきいてみるとぼく以外でもそういう人って多いようです。
 だからワーグナーを聴くときも、映像付きであれば台本を見なくても字幕でストーリーがわかるという利点はあるにしても、たいていはCDで観賞していたし、それでいいとおもってました。
 それに、一つにはワーグナーのオペラというのは、音楽自体が場面や情景を演出しており、目を閉じて聴いていれば風景や人物の姿が目に浮かんできます。そのように音楽が書かれているわけです。そして映像付きで観た場合、この目を閉じて浮かんでくる情景に匹敵するほどの映像というのはまずありません。
 これは舞台の実演を観るのであれば話は別ですが、実演を観るのと、実演を撮影した映像を観るのとでは、まったく別物であるとぼくはおもいます。例えば実演であれば、自分の席から舞台を観ていて飽きることはありませんが、もし実演を収録した映像で固定した位置からのカメラでずーっと舞台を撮影しているだけの映像なんて見せられたら退屈で仕方ないでしょう。やはりカメラ割りとかして、映像作品として作る必要があると思うのです。そして、そうなった場合、やはりそれは映画などと同じ映像作品という基準で観られるものになるんだとおもいます。となると、ワーグナーの音楽に匹敵する映像というのは、やはりそうそうないわけで、それなら大抵のばあい目を閉じながらCDを聴いていたほうがいいとおもうわけです。

 しかし、モーツァルトのオペラの場合、どうもそうともいえないような気がしています。たぶん何度かは映像や実演で観ないとおもしろさがわからない気がするのです。
 というのも、モーツァルトのオペラのおもしろさは舞台上の登場人物の動きやスチュエーションと密接に結びついている気がするのです。
 たとえば『フィガロの結婚』でスザンナが一人で歌っている場合でも、ケルビーノが椅子の後ろに隠れているをゴマカしながら歌っている歌であったり、あるいはケルビーノを着せ替えしながら歌っている歌だったりします。それは映像で見ればそうわかりますが、CDで音楽だけ聴いていれば、単にスザンナが一人で歌っているというだけにしか聴こえないわけです。そして、こういうのって、台本を見ながら聴いていて文字で説明されるより、登場人物の動きが見えたほうが、やはりスザンナがゴマカしている様子や、着せ替えしている様子を見るのがおもしろいわけです。
 ところで先述したとおり、映像でオペラを観賞する主なメリットって、字幕付きで見れば台本を見なくてもストーリーを理解しながらオペラが聴ける点だと思っていたのですが、どうも、少なくともモーツァルトの場合、字幕は無くてもいいような気がします。
 というのは、たんに中古屋で輸入盤のDVDがすごく安く売っていたので買ってきて観てみたのですが、もちろん日本語の字幕なんてなくて歌詞なんてわからないのですが、それでも登場人物の動きなどを見ていればどういう場面なのかはわかるし、それで充分おもしろいのです。
 もちろん、そんな話なのかがわからなければ、それがどんなシーンなのかもわからないのかもしれませんが、モーツァルトのオペラの「あらすじ」くらいいろんな本にも書いてあるし、ネットを検索しても簡単に見つかります。そして「あらすじ」だけ頭に入っていれば、あとは字幕なしの映像を見てもけっこうわかります。
 では、モーツァルトのオペラは、そうやっていつも映像付きで観ているのかというと、やはり数回映像付きで見て、その歌が歌われるのがどんな場面なのかが頭に入ってしまうと、CDのほうがいいという気になるのですが。

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2007年10月25日

(題詠100題2007観賞)013:スポーツ


傷ついたクラゲみたいにせつないよスポーツジムのプールに浮けば  (暮夜 宴)


少年の日のさみしさよ海へゆくこのまっ白なスポーツカイト     (坂本樹)




 この題もあまりいいとおもう作品がありませんでした。やはり書きにくい題だったんじゃないでしょうか。無理やり読み込んだ感をかんじるものも多かったです。それでも2つ選んでみました。
 暮夜 宴さんの作品。
 書いてはいないのですが、時刻は夜なのかと勝手に想像しました。というのも、闇のなかでプールにぷかぷか浮いている、周囲に触れたり見える確かなものがなにもない状態というのは、人間にとってもっともよるべない状態らしいです。
 幻覚を見る実験というのもありまして、闇のなかでプールに浮いていると人間はほぼ確実に幻覚を見るのだそうです。感じられるものが何もない、脳に情報が入力されてこない状態に置かれると、脳は勝手に幻覚をつくりだしてしまうのだそうです。そんな人間にとってもっともよるべない状態を「傷ついたクラゲ」と表現したところにおもしろさをかんじました。
 坂本樹さんの作品はいいとおもうのですが、意味がとりにくいです。さいしょ「スポーツカイト」が「海へゆく」ということで、スポーツカイトの糸が切れて風に流されて海の遠くに落ちていくというイメージかとおもったのですが、そうすると「この」はおかしい気がします。たんに少年がスポーツカイトをもって海へ行くということなんでしょうか?
 最初のイメージでとるとすると、海の遠くへ落ちていったまま二度と少年の手に戻ってこないスポーツカイトが、そのまま二度と戻ってこない少年の日々のイメージと重なるいい作品だとおもったのですが、でもやっぱり「この」はおかしいな。

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2007年10月21日

ネット短歌の盛り下がりを喜ぶ 2

 トラックバックしていただいたので、酒井さんに質問の点をこたえておきます。

『どのやうな現象をもつてネット短歌の衰亡と捉へられたのかをarukaさんには説明していただきたかつたところです。』

 この点ですが、内容はよく知らないですが、以前は「ちゃばしら」とか「ラエテティア」などというネット上の短歌の企画があったようですが、すでに終了したようです。「歌葉賞」というのも昨年終わったようで、「かんたん短歌ブログ」も終わったようで、笹公人さんの投稿ブログは以前はラジオで放送していたのが、ラジオ放送は終了しています。これらネット上の短歌の企画はどれも終わるか規模を縮小しています。それにはそれぞれの主催者の都合もあるんでしょうが、人気が盛り上がっているならこうも揃いも揃って終わるもんでしょうか?
 そして「題詠100題blog」の参加者の数の推移をみると最初の数年は毎年ぐんぐん増えていくのですが、2005年をピークとして以後は減少傾向にあります。2006年以後は出走前に参加者を締め切ることをやめ、期間中に途中参加もできるようにしたのに、です。
 これらの点をみれば、現在ネット短歌の人気は盛り上がってはいなく、むしろ翳りがみられるとする現状認識は妥当だとおもわれます。
 酒井さんご自身はネット短歌の人気の下降を実感しておられないということなのかもしれませんが、一般論でいってこういった場合、10人中1人か2人が「おかしいぞ」と気づくあたりが重要な分岐点となります。

『たとへネット短歌が衰亡しつつあるにしても"やっぱりな、ザマーミロ!"と切り捨てるのではなくして、だつたらこの俺がネット短歌を盛り上げてやる、ぐらゐの氣概がなくてどうするのだ、と僕は思ひました。』

 この点ですが、なんで盛り上げなきゃいけないのでしょうか? べつに盛り上がろうが盛り下がろうが、かまわないんじゃないでしょうか。それは酒井さん自身も最後の部分に、

『結局のところ、ネット短歌がたとへ盛り下がつていようとも、短歌を讀む人は讀むだらうし、詠む人は詠むだらう。それでいいのだと、僕は思ひます。』

 と書いておられます。ぼくもこの点にはまったく同感です。
 ぼくが困っているのは、酒井さんの文章は一体何を言いたいのかわからない事です。
 この最後の、『たとへ盛り下がつていようとも(中略)それでいいのだ』という、ぼくと酒井さんと共通であるはずの認識の上に立つのなら、なんで『だつたらこの俺がネット短歌を盛り上げてやる、ぐらゐの氣概がなくてどうするのだ』という言葉が出てくるのでしょうか?
 逆に、酒井さんが『この俺がネット短歌を盛り上げてやる』という気概で日々身を粉にして活動されているかたなのなら、「人気が盛り下がって喜んでいる」などと書いたぼくのことをゴキブリのように嫌悪するのも心情的に理解できますし、批判もあまんじて受けましょう。しかしゴキブリは一匹みつかった背後には百匹以上棲息しているという事実はお忘れないように。もしネット短歌の人気を盛り上げたいのなら、ぼく程度の人間が自分勝手にブログに書いたことに噛みつくより、なんでそんなに多くの人がネット短歌から去っていったのかを考えるほうがよほど重要です。
 けれど、最後まで読めば、酒井さんは『この俺がネット短歌を盛り上げてやる』という人でもないと判断せざるをえません。
 一体、酒井さんはあの文章で何がいいたかったんでしょうか?

 ぼくが先の文章に書いたことは、煎じつめていえば、二年ほど前からネットで短歌を始めてみたものの、なんだかワケのわからない世界で、つまらないものや理解できなものばかりが賞賛されていていて、そんなふうにかんじるぼくの感性ってヘンなのかとおもっていたところ、ネット短歌の人気が盛り下がっているというのを知って、やっぱりぼくと同じように、短歌に興味をもって始めてみたものの、つまらなくってやめていく人って多いんだなとおもい、現在の短歌の大半をつまらないと感じるぼくの感性はべつにおかしいわけではないんだなとおもって納得し、喜んだ。というだけのことです。


 さて、酒井さんおすすめの黒田英雄さんのブログについて書きます。ちなみに先の文章は黒田英雄さんのブログも知ったうえで書いた文章です。といっても以前に少し覗いたことがあるだけなので、内容はよくは知りませんでした。覗いただけですぐに読まなくなった理由は、つまらない歌ばかり選んであったからです。今回また行ってみましたが、やはり印象は同じでした。
 もちろん黒田さんの選んだものが秀歌だと思えるのなら、黒田さんに「優れた批評眼」があるとおもえるのなら、酒井さんはそれを読めばいいのでしょう。「歌葉賞」の受賞作家なども、それがおもしろいとおもえるのなら、それを読めばいいのと同じです。
 でも、いずれもつまらないと感じるのがぼくの本音ですから、そこは何といわれてもしかたがないのです。
 試みに黒田さんは中井英夫のような仕事はしていないとぼくが考える理由を例をあげて示してみます。
 中井英夫は当時の短歌には「詩」がないと批判し、「詩」としての短歌をピックアップしていきました。去年読んでこのブログにも書いたパスの『弓と竪琴』によると「詩」とは、

 ……人間は理性ではどうにも処理できない恐怖すべきもの、理解も共感も想像もできない絶対的他者の存在を感じると、その畏怖すべき存在に聖性をかんじる。その「おぞましき神聖なるもの(ヌミノーゼ)」に対峙したとき、人間は儀式的な行為によってそれを鎮めようとする。そのときの呪詛、あるいは祈りのとき、言葉は意味よりもリズムやイメージの多重性が重視され呪術性をおびる。それが詩であり、そのリズムが韻律である。

 と、ぼくなりに要約させてもらうと、そんなようなことを書いていました。そここそが「詩」の生まれる源泉であると。
 おそらく中井英夫もこれと同じか似たような考えをもっていたはずで、そのため「詩」にこだわる中井英夫がピックアップする作者の作品には「おぞましき聖性に対峙した場所から生まれてくる詩の感覚」があります。例をあげてみます。


しかもなほ雨、ひとらみな十字架をうつしづかなる釘音きけり    塚本邦雄

死火山の上おそひくる夜を臨み不在の椅子のうつくしさ知れり    浜田 到

狼少年の森恋ふ白歯のつめたさを薄明にめざめたる時われも持つ   春日井建

死神はてのひらに赤き球置きて人間と人間のあひを走れり      葛原妙子


 これと比べる例として、酒井さん推薦の黒田さんのブログから2007年10月18日の「私の名歌鑑賞その3」でピックアップされている作品のうち最初の4首をあげます。(一番最近の選歌を選んだのであり、他意はありません)


をのこにつく乳首の理由(わけ)を教へしはかの夜のきみの唇の円  黒田英雄

かえりみちひとりラーメン食ふことをたのしみとして君とわかれき  大松達知

噴水のざわめきにこころみだされて愛を告白したり この場所    大松達知

はじめてのくちづけをへてあふぐときどこかでいつかみた空がある  吉岡生夫


 これらは別物であるということはもう言っても理解されないところまで来てるんでしょうかね。
 黒田さんが選んだ短歌には「おぞましき聖性に対峙した場所から生まれてくる詩の感覚」はありません。これは俗的なテーマでの話し言葉を定型にあてはめただけのものであり、パス〜中井がいうような意味での「詩」ではありません。
 つまり中井英夫が否定したタイプの短歌が、黒田さんがピックアップしているタイプの短歌であり、この二人の短歌にたいする価値観は180度違います。
 個人的には中井英夫の「批評眼」と黒田さんの「批評眼」をいっしょくたにしてしまうのは、中井英夫の「批評眼」も黒田さんの「批評眼」も理解できてない人の言うことという気がしてしまうのですが、どうでしょう。
 もちろん黒田さんが選ぶような短歌が好きだという人はいるのでしょう。中井英夫の活躍中も中井の否定派はいました。いろんな意見や価値観の人がいるのは当然です。だから、そういう人は黒田さんのブログを愛読すればいいのです。
 でも、ぼくは黒田さんが選ぶような作品はつまらないと感じるわけで、それはつまらないと感じるぼくの感性のほうがヘンなんじゃないかといわれれば、もちろんそうなのかもしれませんが、黒田さんのブログがあってもネット短歌の人気が減っているのなら、ぼくと同じように感じている人もけっこう多いということなんじゃないかというのが先の文章の内容でもあります。

 さて、ではパス〜中井がいうような意味での詩としての短歌は現在では書かれていないのかというと、やはり書かれてはいるとおもうのです。
 現在このブログで続けている題詠100題2007の観賞コーナーから、最初の二つの題でぼくがピックアップした野樹かずみさんとけこさんの作品を例にあげてみます。


両目から砂がこぼれる魂が崩れ始めているかもしれない      野樹かずみ

あの晴れた朝に廃墟となる街に少女のあなたがいたのだという   野樹かずみ

白く残る月の気配に怯えながら無音の街を歩き始める       けこ

火星まで晴れた夜空は無防備な正しさを叫ぶ 凍えてしまう    けこ


 ぼくはこれらの作品には「おぞましき聖性に対峙した場所から生まれてくる詩の感覚」をかんじるのです。
 しかし、実感でいえば、こういった「詩」を感じる作品は、膨大な量を読んだなかで、ほんのすこし見つかるだけというかんじです。まあ、ふつうの読者なら、そこに到達するまえに失望して読むのをやめるんじゃないかと、実感としておもいます。
 そして、もし短歌が「定型詩」だというのなら、もっと(中井英夫と同じような意味での)「詩」にこだわって、優れた「詩」である短歌をピックアップするべきじゃないかというのは、もう理解もされない意見なんでしょうかね。


 いずれにしろ、ネット短歌の人口が一時期増え、そしていま減っているのであれば、それはネットをとおして短歌に興味をもった人たちが短歌を始めてみたものの、短歌の世界をぐるりと見回してみて、失望したから去っていったということでしょう。
 もちろん、なかにはおもしろいと感じて続けている人もいるでしょう。そういう人はとりあえず関係ありません。
 でも、現状をみれば、やはり失望して去っていってる人がかなりいると見るべきなんじゃないでしょうか? そしてぼくは、数少ないおもしろい出会いがあったので、それでも細々とネット短歌を続けてはいますが、現在の短歌の世界に失望して去っていった人に、かなり共感するのです。
 なぜなら、現在書かれている大半の短歌は「詩」が欠けているというか、目指してすらいないようにみえるからです。
(もちろん、短歌を去っていった人がみなぼくと同じ理由で失望したとはいいませんが)
posted by aruka at 20:53| Comment(12) | TrackBack(1) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

モーツァルト伝説をすこし剥ぐ

 モーツァルトのオペラを聴いていると、いままでこの人にまとわりついていた様々なことが、たんなる伝説にすぎないんじゃないかとおもえてきました。なんていうか、分厚い伝説の虚飾の向こうからモーツァルトという存在が、人間として見えてきた気がしたわけです。
 しかし、なんで人は人を伝説にしたがるんでしょうか。あきらかに偶発的にそうなったというのではなく、意図的なものをかんじます。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチなんて人をみると、ぼくは暗澹たる気持ちになります。あの時代におきた様々なことがぜんぶ彼に結びつけられて、意図的に化物のような存在に仕立てあげられてしまっているのを感じずにはいられません。が、話がそれるのでその話はやめておきましょう。
 伝説がほんとうのことを隠してしまうのは当然のことで、伝説がまとわりつきすぎると、その人がどういう人なのかということがわからなくなります。モーツァルトの場合も典型的にそうなんじゃないでしょうか。少なくともぼくにとってはそうでした。
 そこでここではモーツァルトにまとわりついた伝説を、ぼくが気づいたものだけ、少しだけ剥いでみます。

 まずモーツァルトにまとわりついた伝説をひとつあげるなら、彼が「早熟の天才」という伝説があるとおもいます。
 はたして、モーツァルトって早熟の天才なんでしょうか? なんだかモーツァルトというと、きわめて若くして交響曲を作曲したりして、超人的な能力をもった天才児みたいなイメージで語られているのをよくみかけたんですが、調べてみるとそうでもないような気がしてきました。
 というのは、モーツァルトの作品で現在もよく演奏されるものを見てみると、どれも年がいってから作曲したものが多いのです。といってもモーツァルトは36歳くらいで亡くなってますから、それでも若いといえば若いのですが、早熟の天才といった場合は普通はもっと若い時期にピークを迎えた人のことを指すんじゃないでしょうか。
 例えばポピュラー音楽の分野でモーツァルトと同じくきわめて若くして世に出た人といえば、たとえばスティーヴィー・ワンダーがいますが、スティーヴィー・ワンダーのピークがいつの時期かと問われればたぶん20代の前半、つまり『Music of My Mind』から『Key of Life』に至る5作品あたりを作っていた時期をあげるのが普通でしょう。早熟の天才というとよく引き合いにだされるランボーやラディゲの場合20歳前後がピークとなります。(もっともラディゲは夭折したので生きてたらどうなっていたかはわかりませんが)
 しかしモーツァルトの場合、代表作といわれるものは30歳以後に書かれたものが大部分じゃないでしょうか。たしかにモーツァルトも15,6歳頃には交響曲など書いてますが、それはほとんど演奏される機会のない、モーツァルトのなかでは人気のない曲です。
 それでもモーツァルトがきわめて若い時期から作曲をしていたという事実はありますが、それは彼の早熟性が理由というよりも、父親の英才教育の成果によって、若くしてあるレベル以上の技量まで習熟したためといえそうな気もします。つまり、モーツァルトほどの天才でなくたって、父親が子供に徹底的に英才教育をすれば、十代で交響曲を作曲するくらいにまではいくと思うのです。その後大成するかどうかは別の話ですが。
 よくいるでしょう。子供の頃は天才・神童と騒がれて、大人になったらただの人になるケースが。
 そうなるとモーツァルトを「早熟の」天才とするのは間違いで、別にそんなに早熟というわけではなかったんだという気がします。過剰に「若くして交響曲を書いた」とか早熟ぶりを煽るのは、やはり意図的に伝説化してるんじゃないでしょうか。

 それから、どうもモーツァルトについてけっこうヘンな伝説を広げているようにかんじるのが、例の『アマデウス』という映画(もとは劇)です。
 というのは、この映画がわるいとも単純にはいえなのですが、どうもこの映画は事実を誤解させる効果があるような気がするのです。
 いったい、あの映画を観たことがある人は、あの映画がどんな話だったかおぼえているでしょうか。才能のない二流の音楽家のサリエリが、天才で大音楽家のモーツァルトに嫉妬して殺す話だと思い込んでいる人はいないでしょうか?
 どうも、あの映画を観た人は、そう思い込んでいる人が多いようなのです。
 でも、これはとうぜん、天才の評価高い大音楽家のサリエリが、二流音楽家のモーツァルトに嫉妬して殺害する話なわけです。
 モーツァルトが二流なわけないじゃないかという人がいるかもしれませんが、当時の評価はそうだったわけです。当時の評価と後世の評価がまったく違うというのは芸術の世界ではよくあることでしょう。
 となると、ではどうして大音楽家のサリエリが二流のモーツァルトの才能に嫉妬するのか、動機が問題になるわけですが、あの映画をきちんと観るとその動機、殺意を抱くにいたるサリエリの心理も描かれているのがわかります。
 とはいえ、個人的にはそれでもやはりあの映画のモーツァルトとサリエリの関係は誤解されても仕方のないところがあると思います。というのは、どう動機を説明したところで、もともと大音楽家のサリエリが二流のモーツァルトの才能に嫉妬して殺すという設定に根本的に無理があるわけです。これが逆にモーツァルトがサリエリに嫉妬して殺意を抱く話ならいくらでも作れるわけですが、常識的に考えてサリエリにモーツァルトを殺す動機なんてあるわけないんです。
 その無理を通すためにあの映画はサリエリの心理を細かく描きこんでいますが、観てからしばらくたつとそんな細部は忘れてしまうもんで、さらにモーツァルトは天才でサリエリは忘れられた作曲家だという思い込みがあるものだから、二流のサリエリが天才モーツァルトに嫉妬したんだと間違えて記憶してしまうんだとおもうわけです。

 それに、あの映画に出てくるモーツァルトのハチャメチャな性格がありまして、これもモーツァルトはああいう人なのかというと、間違いともいえないのですが、そうともいいきれない面があるようです。
 というのは、どうもあれはモーツァルトが自ら道化役を演じていたからだという面がありそうです。
 モーツァルトが活躍していた時代には音楽家の評価はパトロンとの関係で決まるところがありました。といっても、もちろん大音楽家であればパトロンからの尊敬も得られるわけで、たとえばサリエリのような大音楽家なら椅子にふんぞりかえっていても充分な尊敬と評価を受けていたでしょう。
 しかし困るのは二流でありながら、なんとかこの道で生きていかなきゃならない人たちです。では黙っていたのでは才能・実力を評価してもらえない二流音楽家がパトロンにとりいるにはどうしたらいいかというと、自分から道化役を演じて、笑いをとってパトロンにとりいるのは手っとり早い方法なわけです。
 例えば二十世紀の例でいえば、初期のジャズマン、ルイ・アームストロングとか彼の世代のジャズマンにはかなり大道芸人的な資質をもった人が多いです。というのは、彼の世代においてはいくら天才的な才能と実力をもっていたとしても、黒人ミュージシャンが椅子にふんぞり返っていて白人の聴衆から支持されるような時代ではなかったわけで、そんな時代に音楽で食っていこうとおもったら、そういった芸人根性も必要だったわけです。
 そして、ルイ・アームストロングの同時代にも、たんにルイ・アームストロングらの演奏を下手くそにコピーしたような演奏しかできなかった白人ジャズマンはいまして、しかし彼らは椅子にふんぞり返っていても天才として評価されていたわけです。白人だからです。しかし時代が過ぎると、そうしたかつて天才として評価されていた白人ジャズマンは忘れられて誰も見向きもしなくなり、芸人根性を発揮しなければ音楽を聴いてもらえなかったルイ・アームストロングが天才として聴きつがれていくわけです。
 そういうもんでしょう。
posted by aruka at 01:05| Comment(1) | TrackBack(1) | オペラ、クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月13日

モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を見ておもったこと

 去年、このブログを書き始めた頃、ちょうど久々にクラシックを、それも初めてオペラというものを聴きはじめた頃だったのですが、しばらく聴いているうちにだんだん飽きてきてまた以前のとおりジャズ=フュージョンばかり聴くようになり、数カ月前から一回りしてまたオペラを聴きはじめました。

 今度はモーツァルトを聴きこんでみまして、いろいろとおもしろいことがわかり、モーツァルトというのはオペラを聴かないとわからないものだと実感しました。それも、できれば2、3種類以上の演奏を試聴したほうが良さそうです。というのも、一つだけだと、その演奏者・演出家の解釈のほうが見えてしまうことも多いようで、複数試聴することによってそれぞれの演奏の向こうに作者モーツァルトの意図が見えてくる気がするのです。
 思えばモーツァルトという人は伝説が多すぎてよくわからない人でした。例の早熟の天才説も、超人的な能力を宣伝するばかりでどんな人だったのかはわかりません。いっぽう映画の『アマデウス』あたりから出てきたとおもわれる、ハチャメチャな人のイメージもあって、これもこれでなんだかわかりません。(でも、よくみてみると、モーツァルトを早熟の天才とする説にも、あの『アマデウス』のイメージにも、かなり疑問があることがわかってきました。これは後日説明します)
 一方、モーツァルトという人の姿が見えてきたとおもったのは、先述したとおり彼のオペラです。とくに『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コジ・ファン・トゥッテ』のダ・ポンテと組んだ3作は、台本のほうもモーツァルトがかなり口を出していて、事実上共同制作だったようで、この3作を何種類かの演奏でみることでモーツァルトという人の姿が見えてきた気がしました。
 とくにぼくがモーツァルトという人の姿が見えてきたとおもったのは、最近、『ドン・ジョヴァンニ』を、例の有名なフルトヴェングラーが指揮したオペラ映画をみたときです。ぼくは『ドン・ジョヴァンニ』を最初、NHKのBS-2でやっていたハーディング指揮の舞台の映像で見たのですが、そのときはいまいちピンとこなかったのですが、今回みてみて『フィガロの結婚』から『コジ・ファン・トゥッテ』までつながった一本の線がみえてきた気がしました。といってもフルトヴェングラーのオペラ映画の演出のほうがモーツァルトの本来の意図にそったものだといいたいわけでもないのですが、複数の演出でみてみることによって、その奥の作者モーツァルトの意図がみえてきた気がしたのです。
 おもうに、モーツァルトという人はかなりアクの強い人物で、すごく大人だとおもいます。たとえばずっと長生きしたベートーヴェンと比べると、ベートーヴェンはモーツァルトよりずっと子供っぽい、より正確にいえば青年的な人という気がします。ベートーヴェンが「男とは、女とは、愛とはこうあるべき」などと青臭い理想を主張しそうなのに対して、モーツァルトは冷徹でリアリステックな視線で「人間とはこういうもの」と突き放して観察している気がします。どこか、うわついた理想などで曇らされていない絶望をとおりぬけたリアリズムをかんじるのです。

 どうして『ドン・ジョヴァンニ』を二種類の演出でみてそう感じたのかというと、どうも最初にみたハーディング指揮の舞台の演出は、主役のドン・ジョヴァンニという人を悪人というイメージで描こうとしていたように感じました。そして、そういう話だとおもってしまうとピンとこなかったのですが、フルトヴェングラーのオペラ映画でシエピの演技をみると、やはりカッコイイんですね。たぶんこっちのほうが本来の作者の意図で、やはりドン・ジョヴァンニはカッコよくて、さらにいえばコミカルじゃないといけないとおもったのです。
 そもそもモーツァルト自身はこのオペラを喜劇だといっているんですね。これを言葉どおりとらず、『ドン・ジョヴァンニ』は喜劇ではなく、モーツァルトのデーモニッシュな面が出た作品としている評論などをよく見るのですが、たしかにそういう面もあるものの、基本的にはやはりこれは喜劇だとおもうわけです。ドン・ジョヴァンニという公序良俗など笑い飛ばすようなカッコいいヒーローを主人公にしたコメディです。
 例えば主役のドン・ジョヴァンニに対してレポレロという従者が出てくるわけですが、これはドン・キホーテとサンチョ・パンサみたいなコンビなわけで、夢中に女を口説くジョヴァンニにレポレロがツッコミを入れていくという漫才みたいな会話も出てきます。
 全体としては、なんとなくアニメの『ルパン三世』に構図が似ているとおもいます。果てしなく追いかけてくるドンナ・エルヴィラはちょうど銭形警部のようなもんで、ここにもコメディの要素があります。ルパン三世がお宝を狙うのに対して、ドン・ジョヴァンニは女を狙うわけですが、さまざまな計略や手練手管でモノにしようとするところは同じです。つまり、ドン・ジョヴァンニはカネや権力・暴力で無理やり女を従わせる人ではなく、あくまで自分が行動して女を誘惑する人であり、いわゆる悪人のイメージとは違うとおもいます。
 ドン・ジョヴァンニを捕まえようと追ってきたマゼット率いる集団に、ジョヴァンニは逆に一緒にあいつを捕まえようと協力を申し出てしまって、集団を率いてテキト−に指揮してしまって煙にまくところなど、サスペンスというより、やはりギャグとしてみるべきでしょう。レポレロに身ぶり手ぶりだけさせて、セリフは自分が隠れてしゃべって、口パクで女を誘惑するところなんかも、典型的なギャグでしょう。

 それに対して、ドン・ジョヴァンニを悪人ぽくイメージさせるエピソードとしては、冒頭近くのドンナ・アンナとの一件、つまり強姦未遂から殺人といった行為を犯しているという点があるでしょう。
 でも、これも考えてみればはたして強姦未遂なのか、殺人なのかという点はあいまいです。ドンナ・アンナの件に関していえば、ジョヴァンニは無理やり犯そうとしたわけではなく、婚約者のドン・オッターヴィオに化けて誘惑しようと試み、それがバレたということで、その後の物語をみればドンナ・アンナはむしろオッターヴィオ以上にジョヴァンニに男性の魅力を感じるようになってしまいます。
 また、騎士長を殺した件に関していえば、これは騎士長のほうが先に剣を抜いたために、ジョヴァンニも騎士のプライドとしてこれに応じて決闘になり、結果ジョヴァンニが勝ってしまったために殺してしまったわけで、これを一般の意味で殺人としてみると、むしろ正当防衛の要素もみてとれないわけではないです。なにより、ジョヴァンニが犯した決定的な罪ともいえるこのシーンを、しかしモーツァルトはさほど劇的に盛り上げてなく、簡素な音楽しかつけていない点に作者の意図をみるべきでしょう。

 では、なぜぼくがジョヴァンニをコミカルなヒーローだとみるのかというと、その理由は、彼が公序良俗を超えた存在だからです。
 『フィガロの結婚』から『コジ・ファン・トゥッテ』までを視野にいれてみれば、モーツァルトのオペラにおいては、公序良俗、こうあるべきといったきれいごとや道徳、あるいは権威といったものは、つねに嘲笑される対象になってます。男女の関係はこうあるべき、愛とは清らかで美しいものであるべき……などと口先だけのきれいごとを並べていても、ほんとうは人間はこういうものだろ! と冷徹なリアリズムをつきつけ、世間の人々がいっているきれいごとを笑いとばしていくのがモーツァルトのやり方でしょう。
 だからこそ、世間の道徳・公序良俗といったものを超えて行動するドン・ジョヴァンニは、カッコいいヒーローでなければならないわけで、公序良俗に縛られた世間を笑いとばす者でなければならないわけです。

 そんなドン・ジョヴァンニがいきなり破滅するのがこのオペラのラスト・シーンなわけですが、しかしみているとドラマが彼の破滅へむけてなだれ込んでいくのではなく、このラストはまるでとってつけたように唐突な印象ががします。
 おもうのですが、このオペラのラストは当時の世間への妥協だったんじゃないでしょうか。このドン・ジョヴァンニのようなヒーロー像が当時の社会に受け入れられるとはおもえず、いちおう形だけ勧善懲悪の物語のラストのようにしたようにおもえるのです。
 なんていうか、このラストはどこかヘンなのです。
 最後の場面ではドンナ・アンナやオッターヴィオらが悪は滅んだと合唱するのですが、そもそも彼らは悪を滅ぼしたわけではなく、勝利なんてしていません。ジョヴァンニがいなくなったのは突然夕食の席に石像があらわれて地獄につれていってしまったからです。
 さてこの物語の後、彼らはどうするんでしょうか? ドンナ・アンナは秘かに魅かれいたジョヴァンニが滅んだ後、男性的魅力をかんじないオッターヴィオとしあわせに暮らせるでしょうか? ほんらい物語のセオリーからすれば、ドンナ・アンナとオッターヴィオが協力してジョヴァンニを倒し、その活躍ぶりからドンナ・アンナはオッターヴィオを見直し、抱き合ってエンディングというのがこういった物語のパターンで、そうすればいわゆる勧善懲悪の物語としてまとまるわけですが、そのパターンをわざと外してあります。
 ドンナ・エルヴィラはこれからは修道院に入って静かに暮らすといいますが、それくらいならジョヴァンニを追いかけまわしていたほうが楽しくてよかったんじゃないでしょうか。ルパン三世に死なれて途方にくれている銭形警部のようなかんじがします。

 実をいうと、この唐突なラストをみて、ぼくが真っ先に連想したのは1930年代末の日本映画です。『人情紙風船』とか『春秋一刀流』とかの名作です。
 これらの映画はコメディで、登場人物たちが権力者をあざ笑うかのような自由さで大活躍するのですが、ラスト近くになって急に追いつめられて状況に陥ってしまい、絶望的なエンディングを迎えます。それまでの自由な活躍ぶりからいって、唐突なまでに絶望的状況に陥ってしまうのが、異様な印象をあたえるのです。
 彼らが何でそんな映画を作ったのかといえば、当時の第二次世界大戦に突入しようとしていた日本の状況が影響していたとみるのは容易です。
 おそらく『ドン・ジョヴァンニ』がこんなラストになったのは、当時のモーツァルトの周囲に何かそういうラストを作らせるような状況があったんじゃないかとおもわれます。それが何だったのかはまだわかりませんが。
posted by aruka at 21:04| Comment(1) | TrackBack(0) | オペラ、クラシック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月12日

(題詠100題2007観賞)012:赤



生きたいと望めど身体めぐる血が赤くなかった最後の三日        (遠山那由)


捨てられて椰子の根もとに埋められた赤ん坊そろそろ二十歳だろうか   (野樹かずみ)




 この題はいいとおもうものが少なかったのですが、いちおう2つ選んでおきました。
 遠山那由さんの作品は、11〜20番までの作品が連作となり、最近亡くなった友人のことを書いたものだそうで、そのうちの一つです。凝ったレトリックなどなにもなく事実をストレートに書いたものですが、事実に圧倒されました。実は連作の他の作品ではレトリックもあったり視点が工夫されていたりするのですが、そんなことを何もしないで正面から事実だけを記述したこの作品が一番いいとおもいました。こういう場合はみょうに文学的に凝ったりしないで、事実を刻みつけていくことがいいのでしょう。
 野樹かずみさんの作品はありえないような話ですが「椰子の根もと」とくるところが味になっています。南国的で、おそらく民俗的な世界へもっていってるかんじです。
posted by aruka at 00:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(題詠100題2007観賞)011:すきま



さようなら セーラー服のすきまからこぼれ続ける子犬のワルツ      (橘 こよみ)


カフェオレのようなコーヒー飲みながら そうね、あなたはすきまが怖い  (つきしろ)




 いよいよ近づいてきた締め切りにむけて、いま「題詠2007」のブログには続々作品がアップされているようなんで、締め切ってからやったほうがいいかなと思いつつも、やはり少しづつ観賞を続けていきます。

 橘こよみさんの作品には清涼なかなしさをかんじます。小さな頃からピアノを習っていて、ショパンも上手に弾きこなすような女の子ってクラスに一人くらいいたりするもんですが、かといってプロのピアニストになるなんてことはまずないもので、たいていの場合、大人になるにしたがってピアノも弾かなくなり、むかしピアノが得意だったふつうの人になっていくものです。そんな美しいはかなさを感じました。
 つきしろさんの作品は、ほとんど何の説明もされてなく「あなたはすきまが怖い」とくるところに問答無用の迫力をかんじました。
posted by aruka at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月09日

穂村弘『短歌という爆弾』

 穂村弘の『短歌という爆弾』という本がブックオフで105円で売っていたので、買ってきて読んでみました。じつはあまり期待していなかったのですが、これはおもしろかったです。しかしそれは短歌の入門書としておもしろいというのではなく、穂村弘という奇妙な人間を描いた診断書みたいなおもしろさをかんじたのです。
 以前、ネットで短歌関係のサイトをあちこちいいかげんにサーフィンしているとき、たしか藤原龍一郎さんが(間違っていたらすいません)こんな批判をしているのを読みました。それは「穂村弘の短歌はすべて既成の元ネタがあり、自分はその元ネタがすべてわかる。そういう目でみると穂村弘の短歌はたんにその既成の元ネタを短歌の定型にあてはめただけのものにすぎず、オリジナルの部分がまるでない。自分はそのような作品とも呼べないようなものを評価することはできない」というような内容だったとおもいます。
 ぼくとしては世代が違うせいか穂村弘の短歌の元ネタはぜんぶはわからず、引用なのかオリジナルなのかわからない部分が多いので何ともいえないのですが、そういうものなのかとおもっていました。
 しかしこの本を読むとその批判は間違っていないとしても、その理由はふつうの人が想像するのとは違う事情のようです。
 ぼくは前半は飛ばして、3の「構造図」の章から読みはじめたのですが、この部分の最初のほうで穂村弘は自分の短歌はすべて既成の事物・フレーズのパッチワークにすぎないことを認めています。しかしそれはふつう人が想像するように、自分のオリジナルではいい作品がつくれないために既成のものをパクッたという話ではなく、そもそも穂村弘には自分という主体が無い・ひじょうに希薄であるために、自分のオリジナルな言葉を話す・書くなど不可能であり、かわりに出来合いのものを寄せ集めてきてパッチワークをつくり、そのパッチワークを「私」だといって差し出すよりほかなかったということのようです。
 そのパッチワークで埋め込んで「私」をつくりだすための容器として短歌の定型がちょうどよくて、そのために短歌が必要だったようです。

 オリジナルなものでなく、出来合いのものを自分の作品だといって差し出す方法論はマルセル・デュシャンに始まります。文芸の分野においてはドナルド・バーセルミが嚆矢でしょう。そこには近代以後信じられてきたオリジナリティという神話を否定しようとするクリエイターのコンセプトがあります。
 その点でいうと穂村弘がしたことは短歌としてオリジナリティがないばかりか、方法論としてもオリジナリティがなく、つまりあらゆる点において真似でしかありません。
 しかし、デュシャンにしろバーセルミにしろ、そのような方法論をとる背後にはクリエイターの主体があり、彼が意識的にそんなコンセプトを選びとったという意志があります。
 しかし穂村弘の場合、はっきりした「自分」というものがそもそもがなく、そんなコンセプトを選びとるという意識もなにもなくて、そんなふうにしてしか生きていけない主体であるというところが違っているとおもいます。
 それは幼児が他人の真似をしてみながら自分というものを意識していく段階(ラカンのいう鏡像段階とかナントカ、そんなのがあったように記憶してますが)あたりで意識の成長が半分止まってしまったような事態で、穂村弘の短歌に幼児的な印象をうける理由もわかったような気がしてみました。たぶんある種の病人なのかもしれませんが、クリエイターなんてたいていどっか病的な部分をもった人だともいえるでしょう。

 カート・ヴォネガット,Jr.の短編で、素人芝居の役者を主人公にした話がありました。
 彼はある芝居の練習に入ると、プライベートでもその役になりきって生活します。その役に完全になりきれるという点で彼の演技力は定評があります。ところがその芝居が終わり、次は何を演じるか決まっていない状態になると、彼は困ってしまいます。つまり、彼は何らかの役になりきってしか生活できないのです。その役を演じる必要がなくなり、自分本来の姿でいていいといわれると、どうしていいかわからなくなってしまいます。彼は「自分」として生きることができないのです。そして次の演目が決まり、彼の演じる役が決まると、彼は嬉々として今度はその役になりきって生活するようになります……。
 どうもこの話はたんなるフィクションでもないようで、たぶん穂村弘という人におきているのも、このような「自分」の空洞化ではないでしょうか。
 そうかんがえると彼が『手紙魔まみ……』という作品を書くようになっていった理由も、べつの意味が見えてきた気がします。
 これはどっかで言われていたような物語的な手法を導入した連作などといったものではなくて、自分が空洞で、そこをパッチワークで埋めることしかできなかった人間にとって、別の人間になりきって演じるということは、すごく安心することなのかもしれません。

 さて、しかし、そうみるとこの『短歌という爆弾』という本の後半の大部分は異様な雰囲気をかんじます。
 ここでは穂村弘は「他者とは違う自分」とか「一回かぎりの人生の真実」とかいうような、いわば短歌型のパッチワークしか作れないパッチワーク人間の穂村弘とはまったく相容れない場所ばかりから短歌のことを語ろうとしているからです。
 筋からいけば、穂村弘の短歌作品に意味があるとすれば、それはこの本に書かれているような価値観を否定したところにあるはずです。逆にこの本に書かれているような短歌論が正しいとすれば、穂村弘の短歌は否定されなければなりません。
 ひょっとするとパッチワーク人間である穂村弘氏は、ここでも自分の言葉で自分で考えた短歌論を書いているわけではなく、いろいろな場所で読んだり聞いたりした短歌論のパッチワークを書いてみせているだけなのかもしれません。


 さて、穂村弘の『シンジケート』は一時期は若い世代にたいへん人気があり、影響も与えた歌集なんだそうです。ぼくはまったく知らなかったもののこの本もブックオフで105円で買ったので、たぶん部数もある程度出てるのかもしれません。
 では、この人気や影響力というのはなぜだったのかという点に興味がひかれます。既成のもののパッチワークというのはそんなに魅力的なものなのかという点です。というのは、ぼくはデュシャンは好きなのですが、彼のいわゆるレディ・メイド作品の場合、ぼくが魅力をかんじるのはやはり作品そのものというより、そのようなことを行った彼のコンセプトにこそ魅力をかんじるからです。そのコンセプトの部分をとってしまった場合、はたしてトイレの便器やモナリザに髭を描いたような作品にたいして、純粋な美術作品として魅力をかんじるかといわれれば、かなり否定的にならざるをえません。(そうおもうのはぼくの価値観にすぎませんが)
 しかし穂村弘の場合はコンセプトなしのパッチワーク作品なわけです。はたしてそういったものが魅力的な作品でありえるのかという点に興味がわきます。
 まず、穂村弘のおこなったパッチワークがどのようなものなのか、実例を示したいのですが、先に書いたとおりぼくは世代が違うせいか出典があまりわかりません。すべてわかる……とばかりいってないで、わかる人は実例を示してほしいものですが、仕方ないのでぼくがわかる範囲でいきます。


新品の目覚めふたりで手に入れる ミー ターザン ユー ジェーン     穂村弘


 この歌の後半はかろうじてぼくでも出典がわかったものの一つです。
 この「ミー ターザン ユー ジェーン」という部分はフィリー・ソウルのグループ、イントルーダーズの70年代半ばのヒット曲のタイトルです。「ぼくはターザン、きみはジェーン、ぼくらはジャングルに棲んでるんだよぉ〜」というような曲です。しかし、ぼくはたまたま音楽ファンで、それも過去にさかのぼって聴くのも好きなファンで、一時期黒人コーラス・グループをあれこれ聴いてみたことがあるんで知っていましたが、たぶん70年代半ばにまだ洋楽を聴く年齢に達していなかった世代ではイントルーダーズの曲のタイトルを知っている人はほとんどいないでしょう。これがビートルズやビーチボーイズの曲だったら世代をこえて知られている可能性は大きいのですが、イントルーダーズはもっとマイナーです。
 しかし、「ターザン」なら世代をこえて誰でも知っているでしょうし、ターザンの恋人の名が「ジェーン」だとを知っている人もけっこういそうな気がします。となると「ミー ターザン ユー ジェーン」というのは何を言いいたいのか、イントルーダーズを知らない世代でも意味はわかるはずです。けれど、なんでここだけ英語のカタカナ表記になってるのかは、これがイントルーダーズの曲のタイトルであることを知らないとわからないはずです。
 他がよくわからないので、ごく少数の例から類推するしかありませんが、たぶん穂村弘の引用のしかたというのは、このようなものなのでしょう。
 さて、では穂村弘より若い世代の読者の目にはこの部分はどう映るんでしょうか? たぶん、たいていの人は「意味はわかるけど、ちょっと不思議で、意味ありげ」というふうに感じるんじゃないでしょうか。「ターザン」や「ジェーン」は知っているから意味はわかるものの、なんで英語のカタカナ表記になってるのかわからず、しかしそうしてあることに意味がありそうだということは感じとるからです。
 これはぼくの想像にすぎませんが、穂村弘より若い世代の読者に穂村弘の短歌が魅力的にみえたのは、この「意味はわかるけど、ちょっと不思議で、意味ありげ」というかんじが心地よかったからなんじゃないでしょうか? なんだか理由のわからないちょっと謎めいたものは魅力的にうつるからです。
 しかし、出典を知っている人間にとっては少しも不思議でも意味ありげでもなく、たんなる引用にしかみえません。それは若い世代が「不思議で意味ありげ」に感じる理由は、たんに穂村弘がパッチワークに利用した前世代のサブカルチャーを知らないためであり、それを知っている人間からすると穂村作品に謎めいた部分などまるでなく、「あれ」を短歌の定型にあわせただけだとみえてしまうからです。となると、出典を知っている世代には穂村弘の短歌は魅力的にみえないわけです。
 というのがぼくの推論ですが、どうなんでしょう。
posted by aruka at 23:35| Comment(1) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月04日

ネット短歌の盛り下がりを喜ぶ

 いまネット短歌の世界は盛り下がっていて、ネットで短歌を書く人の数は減りつづけているんだそうです。複数の場所でそんなことが書かれているのを見ました。
 それを知って思わず、「やっぱりな、ザマーミロ!」と心のなかで叫んでしまったのはぼくだけなんでしょうか?

 ぼくは二年ほど前くらいふと思い立って、ネットで短歌など書きはじめたのですが、短歌の世界を少しづつ知るうち、「なんで?」という疑問符の連続でした。
 短歌なんて、誰でも書けるものなんで、誰だって気軽に入っていけるのかとおもえば、みょうに閉鎖的な雰囲気があり、あちこちで自分たちだけの集団を作って閉じている。しかもその集団内で年功序列による固定した上下関係というのがあるらしく、雑誌などに作品がよく載るのはその序列で上位にいる先生ばかりらしい。たった31字前後しかない形式なんで、その枠内なら何をやってもいいのかとおもえば、やたらに「こうしないといけない」とか「こうじゃないといけない」と決めつけたことを言う人が多い。その結果できあがった作品をみれば、小さくまとまってしまっていたり、何を言いたいんだかわからないのが多くて、けっきょく、つまらない。しかし、大センセイが書いた何を言いたいんだかわからない作品はみんなが絶賛している。じゃあ、その作品はどういう意味なんだろうと知りたくて内容を解説したものを読んでみると、解説者の数だけ内容があるというかんじで、つまりみんな自分勝手に自分流の解釈をしているだけで、結局のところわからない……。
 そんなことのくり返しでした。
 なんでもっと、何でもアリにして、おもしろければ新人でもどんどんピックアップしていかないのか、つまらない作品や理解不能な作品は批判されないのか、わかりませんでした。
 わからないので評論のたぐいを読んでみると、それはもっと意味不明で、短歌以外の世界で一般常識とされているはずの前提が踏まえられてなかったり、そもそも理屈のつじつまも合ってなかったり、どうしてこれが? と思うものが名著扱いされていたり……。
 そういう歌壇へのアンチテーゼとして枡野浩一とかが投稿ブログをやっていたのかもしれませんが、これはこれでまた別の窮屈な価値観のベクトルがあるようで、それほどおもしろいともおもいませんでした。たぶんこれは(内容は全然知らないので間違っているかもしれませんが)かつて糸井重里が「萬流コピー塾」とかいうのをやっていたようで、マスノ短歌というのは実は短歌というよりそういったものの後継だったんじゃないでしょうか。
 つまりこういうのは投稿者がおこなう参加型のオアソビなんじゃないでしょうか。べつにそれが悪いという気はまったくないのですが、個人的にはそれほど興味はかんじなかったわけです。

 つまりは、ほぼ31字で書かなきゃならないという大きな制限があるからには、その他にはそんなに細かいルールはなくて、何でもアリで自由にやれるジャンルかとおもったら、やたらに細かい決まりばかりがうるさくて、上下関係が厳しくて、エラい先生の言うことはワケのワカラナイことでも絶賛しなければならないような雰囲気で……、そういったこと外れるとまともに評価もされないような、古臭いお稽古ごとのような窮屈なジャンルなんじゃないかと感じることばかりでした。

 じゃあ、なんでおまえはそれでも細々とネットに短歌を書いてるのかといえば、それでもほんの少しのおもしろい出会いがあったからです。
 一番大きかったのは、中井英夫の『黒衣の短歌史』を読んだことだと思います。中井英夫は『虚無への供物』の作者としては知っていたので、短歌の本なんて書いてるのか……とおもって読んでみたわけです。
 で、これは面白かったです。まず中井英夫の評論も、短歌の世界を知らない人間でもよくわかり、おもしろいものだったのですが、それだけでなく、この本にピックアップされて載っている短歌作品もおもしろかったわけです。じっさいここに載っている歌人の作品は現在でも名作とされて本屋で売られているものばかりです。なんだかんだいって、この本を読んだんでぼくはなんとなく短歌を書き続けている気がします。

 しかし、この『黒衣の短歌史』に取り上げられている歌人は当時はみな新人でしょう。当時の歌壇でエライ人だったわけではなく、現在であれば雑誌にとりあげられることもなく、埋没するしかなかったような人たちでしょう。かといってマスノ短歌の投稿欄のような場でウケるタイプの作品ともおもえません。そんな無名の新人の作品のなかから、中井英夫が自分の価値基準ですぐれた歌人・作品を見出して、ピックアップしているわけです。
 たぶん、いまの短歌にもっとも欠けているのは、この中井英夫のようなことをする人なんじゃないでしょうか。
 短歌の世界の住人いがいの人にも理解可能な言葉で短歌のことを語ってくれ、すぐれた作品は無名新人の作品であってもピックアップして紹介してくれるような人です。

 というのも、これは「題詠100題」を観賞しての実感なのですが、短歌人口が減ってるとはいっても、現在書かれてネットに発表される短歌の数は膨大です。「題詠100題」のブログに発表される作品の数だけでも膨大であり、それぞれの作者のブログに行けばさらに数多くの短歌が載っています。さらに、ぼくは読みませんが短歌関係の雑誌、ぼくは入ってませんが短歌結社の機関誌や同人誌などを含めれば、とてつもない量の短歌が日々書かれ、発表されていることでしょう。
 しかも、ぼくの目で見たところ、その膨大な量の作品の、少なくみても90%以上はつまらないわけです(ほんとは99%以上といいたいくらいです)。それは必ずしもその作品がデキが悪いからということではありません。それぞれの読者によって価値基準や嗜好の違いがあるのは当然のことで、誰だっていいとおもう作品の傾向は違うものでしょう。実際、現在出版されている小説にしたって、ぼくはその90%以上には興味がなく、興味があるものだけ手にとるわけです。これは誰だってそうなんじゃないでしょうか。
 しかし短歌のばあい、では、自分が読みたいタイプの作品を読みたいとおもったとしても、選ぶ方法はありません。
 とりあえず一通り読んでみて、いいと思えるものを探せばいいとおもっても、作品の量が膨大なんで、一人の人間がその全部にひととおりでも目を通そうとおもったら、ほとんど苦行に近い状態になるんじゃないでしょうか。
 では、雑誌であれば、ネットとは違って掲載される作品は編集者によって精選されてるんじゃないかと期待しても、どうも現在の短歌雑誌に掲載されるのはぞれぞれの短歌結社で高い地位にいる人の作品ばかりであり、ほとんど年功序列の状態だという話です。
 こういう状態であれば、読者は短歌を読もうとおもったら、つまらない作品をひたすら読みつづけ、そのうちに少しくらいおもしろい作品と出会えることを期待するしかありません。しかし、そこまで暇な読者というのもほとんどいない筈で、たいていつまらなさにあきれて、読むのをやめるでしょう。

 かつての中井英夫のように優れた批評眼で膨大な作品のなかから優れた作者や作品を見出し、「これがいい」と紹介してくれる人っていないもんなんでしょうか。
 そうでなくても膨大な量の作品を、なんらかの方法で整理して、優れた作品をピックアップしていく方法ってないものなんでしょうか。

 もしかしたら去年までやっていたという「歌葉賞」というのはそういう試みだったのかもしれませんが、ネットにも掲載されているこの賞の選考状況の様子を読んでみると、しょーもないことばかり面白がっていたり、枝葉末節なことばかり指摘していたりで、つまらないことを理由に選んでいるんだなという感想しか抱けませんでした。じっさい「歌葉賞」を獲った作品というのを読んでみると、そうおもしろいともおもえません。
 もちろん、そんな感想を抱いてしまうのは、ぼくが短歌を見る目がないからだといわれれば、その通りかもしれません。というか、いままでぼくはそうおもってました。
 でも、彼らがそんなに魅力的な歌人たちだというのなら、「歌葉賞」出身の歌人たちが活躍しているはずの現在、なんでネット短歌が盛り下がるんでしょうか? ネット短歌の人口が減るんでしょうか?
 かつて中井英夫が寺山修司や春日井建、浜田到らの新人を世におくりだした時のように、新しい読者を生み出す結果になぜ結びつかないんでしょうか?

 短歌を書きはじめてからずっと、自分の感性はかなり少数派なんだとおもっていました。なんでつまらない短歌ばかり読まされるのか、なんで有名な短歌の評論や入門書がぼくには理解不能なのか、なんで「歌葉賞」受賞作品はつまらないのか、こういう世界を理解できない自分の感性ってかなりヘンなんじゃないかと思いつづけてきました。が、ネット短歌が盛り下がっていると知って「やっぱりな、ザマーミロ!」と思ってしまいましたね。
 やっぱり、けっこう多くの人がぼくと同じ感想をもってるんじゃないかな。
 いまの短歌の世界はワケがワカンなくて、つまらない……って感じるのは、けっこう普通の感性なんじゃないかと、自信がもててきました。
(もっとも、それをつまらないと感じる人が、それならぼくと同じものをおもしろいと感じるのかというと、そうともいえなでしょうけど)

                     ★

 最後に。なんだか、現在の短歌はつまらないということばかり書いてきたんで、ぼくがおもしろいと思う短歌を引用しときます。中井英夫の『黒衣の短歌史』で知った歌人から浜田到の短歌を少し。


森に雪ふれば〈在る〉ことの罪あざやかな夜を眠りをはりたし         浜田到

脈細り少女ほろびしかば春の硝子にも映らずなりて吾につれそへり       浜田到

石の街に微笑みにじませ一滴の油彩のごとき短き生すぎぬ           浜田到

墓地の空流れてゆける夜の雲に白き手套をひとはめをへぬ           浜田到

ほのぐらき靴の中にして近づき行けば太陽のみが居たり父の死ぬ村       浜田到


 もう数十年前の作品なんで古いといえば古いんでしょうが、やはりここにはいまも古びない「詩」があると思いますね。現在の短歌のほとんどはこのような「詩」の境地は目指そうとすらしていないでしょう。べつにすべての歌人が同じようなところを目指す必要はないのですが、ではそれにかわる何か別の魅力なんてものがあるのか、ぼくにはわかりません。
posted by aruka at 01:37| Comment(8) | TrackBack(1) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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