2007年09月30日

萩原朔太郎を読んでておもったこと

 どうも最近になってようやく萩原朔太郎登場の意味っていうのが少しづつわかってきた気がしています。というのは、本など読んだところによると、萩原朔太郎というのは口語による詩を定着させた人といった説明がされていて、そういうものかのおもっていました。しかし、そういう目で読んでみると、『月に吠える』や『青猫』あたりでさえ少し文語表現もみられます。それでも、それ以前の新体詩などとくらべればずっと口語的といえるのでしょうが、でも「口語自由詩」の創始者という目で見てしまうと、なんだか中途半端じゃないかという気が、ずっとしていました。
 それでも詩の内容が優れているのだから、それでいいじゃないかといわれれば、それはその通りなんでしょうが、本など読むとあきらかに萩原朔太郎というのはその登場によって時代が変わった人という説明がされていて、たんに優れた詩を書いた人ということじゃないように思えるわけです。
 では、萩原朔太郎の口語が口語として中途半端なのであれば、萩原朔太郎はいったい何を大きく変えたのか、それがわからなかったわけです。
 で、最近おもっているのは、どうも萩原朔太郎の詩は口語を使ったという点よりも、むしろ文語によるは因習的な修辞法とでもいうようなものを否定したことに意味があったんじゃないかということです。

 ぼくが因習的な修辞法と呼んだものを説明します。
 以前、このブログで筑摩書房の日本文学全集の『現代詩集』の巻についた篠田一士の解説を読んだときのことを書きました。島崎藤村の『若菜集』の「初恋」の二連め、

  やさしく白き手をのべて
  林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に
  人こひ初めしはじめなり

 このうちの前半の二行、白い手と林檎の鮮やかなイメージはこの時代の日本人が獲得した新しい感性の産物であり、しかし後半の二行は因習的な修辞であり、たんに伝統的に使い古された言い回しを踏襲したにすぎない……と書かれていたことを紹介したのですが、ぼくがいう因習的な修辞法とは例えばこんなものです。
 といっても、以前これを書いたときは、この後半二行に因習的な修辞(言い回し)がみられる理由は、島崎藤村がそんな因習的な修辞から自由になれてなかったという程度におもっていたのですが、どうもそうでもないような気がしてきました。
 上の4行を「呼-応」の関係でみてみると、たぶん前半2行が「といかけ」であり、後半2行がそれに「こたえ」ている部分だと思います。この、後半2行が因習的ということは、つまり新時代の「といかけ」に対して、古くからの因習で「こたえ」ていることだとおもうわけです。つまり、新しい「といかけ」に対して、新しい「こたえ」を出すわけじゃない。「こたえ」は古くから決まっている因習的なものであり、どんな「といかけ」に対しても旧来の、むかしから用意されている「こたえ」でこたえるわけです。
 なぜそうなるのかというと、多分そうすることによって読者は納得し安心する、詩としての安定感が得られるためだと思うのです。
 これはあまりいい例ではないのかもしれませんが、例えばテレビドラマの「水戸黄門」を想像するとわかりやすいかもしれません。つまり「水戸黄門」ではラストシーンははじめから決まっているわけで、水戸黄門が印篭を出すと悪人たちは「ははーっ」とかいって土下座するわけです。このラストシーンに対して、毎週前半の設定・ストーリーが足され、新しい悪人が出てきます。これはあきらかにラストシーン(「こたえ」)は以前から決まっている因習的なもので、それに対して次々に新しい前半(「といかけ」)が出てくる構造です。
 こういうドラマをワンパターンと非難するのは容易ですが、視聴者はあきらかにそのワンパターンを望んでいるのであり、つまり前半がどんなストーリーでありどんな悪人が出てこようとも、どんなに斬新で見慣れないタイプの悪人が登場してきたとしても、最後に水戸黄門が印篭を取り出し、その悪人が「ははーっ」と土下座すれば、視聴者は納得して安心し、今回の話が終わったという実感を得るわけです。だから、そう簡単に否定できるものでもありません。
 島崎藤村の新体詩の後半2行が因習的というのも、おそらくそういう効果があったんじゃないかと想像できます。つまり、前半2行がいかに斬新な、新時代の感性をもったものだとしても、そこから後半2行の因習的な修辞(言い回し)へもっていけば、読者はそこで安心して、詩の一連が終わったという感じがする、という効果をねらっているとおもうのです。
 もちろん、先に「水戸黄門」の例をあげたとおり、このような因習的な修辞法のようなものは、文語詩特有のものではなく、口語詩にだって、他のたいていの創作物に存在します。つまり、最後にここにもっていけば安定して終わった感じになるという決まりパターンのようなものです。
 たとえばJポップを聴いていれば歌詞にもそのような決まり文句があるのがわかるし、コード進行やメロディにもそのようは一定のパターンがあるのがわります。
 では、それを否定するということはどういうこなんでしょうか。
 それは実際に萩原朔太郎の詩を見ながら説明します。『月に吠えろ』の冒頭近くにある「竹」をみてみましょう。


  竹
      萩原朔太郎

ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。


 これで全文ですが、たぶんこれを最初に見た当時の人って、けっこう異様なものに感じたんじゃないでしょうか。なんだかわからない、みょうに不安感をかんじるような。
 例えばラストですが、途中で途切れているように感じる人はけっこう多いんじゃないでしょうか。つまり、詩の最後の部分に、ここで終わっているという安定した実感がないのです。一応、2行めが最後に繰り返されてラストを形成しますが、それでもプツッと切れたような印象があります。つまり最後の部分で、因習的な修辞(言い回し)の内に着地してないわけです。
 さらにいえば詩全体にも、せきたてられるような、みょうに高いテンションが感じられ、不安に揺れ動いているかのようで、島崎藤村の詩のような安定感がありません。それはもちろん藤村の詩の七五調のような律がないことも理由でしょうが、それよりも「といかけ」に対して、見慣れた、安心できる「こたえ」が用意されてないことが理由じゃないかとおもいます。つまり因習的な修辞(言い回し)に着地していないわけです。

 おもうんですが、もし萩原朔太郎の詩の価値が、初めて口語を使用した詩というにとどまるのなら、萩原以後に書かれた多くの口語詩のなかに埋もれていたんじゃないでしょうか。だいいち、口語の使用という点に関していうならば、萩原朔太郎は『月に吠える』『青猫』においても文語が混じっていて中途半端であり、彼以後にはかんぜんに口語を使用した、つまり、さらに先へ進んだ詩が書かれているからです。
 やはり萩原朔太郎の詩の意味は、口語の使用という点より、因習的な修辞を否定したという点にあるんじゃないでしょうか。
 なぜなら、『月に吠える』が書かれた時点においては、因習的な修辞(言い回し)というのは文語表現のものだったのかもしれませんが、口語による詩が一般的に書かれるようになれば、すぐに口語表現による因習的な修辞(言い回し)が生まれるからです。そうなれば、誰だって、その因習的な言い回しを「こたえ」として使用することによって、安定感のある口語詩が書けるようになります。
 じっさい、現在のポップスの歌詞などをみてみれば、水戸黄門の印篭のように登場してくる因習的な修辞(言い回し)は容易に感じとることができるでしょう。
 つまり、口語詩であっても、どんなに「といかけ」が新しくなっても、むかしながらの「こたえ」を持ち出してきてしまうのです。そうすることによって安定した納得感が得られ、きちんと終わったかんじに着地できるからです。逆にいえば因習的な修辞(言い回し)を否定することは難しくなります。

 では因習的な修辞(言い回し)を否定するということにはどんな意味があるのでしょうか。
 また「水戸黄門」の例を出しましょう。水戸黄門は印篭を見せて悪を倒しているようにみえますが、実はあれは倒すことで敵を悪であると決めつけている行為なのです。というのは、現実では善と悪というのはそれほどハッキリ分かれるものではありません。例えば悪代官に菓子箱入りの小判をわたして商業の活性化をはかる越後屋の論理が間違っていて、権力をかさにきた水戸黄門が正しいとは、かならずしもいえません。
 しかし、ほどんどの人々は自分が信じてきた価値観を疑いたくないのです。それを疑うことは不安でおそろしいことだからです。だから悪だと信じてきたものを悪だと決めつけたい、正しいとおもってきたものを正しいと信じたいのです。そこから生まれるのが因習的な価値観です。
 つまり、視聴者は水戸黄門を正しいと信じたいがゆえに、悪人を悪だと信じたいがゆえに、水戸黄門が印篭を出したとき、悪人が「ははーっ」と土下座してくれれば安心し、納得するのです。
 因習的な修辞(言い回し)というのもこれと同じ意味をもちます。つまり、どんな「といかけ」にたいしても、古くからの因習的な修辞(言い回し)で「こたえ」てあれば、それで安心して納得し、安定感をかんじます。その「こたえ」がずっといままで信じてきた古くからの「こたえ」だからです。
 しかし、言ってしまえば、新しい事態に対して古い「こたえ」を持ち出して自分を納得させてしまうのは、つまり新しい事態から目を逸らしたいがための「ごまかし」にすぎません。
 実際には世の中には古い「こたえ」では処理できない新しい事態なんていくらでもあるし、そもそも「こたえ」なんて無い事態だってあるんです。それには新しい方法で対処しなければならないし、対処したって「こたえ」なんて出るとはかぎらないのです。
 つまり、因習的な修辞(言い回し)による「ごまかし」は所詮そのばしのぎのものにすぎませんが、萩原朔太郎が剥きだしのまま差し出してみせた不安感や、「こたえ」のない「といかけ」は、そのばしのぎの「こたえ」でごまかしていないだけに、いつまでも新鮮であり得るのです。
 たぶん、それが萩原朔太郎が時代を変えたといわれる理由なんじゃないでしょうか。
posted by aruka at 00:32| Comment(0) | TrackBack(1) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月25日

(題詠100題2007観賞)001〜010 まで観賞してみて

きよらなるあを染み透るまだなにも殺してをらぬひと日の始め     (萱野芙蓉)


いかほどの悪意であらばゆるさるる使ひ魔として夜に放つ蝶      (萱野芙蓉)


週末の水ぎはできく鳥の歌、身投げそこねし娘のはなし        (萱野芙蓉)


蜻蛉をひき裂いたこともあるのでせう かうして握りあふこの指で    (萱野芙蓉)

              蜻蛉:とんばう




 いちおう10番までのお題までの観賞が終わりました。まだ作品が提出されている最中の企画ということで、以後はゆっくりやろうかとおもっています。
 観賞してみてまず感じたことは、この観賞方法だととりあげにくい人がいるということです。それが上にあげた萱野芙蓉さんの作品です。
 ぼくは基本的に気になった作品を見つけたばあい、なるべくその方のブログへ行って作品を読むようにしていたのですが、萱野芙蓉さんの場合、ブログへ行って作品をまとめて読むとかなり強烈な印象がありました。しかしそのお題につき一首づつとりあげ、他のかたの作品と並べてみると、みょうに印象が薄くなってしまうのです。
(たとえば4首めの「蜻蛉」の歌を上の3首の後に読むと作者のなみなみならぬ世界観が打ち出されているように見えますが、一首だけ読むと恋人にじゃれている女の子の言葉のようにも見えませんか?)
 こういうことは当たり前のことで、同一作者の作品はまとめて読んだほうが印象が強くなるのかというと、どうもそうでもなさそうです。ほとんど印象のかわらない人もいるし、一首だけなら強い印象があるのに、いくつも続けて読むと逆に印象が薄まる場合さえあります。
 ではなぜ萱野芙蓉さんの作品の場合はそうなのか、と考えながら1〜10番までのお題のなかから選んでみたのが上の4首です。このような殺伐としたとでもいいたくなるような厳しさのなかに聳立した世界観が呪詛のように繰り返されることによって基調を創りあげ、それに違ったタイプの作品がはさまれることで広がりをもたせるような効果をもたせているのではないでしょうか。そのため続けて読むと厳しく力強い世界が構築されているような感触があり、しかし、一つ一つの作品を取り出してしまうと効果が薄くなるのでは……。
 というのが、ぼくがとりあえずおもった事ですが、ほんとうのところはどうなのかはわかりません。
posted by aruka at 22:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(題詠100題2007観賞)010:握



手を離すための握手をするときは雪か桜が降るものらしい     (里坂季夜)





 このお題では一首だけ選びます。
 里坂季夜さんの作品は、オタク的なたのしみとしてカート・ヴォネガット,Jr. の小説に登場するアイテムがでてくる短歌を楽しんで読ませていただいてますが、そういう読書傾向を反映してか、この作品にも上質のユーモアがかんじられます。読者を笑わせようとするユーモアではなく、視線や考えかたに内在するユーモア感覚とでもいうようなものです。ぼくは短歌のばあい、ウケをねらったギャグなんかよりも、こういうユーモア感覚のほうがよほど効果的で味わい深いとおもうのですが、どうでしょう。そのユーモアと詩的な美しさが融合した、すごくいい作品だとおもいます。
posted by aruka at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(題詠100題2007観賞)009:週末

週末の作り笑いがひとすじのティーバッグを引き上げて終わる   (長岡秋生)


制服を放って街へ潜り込む週末だれも大切じゃない        (ぱぴこ)


週末はあなたのことを待ってます指も切ります針も飲みます     (水野彗星)




 これも個人的にはやりにくかったお題です。「週末」という言葉の効果があまりに日常的で、どう使っても妙に俗っぽくなってしまうのがその理由だったのですが、他の方々の作品を見ると、この言葉がもつひどく日常的な響きをうまく利用している作品もあるものだと気づかされます。
 長岡秋生さんの作品は日常の細かな襞の奥にある怖さのようなものをさりげなく掬いだして見せたような作品で、何気ないようでいて、その奥にかなり広い茫漠たる地平が広がっていることを予感させるような雰囲気がすごくいいとおもいました。「ひとすじのティーバッグ」の「ひとすじ」が効いているとおもいます。
 ぱぴこさんの作品はいま街角にたむろしている若者の息づかいが感じられるような作品で、「だれも大切じゃない」という言葉が効いています。つまりこれは他のみんなと同じように、「自分」もまた大切ではないということなんじゃないでしょうか。
 水野彗星さんの作品は慣用される言葉の意味をねじ曲げたようなパロディックな表現が、少しブラックに傾斜していくかんじが素敵だとおもいました。
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(題詠100題2007観賞)008:種



僕萌ゆる地に降る雨は甘いだろう ガラスシャーレに種子が見る夢   (本田あや)


闇に手を拡げてをりぬ 我もまた星を集むる種族とならむ      (西巻 真)




 このお題では本田あやさんの作品がズバ抜けてるとおもいました。
 タネの一人称、それもガラスシャーレのなかに置かれたタネの一人称というとんでもない設定です。「雨」が「甘い」という感覚もいいですね。しかも、冒頭の「僕萌ゆる地」というやわらかな日本語を「ガラスシャーレ」という冷ややかなカタカナ言葉が受け止めていて、全体としてすっきりと整った印象さえおぼえる美しさで、じつに完成度の高い傑作だとおもいました。
 西巻真さんの作品は「星を集むる種族」という言葉が象徴しているものを想像させる作品ですね。
posted by aruka at 00:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(題詠100題2007観賞)007:スプーン

スプーンもて老婆の口元抉じ開けし我の顔つきはや凍て付きもせず     (繭)


柄の長いスプーンからのひとくちを聖なるもののように受け取る      (百田きりん)





 個人的にもかなりやりにくかったお題で、他の方々の作品を見てもいいとおもうものは少なかったのですが、この二首はいいですね。
 前の「使」の作品もその前の「しあわせ」の作品もそうですが、繭さんの作品にはギラッとした怖さ・毒のようなものがあるとおもいます(もちろんほめ言葉です)。ほんらいならこういう怖さ・毒のような部分は文学派とでもいうべき考えをもっている人が持っていなければならないもののはずなのですが、短歌は文学だと言う人にかぎって毒にも薬にもならない身辺雑記ばかり書いている人が多いのは不思議なものです。ぼくは毒にも薬にもならない身辺雑記より、圧倒的に怖さ・毒のほうを支持します。
 百田きりんさんは、作品全体のねらっている方向としては甘口のポエム風の短歌のようです。が、この作品のように輝くようなイメージを描き出す面があります。ぼくとしては甘さを排して、こういったイメージを切り出す方向にむかってほしいとおもうのですが、たぶん本人はそう思ってないんだろうな。この作品は甘さがかんじられず、美しい象徴画のような雰囲気をもっていて、すごくいいとおもいました。
posted by aruka at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(題詠100題2007観賞)006:使



25時携帯ゲームの死天使が語る稚拙な救世手順            (奥深陸)


さやぐ身に使われおらぬ室ありて「純潔」の語はぬめり腐りつ     (繭)


君の目が流れる雲を追いはじめ椅子を使った遊びを終える       (水口涼子)


ラメ入りのマニキュア使えばこの傷もきらきらとしか痛まなくなる   (小埜マコト)




 
 奥深陸さんの作品がみょうなリアリティを放つのは、ゲームだけでなく現実世界のほうでも「死天使」はいつも「稚拙な救世手順」ばかり語るわけで、たとえばヒトラーの「ユダヤ人を皆殺しにすれば世界は良くなる」から、数十年前の日本の学園闘争の「社会主義革命をおこせば日本も北朝鮮のような地上の楽園になる」、最近の日本の「軍隊をなくせば戦争はなくなる」まで、理性的にきちんと考えれば嘘なことはわかりきっているはずなのに、その嘘の内にいると何も見えなくなるようで、そうやって「死天使」はつねに人々の盲目的な正義感や善意を悲惨な末路へと煽り・駆り立てているわけで、この作品がそういったものを象徴しているような印象を与えるからでしょう。
 前の題でも選んだ繭さんの作品は腹に響くような怖いようなリアリティのほかに独特の語り口にも魅力をかんじます。
 水口涼子さんの作品は「椅子を使った遊び」というのを、何なのかあえて説明しないところに意味深な余韻をかんじさせます。たんに子供が遊んでいるだけのことなのかもしれないし、なにか象徴的な意味をもたせているのかもしれないことをおもわせます。「椅子」とは「地位」や「権力」の象徴でもありますから。
 小埜マコトさんの作品は「きらきらとしか痛まなくなる」のフレーズがいいですね。
posted by aruka at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月22日

(題詠100題2007観賞)005:しあわせ



真っ白きしあわせに病み不安定に座るわが内の少女は去ったか      (繭)


しあわせ? と問ふことの意味雨の日のクメール・ルージュの軍服少女   (宵月冴音)


しあわせです。僕いい子です。嘘つきです。白い部屋には白い僕咲く   (y*)





 この題はまず繭さんと宵月冴音さんの作品に圧倒的な力をかんじました。
 繭さんの作品は「しあわせ」という題にたいして「しあわせに病み」とくるあたり、それも「真っ白きしあわせ」に病んでいたというあたりに、石のような現実味をかんじ、それが去った後に何が残っているのかとおもうと、みなみならぬ苦さを余韻としてかんじます。
 ブログのほうに行ってみたところによると、この繭さんという人は短歌を書き始めたばかりの初心者のようなのですが、独特の口調のようなものをかんじます。ひょっとすると大化けする人かもしれません。(ぼくが言っても説得力はまるでないですが)
 宵月冴音さんの作品は「雨の日のクメール・ルージュの軍服少女」というのが目の前にいるようなリアリティをかんじて、「しあわせ」という言葉の軽さが嘘くさくみえてきました。
 この2つがよくて他はかすんで見えてたのですが、y*さんの作品は別のいみで印象的なセンスの良さをかんじました。空虚感のなかにストンと落ちこむようなかんじです。
posted by aruka at 06:13| Comment(3) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(題詠100題2007観賞)004:限



ロケットを呑み込みしより青空の内側の有限なる宇宙       (カー・イーブン)


見学の理由聞かれず小6の夏のプールは限りなく青        (白辺いづみ)





 このお題もいいとおもったものが少なかったです。なかでカー・イーブンさんの作品が群を抜いているようにおもいました。かつては限りない大きなものとして少年の心に映っていた空が、ロケットが宇宙に飛び出すことによって有限の小さなものになってしまったような寂しさをかんじます。
 白辺いづみさんの作品は、たんなる思い出を書いただけのような内容ですが、小学校のプールを覗きこんだときの水の透き通ったかんじとか、水飛沫の冷たさとか、みょうに直接的に思い出しました。ぼくは身近な事実をたんに書いただけみたいな短歌にはほとんど興味がないのですが、この作品をいいとかんじたのは不思議です。たぶん、過去の事実ではなく、そのときの「感覚」を伝えているからではないかとおもいました。
posted by aruka at 06:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(題詠100題2007観賞)003:屋根



月光を屋根が弾いてしまふゆゑ人間くさきわが眠りなり       (萱野芙蓉)


屋根の上をナイフ投げつつ進みゆくチャレンジャーは青天に刺された (カー・イーブン)





 この題はあまりいいと感じたものがありませんでした。とりあえず2つだけ選びましたが、それぞれの作者にとってこれがとくにいい作品なのかというと、そうでもないような気もします。
 萱野芙蓉さんの作品は題詠2007のブログで他人の作品に混ざっているのを読んでいるときは、気にはとまるもののもう一つ強い印象が残らないものが多かったのですが、作者のブログへ行って続けて読んでみたところ、ぎゃくに非常に強い印象を受けました。続けて読むことによって印象を強めるタイプの作品を書く人のようです。
 この作品では俗世界をこえた超越的なものの象徴としての月光と、俗的な自己とを対比させた表現だと解しました。これだけ読むとこれももう一つ先までいってもいい気もするのですが、同じ作者の他の作品と続けて読むとすごくいいとおもいました。
 カー・イーブンさんの作品は「青天に刺された」という表現が気に入ったのですが、前半はなんだか状況がよくわかりません。おそらく「チャレンジャー」は青空のなかで爆発したスペース・シャトルのチャレンジャー号とダブル・ミーニングになっているとおもうのですが。
posted by aruka at 06:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

(題詠100題2007観賞)002:晴



あの晴れた朝に廃墟となる街に少女のあなたがいたのだという    (野樹かずみ)


火星まで晴れた夜空は無防備な正しさを叫ぶ 凍えてしまう     (けこ)


かたくなに折りたたまれた薄紙を午後の晴れ間にそっとひろげる   (富田林薫)





 この題でも、「始」とおなじく、野樹かずみさんと、けこさんの作品がいいとおもいました。
 野樹かずみさんの作品はちょっと意味のとりかたが難しく、「あの晴れた朝」は過去形、「廃墟となる」は未来形で、時制が一致してない気がするのです。つまり「あの晴れた朝に廃墟となった街」とか「ある晴れた朝に廃墟となる街」だと自然なのですが、「あの晴れた朝に廃墟となる街」はどこかヘンな気がします。これは何かの意図があるのか、たんなるミスなのかわかりませんが、意図したものだととることにします。時制をこえた「廃墟となる街」に閉じこめられているような「少女のあなた」が妙に印象的でした。なんだかわからないのですが、「あの晴れた朝に廃墟となった街」とか「ある晴れた朝に廃墟となる街」にすると、自然ではあっても印象は薄くなる気がするのです。
 けこさんの作品は宇宙的孤独感とでもいうような壮大なイメージをうたい切った鮮やかさが美しいとおもいました。前の題の歌とおなじく、崇高で孤絶した自然を前にした畏怖の感覚をかんじます。
 富田林薫さんの作品の「かたくなに折りたたまれた薄紙」というのは心的なものの象徴でしょう。ほんの少しの息抜きに、かたくなに折りたたまれた気持ちをほっと広げているようなかんじに解しました。美しい表現だとおもいます。
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(題詠100題2007観賞)001:始



白く残る月の気配に怯えながら無音の街を歩き始める       (けこ)


両目から砂がこぼれる魂が崩れ始めているかもしれない      (野樹かずみ)


ガラス色の薄い膜に手のひらをつけて見ている 始まらない    (黒崎恵未)


さみしさで始まる手紙僕たちは口ほどにもなくまっすぐだった   (pakari)




 
 けこさんと野樹かずみさんの作品がとくにいいと思いました。どちらもイメージが強烈で鮮やかです。現実という現象がどこか微妙なバランスのうえに存在しているだけもので、ともすれば崩壊していってしまうかのような不安感におそわれます。
 野樹かずみさんの作品は、自分の身体が得体の知れないもので、それがさらに得体の知れないものに変化していくような感覚をかんじさせます。けこさんの作品はもっと大きな自然に畏怖している感覚をかんじます。古来、月(ルナ)はルナティックの語源であるように、狂気の象徴です。
 黒崎恵未さんの作品は、どこか薄いガラス膜に閉じこめられていて、それを壊して外に出ることができずにいるような状況を象徴したもののように感じられます。みんなが「始まる」ことの歌をうたっているなかで「始まらない」ときたところも印象的でした。
 pakariさんの作品は「口ほどにもなくまっすぐだった」という言い回しが秀逸だとおもいます。自分ではおもいっきり斜にかまえてるつもりの若さのイタいかんじがよくでてるとおもいます。
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題詠100題2007を観賞してみます

 今年は他人の書かれた作品を観賞させていただこうかとおもいます。
 といっても、ぼくに他人の作品を評する能力があるのかという点にまず大きな疑問があるわけですが、選んでみることによってわかることがあるのか、他人の作品にどんなことが言えるのか、試してみるつもりで観賞してみるつもりです。
 ということで、自分の基準でいいとおもったものを、ひとつの題につき、だいたい3首前後を選ばせていただいて、かんたんなコメントなどを書かせてもらおうかなとおもっています。どこまで続くかわりませんが、とりあえず始めてみます。

 こういうふうに他人の作品を勝手に選ばせてもらうとすると、つい「自分が好きなものを選ばせていただいた」と言いたくなるのですが、それは自分のなかで禁句にさせてもらうことにします。「好き・きらい」という単なる自分の嗜好で選んだと言うことは、なんだか逃げてるような気がするのです。
 ある作品を選び、別の作品を選ばなかったというところには、なにかの自分なりの基準があるはずで、その基準は自分でもわからなかったりもするのですが、それがどんな基準なのかを自分に問いかけ、他人に示してみることが観賞することの意味のような気がするわけです。そこを単に自分の好みだとかんたんに説明してしまってはいけないような気がするのです。
 といっても、やってみてはたしてそれが見つかるのかどうかもわからないので、とりあえず気楽にやってみるつもりですが。

 作品に優劣をつける気はありませんが、だいたい上のほうに掲げさせて頂いたものが、現在のぼくがより「いいな」とおもう作品です。

 というわけで、多くの方の作品をたぶん無断で掲載させていただきますが、このような企画の一環ということで作者のかたがた、ご了承ください。
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完走報告(aruka)

 完走しました。
 今年はこの後、観賞させていただこうかとおもっています。
posted by aruka at 05:44| Comment(0) | TrackBack(1) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月19日

100:終(aruka)

夢をつかんだとき終わる夢もたくさんあるんだよ 忘れないで
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099:茶(aruka)

一杯の紅茶のようなしあわせを壊れたベッドのなかでまってた
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098:ベッド(aruka)

雪の夜は無限段ベッドで眠る螺旋形の夢をみながら
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097:話(aruka)

ぼくらみな言葉でできたまちに棲みおなじ話をかたりつづける
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096:模様(aruka)

廃屋で水玉模様と月光(Polka Dots and Moon Beams)を遠い目をして弾くピアニスト
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2007年09月16日

095:裏(aruka)

夜の裏通りを少女の白い手がすがたを消しつつとおり過ぎてく
posted by aruka at 02:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 題詠100題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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