2007年08月31日

083:筒(aruka)

征け、十二気筒エンジン全開で駆ける無限につづく迷宮
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082:サイレン(aruka)

きこえないサイレンの音が街じゅうの頭のなかで響きわたる日
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081:露(aruka)

盲目の闇の底から這いだして夜露に濡れた幽かな指に
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080:富士(aruka)

裏庭にいりぐちがある富士見荘一階の空き部屋が消える
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079:塔(aruka)

塔からはなにも見えない開かれた窓からはただ内部がみえて
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2007年08月07日

平和主義はなぜ戦乱をひきおこすのか

 最近テレビや新聞などで目にして危機感をつのらせたものがあります。それは子供の意見で、憲法九条をかえないでほしい、戦争へつながる法改正はしないでほしいといった内容のものが、二、三の別の場所で紹介されているのをみかけたことです。しょせん子供の意見といわれるかもしれませんが、そんな意見ばかりをピックアップしてマスコミに載せたのは大人です。どうもこれはいけない。こういうやりかたは戦前の軍国主義をおもわせます。
 戦前の右翼はアメリカ戦を始めるときに「神の国である日本が負けるわけがない」「いざとなれば神風が吹いてアメリカ軍を撃退してくれる」などというきわめて非現実的なことをいっていました。とうぜん現実論の立場から批判がきます。となると彼らは、そのような批判をするのは「非国民」であると罵倒して黙らせたのです。つまり、理性的に論理的に相手を説得するのではなく、自分が正義で相手が悪であるというイメージを植え付けることで現実論を黙らせたのです。そんなイメージ戦略のために使われたのが「情に訴える」という手段です。
 さて、戦後になりました。戦前において「神風」を信じていた人々は、憲法第九条の非武装による平和主義をとなえはじめました。これは悲惨な戦争を経験して反省したのだと自分たちは言っているわけですが、ぼくに言わせれば実は反省なんかしていないんだと思います。というのは「非武装にすれば平和になる」などという主張は戦前の「神風」と同じくらい非現実的な迷信でしかないからです。
 現実的に歴史を見てみれば、非武装は平和どころか戦乱をもたらすと考えるのが常識です。それは、へんな迷信に惑わされずに常識で考えてみれば誰にだってわかることでしょう。国家が軍備をもたなくなれば、テロリストやカルト教団、ヤクザが武装して略奪行為を繰り返したり、勝手に自治区をつくって支配したり、あるいはクーデターをくわだてたりしたときに、それを制圧することができなくなります。外国からの侵略から人々を守ることもできなくなります。そんなことになれば暴力だけがものをいう戦乱の世になるのは当たり前で、歴史をみれば実際そうなっています。そんなことは世界の常識であり、そうおもっていないのは世界じゅうで日本の護憲・平和主義者だけです。
 そんな非現実的な平和主義を、現実論の立場にたつ者が批判するのは当たり前です。
 さいわい戦後の日本は現実論の立場に立つ政治家が主導権をとってきたために、アメリカと安保条約を結び、自衛隊をつくり、それによって平和を守ってきました。しかし戦後のいわゆる護憲・平和主義の人々は、戦前の右翼と同じように、そんな現実主義に敵対してきたのです。
 しかし、現実的にきちんと考えるならば、護憲・平和主義が間違っているのはあきらかです。そこで護憲・平和主義者たちは「情に訴える」ことで自分の意見をとおそうとしてきました。つまり、自分たちを平和を守る正義の味方であるようにイメージづけ、自分たちを批判する現実的な思考をする人を「おまえは右翼だ、戦争賛美者だ」と罵倒することによって黙らせようとしてきたわけです。
 なんのことはない。戦前の軍国主義者はまったく反省したわけではなく、ただ信じる迷信を「神風」から「九条」に変え、相手を罵倒する言葉を「非国民」から「右翼、戦争賛美者」に変えただけです。「神風」も「九条」も、どちらも非現実的であることにはかわりなく、彼らがまったく現実を見ようとしないことにもかわりはありません。
 つまり、もし戦前の軍国主義を反省するのであれば、非現実的な迷信を信じこむことの愚かさを反省し、現実的に物事を判断するようにならなければなりません。それが反省することであるはずです。しかし戦後の平和主義者は、どうやって戦争を防ぎ、平和を守るかということをまったく考えようとせず、ただ「九条」という迷信を信仰していさえすれば平和が守れると思い込むことだけを熱心に続けてきたのです。それは戦前の「神風」を信じていれば日本が守れると信仰していた人々とかわりありません。
 そして戦前・戦後をとおして、そういった「迷信派」の人々と対立してきたのはいわば「現実主義派」であり、単純にいえば戦前は「迷信派」が主導権をとってしまったために戦争に突入し、戦後は平和主義をとなえる「迷信派」ではなく、「現実主義派」が主導権をとってきたために平和が守れてきたわけです。

 さて、問題は子供の意見です。いったい子供が歴史を知らず、戦争を理解せず、どうしたら平和が守れるのかを理解できず、間違った意見をいったとしてもそれはそれで当然のことでしょう。間違うことのない子供なんているわけありません。しかし、そんな子供の意見、それも特定の意見だけを大人がピックアップしてくるというのはどういうことなんでしょうか。
 つまりそれは、その意見を純真な子供の願いとして紹介することで、あたかも改憲が戦争をするためのものであるかのようなイメージをうえつけ、「情に訴え」て世論を誘導することがねらいでしょう。
 しかしそんな意見を、ピックアップした大人が自分でいったのなら、とうぜん批判も受けるでしょう。しかし子供がこういう意見を言ったので、それを紹介しただけだといえば、批判をかわせます。つまり発言にたいする責任を逃れられるわけです。
 しかし、もし彼がほんとうに非武装によって平和が守れると、きちんと考えた上でそう思っているのであれば、その批判から逃れず、なぜ護憲によって平和が守れるかを現実的な論理できちんと説明すればいいのであり、そうするべきなのです。
 しかし彼は、子供の意見の紹介というかたちをとることによって、自分の意見をきちんと説明することから逃げています。おそらく彼は批判されても護憲によって平和が守れる理由なんて説明できないのでしょう。ひょっとすると平和についてきちんと考えたことなんてないのかもしれません。たんに迷信を信仰してきただけで。
 ぼくは自分と違う意見の持ち主であっても、きちんと考えた上でその意見に達し、その理由を主張できる人であれば尊重します。が、このような手法で世論誘導を企てる扇動者をまったく尊重する気はありません。そういうことを考える人物は危険だとおもいます。
 たかが子供の意見が紹介されているだけで考え過ぎだとおもわれるかたも多いでしょうが、平和についてなんにも考えてないのに平和主義だと主張し、自分は正義の味方だと信じて他人を罵倒する人間はすごく多いのです。
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2007年08月05日

すごいぞ、ヴィトウス『Universal Syncopatons II』

 中古CD屋通いが趣味となってしまうと、リリースされて間もない新作を買うことは少なくなります。中古屋におりてくるのが待ちきれず、高い値段でも今すぐ聴きたいと思わせてくれるミュージシャンというのも少ないわけで。
 でも、それだけに高い値を払って買ったアルバムが大傑作だったりすると、そんな傑作とリアルタイムで出会えたことに血が湧きたちます。
 ということで、ミロスラフ・ヴィトウスの『Universal Syncopatons II』!! こりゃあ凄い! 大傑作です。
 そもそも、前作にあたる『Universal Syncopatons』もそれはそれで傑作でした。単独ソロ作としては11年ぶりという話題性もあり、参加メンバーがヤン・ガンバレク、ジャック・デジョネット、チック・コリア、ジョン・マクラフリンというオールスター・バンドで、しかし単にオールスターで演奏してみました的な内容ではなく、自分の音楽を展開してみせた内容が、実に魅力的でした。
 実際、『Universal Syncopatons』は好評で、セールスも好調だったようで、それが今回のタイトルにも反映しています。
 とはいえ、前作での方法は(優れた演奏であるという点はおくとすれば)これまでのヴィトウスのECMでの諸作を聴いてきた立場からいえば、それほどは新味のないものだったともいえます。
 けれど、今回は違います。
 今回のアルバムではこれまで通りの緊張感あふれるジャズ的な演奏に、独特のオーケストラ・サウンドがくわわって、幻想的ともいえるサウンド・パノラマをくりひろげているのです。
 そもそもヴィトウスはMIDIのオーケストラのサンプルCDの制作者としても有名なようです。ぼくはそっちのほうは詳しくないのですが、なんでも世界最高のクオリティのもののようで、MIDIでオーケストラ・サウンドを作りたい人はまず揃えたいものとして、フルセット買えばバカ高い値段であるにもかかわらず売れているようです。
 ひょっとすると前作までソロ作が11年も間があいたというのも、そっちのほうに熱中してたからかもしれません。
 けれど、そのサンプルCDを使って作り出したサウンドというのは、これまでのアルバムにはほんの少し入ってるだけでした。それがここにきて、このアルバムで一気のその成果をみせてきたのです。
 といってもヴィトウスのこと、いかにもってかんじの、フツーのオーケストラ・サウンドなんて作りません。どこかうすら寒いような独特のサウンドを、緊張感のあるジャズ演奏にのせてきます。そのスリリングで見事なこと! とくに後半はちょっとクラシック系の現代音楽のオーケストラ作品をおもわせるような雰囲気のところまであって、MIDI による疑似オーケストラというのがこれほどの表現ができるのかと目からウロコが落ちました。
 かつて超絶技巧ベーシストとして登場(みんなその技巧が信じられなくて、テープの早回しか多重録音ではないかとおもったそうで)した青年も、はや60歳になったようで、しかし、ここからが本当の総合音楽家としてのヴィトウスの出発ではないかと予感させるような傑作です。
 いやあー、ぜひ今回も売れて、また早いペースで次作も出してほしいですね。
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079:塔(aruka)

塔からはなにも見えない開かれた窓からはただ内部がみえて
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078:経(aruka)

パラダイス経由バビロン行きバスが町はずれから午后2時に出る
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077:写真(aruka)

ああ海の写真ばかりでみたされた病室で鳴る Journey's End (*注)


(*注)「Journey's End」は先頃大傑作「Universal Syncopations II」をリリースしたミロスラフ・ヴィトウスのアルバムのタイトルです。
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076:まぶた(aruka)

うつむいた少女のまぶたに消えかかる雪の結晶が死にふれる夜
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075:鳥(aruka)

町を捨て鳥カゴばかりのまちへ行く そこで笑えば声を失う
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074:英語(aruka)

見知らぬ国のことばを話す人形が英語で書かれたほんを抱いてる
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2007年08月02日

選挙報道をみていて

 この前の日曜におこなわれた選挙をテレビでみていて、おもしろいことをかんじました。
 もともと、あの日の選挙報道は、フジテレビでは開始が他局にくらべて一時間ほど遅れました。27時間テレビをやっていたからです。その27時間テレビのなかで、メイン司会の香取慎吾さんはしきりに「なまか」=「仲間」ということをいっていたようにおもいます。たぶんそれがあの番組のテーマだったんじゃないでしょうか。たしかに「仲間」とか「友情」というのは日本人が好きな言葉で、例えば少年ジャンプのヒット作のセオリーでは「努力」「勝利」と並んでテーマとなるものであり、実際マンガの主人公たちはそんなふうに行動します。
 しかし、今回の選挙で自民党が大惨敗をきっした理由は、まさに安倍総理が「友情」にあつい「仲間」を大切にする人物だったからでしょう。つまり、今回の選挙に至るまで、大臣たちはさまざまな問題や不祥事をおこしました。しかし、安倍総理はそれを理由に「仲間」である大臣を切れなかった。一緒に仕事をしてきた「仲間」をかばった。そのことが多くの国民に大反発をくらい、自民党は敗北したわけです。
 つまり、あの日、日本人は「仲間」を大切にしようというテーマの27時間テレビを楽しみながら、「仲間」を大切にする安倍総理を切ったわけです。これはおもしろいとおもいました。
 さて、国民に切られた安倍総理ですが、ぼくが疑問におもうのは、ほとんどの日本人には、はたして安倍総理を否定できる立場にいるんだろうかということです。
 つまり、大多数の日本人は、不祥事がおきたとき、それでも身内や仲間を大切にかばうとおもうのです。というか、27時間テレビや少年ジャンプの例でもわかるとおり、そうすることを正しいとさえ思ってないでしょうか? だとすれば、そのような人に今回の安倍総理の一連の行動を、どうして否定できるのでしょう。
 たとえば談合というのがあります。これは、れっきとした犯罪ですが、なかなかなくなりません。ぼくが思うに、その理由は、談合というのは「仲間」で「みんな仲良く」仕事を分け合う行為だからじゃないでしょうか。
 つまり、談合をしなければ競争がおき、弱いものは倒れていきます。しかし、談合をすれば互いに助けあって、仲間がみんな仲良く生き残ることができる。そうなると、日本人というのは「仲間どうしで助けあうのは良いこと」「みんなで仲良く仕事を分け合うのは良いこと」だとおもってしまうのではないでしょうか。だから談合がなくならないのではないでしょうか。
 安倍さんと小泉さんがよく比較されるのですが、この点でいえば、小泉さんが総理になってからの行動は、まったく「仲間」を大切にしませんでした。郵政選挙のときに小泉さんに敵対し刺客をおくられた議員の何人かは、小泉さんが総裁選に立候補したときから中心になって活動してくれた、まさに苦楽をともにした「仲間」だったはずです。小泉さんはそんな「仲間」を、不祥事もおこしていないのに、たんに郵政改革にたいする意見が違うというだけでバッサリ切ったわけです。小泉さんのやり方は非情だと非難していた議員もいたようにおぼえていますが、そう言われるのも無理はないともおもいます。しかし、あのとき日本人は「仲間」を大切にしない非情な小泉さんを絶大に支持したわけです。
 おそらくこのへんに共同体的な道徳感と社会的な倫理感の対立するポイントがあるような気がします。つまり、仲間を大切にするのは必ずしも良いことではなく、仲間を大切にするのが悪いことである面もあるのです。
 なぜなら、仲間を大切にするということは、仲間ではない人は大切にしないということだからです。
 そして、たとえば総理大臣をしている政治家にとって、ほとんどの日本人は、とくに個人的につきあいのある仲間ではないからです。そしてもちろん、総理以外のすべての日本人にとっても、彼以外の日本人のほとんどは仲間ではないのです。その仲間でない大多数の人に対してフェアーな立場にたつということは、つまり、少数の仲間なんか大切にしないということなのです。
 しかし、はたして「仲間を大切にするのはやめよう」というテーマで27時間テレビみたいなものができるのかというと、あまり期待できませんが。
posted by aruka at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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