2006年12月24日

詩「水町ゆき」

ちょっとした所用で、水町にやってきた
そんな名前の町だから期待していたのだが
来てみると何の変哲もない町で
おどろいたことに水なんてどこにも見あたらなかった
川いっぽん流れてなく、小さな池ひとつない
湧き水もなければ、井戸ひとつない
それでいて、商店街には
『ふるさとの町 水の町』なんて大きく書いた
垂れ幕のようなものが下がっていた

昼に食事にはいった食堂で
柔和な人柄がうかがえる顔をした店主に
代金を払いながら一言きいてみた
どうしてこの町は「水町」というのかと
ずっとここに住んでいる人に見えたので
その由来くらい知っているかとおもったのだ
店主はその質問が耳に入らなかった様子で
ツリを丁寧に数えて手渡してくれた
ぼくはもう一度聞いてみた
どうしてこの町は「水町」というのかと

すると店主は表情を変え
なんでそんなことを訊くのかと逆にきいてきた
水町という町名が変わっているので
なにか由来があるのかとおもったのだと
ぼくは急に変わった店主の表情におどろいて
言い訳するようにいった
すると店主は
この町が水町という名だからといって
それでおまえに迷惑をかけたのかと言ってきた
ここはむかしから水町だし
水町だとしてみんなで仲良く暮らしてきたのに
なんでそんなことを訊くのかと

ぼくは何だかわからず
けれどもそんなやりとりを続けるのも嫌だったので
店から出ることにした
すると、店にいた客の一人が急に立ち上がって
店からでようとするぼくの前に立ちはだかった
待て! おまえ、逃げる気か!
男はいきなり怒鳴りつけてきた
おまえ、いま自分が何を言ったのかわかってるのか、と

ぼくはますます何だかわからなくなり
自分がなにか気に障ることを言ったのならあやまります
と丁寧にいった
すると、男はさらに激興していった
あやまるだとおっ!
そんなことで責任をとったつもりか!
あやまってすむ問題だとおもってるのか!
男はさらに頭に血がのぼってしまったようだ
丁寧な態度で下手に出ておけば穏便にすむかとおもっていたが
かえって彼が強気に出るきっかけをつくってしまったらしい
周囲をみると他の店の客もみんな
男と同じような表情でぼくを睨んでいる
もちろん店主もだ

こうなったら開き直ろうとぼくはおもった
そして、もう一度きいてみた
ぼくは水町という名の由来を訊いただけじゃないですか
どうして水町という名になったのか
おしえてくださいよ
すると男はさらに怒りくるった
なんだとおっ!
おまえ、水町というのがなんだかわかってるのか!
水町の水とは何だかいってみろ!
ぼくはこたえた
水というのはウォーターのことでしょう
この野郎! 英語なんか使いやがって
自分は教養があるっていいたいのか!
生憎だな、その程度の英語、誰だって知ってるんだよ!
男がそういうと店じゅうの客がぼくを嘲笑した
もちろん店主もだ

だから、どうして水町っていうんですか
ぼくはもう男の言葉など無視していった
と、今度は後ろから別に客が怒鳴ってきた
ふざけるんじゃない! 鼻もちならない奴だな
おまえにこの水町の何がわかるっていうんだ!
ぼくは振り向いていった
わからないから訊いてるんです!
だいたいおまえ、そんなこといって、食い逃げする気だろう!
お金なら払いました!
払って当たり前なんだ、そんなことが自慢になるか!
自慢なんてしてないじゃないですか!
うるせえ! この食い逃げ野郎!
男がそういうと店じゅうの客がぼくを嘲笑した
もちろん店主もだ
カネはちゃんと払ったじゃないですか
そんなぼくの声なんて届きそうにもない
「食い逃げ」という罵倒方法を彼らが思いついた時点で
事実とは無関係にぼくは「食い逃げ野郎」になってしまったらしい
逃げ出そうにも店に入口には、もう何人もの客が
立ちはだかって、ぼくを睨みつけている
ぼくは『ふるさとの町 水の町』と大きく書いた
垂れ幕を思い出していた
いったいだれが『ふるさとの町 水の町』に
なにをもとめて訪れるのだろう
posted by aruka at 00:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月16日

短歌「密室の魚」

流れゆく人ごみのなか立ち止まる人の頭が空に溶けだす

錆びついた線路のうえを遠くまで歩いた夏においてきた影

白壁が海から空までつづく道 山羊の目をした少女が立って

古ぼけた写真のなかのサーカスがこの現実の陰画であること

海岸で道を尋ねた道化師がからだ半分城になってく

密室にあらわれる魚 はねてまた口を開いた銀河にもどる

音のない水族館の水槽に粉雪がふり世界は終わる
posted by aruka at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月09日

大岡信の『蕩児の家系』など

 ぼくは日本の近代文学というのに親しんできませんでした。私小説というのがきらいだったからです。けれど、いまごろになって詩歌をとおして、日本の近代文学に興味がでてきました。といっても、それはむしろ歴史への興味に近いものなのですが。
 どうも、明治期の言文一致というのは、単に新しい書き方(口語文)をしようということではなく、明治期に入って日本人の意識そのものが変化してきたため、その新しい意識に対応する言と文を見つけだしていった……というようなもののようです。
 筑摩書房の日本文学全集の『現代詩集』の巻についた篠田一士の解説にこんなことが書いてありました。新体詩の先駆けとなった島崎藤村の『若菜集』の「初恋」の二連め、

  やさしく白き手をのべて
  林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に
  人こひ初めしはじめなり

 このうちの前半の二行、白い手と林檎の鮮やかなイメージはこの時代の日本人が獲得した新しい感性の産物であり、しかし後半の二行は因習的な修辞であり、たんに伝統的に使い古された言い回しを踏襲したにすぎないんだといいます。
 新体詩というのはこのような文語、因習的な雅語・古語の修辞と、明治に入って西洋の影響を受けつつ変化してきた日本人の新しい感性とがごっちゃになってできたキメラのようなものであり、だからこそ過渡的なものにしかなり得ず、十年ほどブームになった後はすたれていってしまったようです。
 それに対して萩原朔太郎の功績は、単に口語で詩を書いたということではなく、新しい時代の新しい日本人の感性は萩原朔太郎の作品によって初めて自分の言葉を見出したのであり、それによって自分の言葉で詩が書けるようになったのであり、そのために重要なんだということのようです。

 最近、大岡信の『蕩児の家系』という詩論の本をみつけて読みまして、これがおもしろかったです。
 西脇順三郎や金子光晴、高村光太郎はいずれも留学経験があり、海外での経験をとおして詩を書き始めた人ですが、彼らはいずれも蒲原有明や薄田泣菫といった新体詩を読んでも自分の言葉とは思えず、そんな言葉(文語・雅語)で詩を書く気にはならず、むしろ英詩やフランスの詩人の作品により自分に親しいものを感じて、詩を書き始めたようです。
 おそらくこういうのは、いわゆる「西洋かぶれ」ではないと思うのです。たとえばずっと後、1960年代の日本の若者はビートルズなどに熱中した者が多かったようですが、多分彼らは西洋にあこがれてスノビズムでビートルズを聴いていたわけではなく、日本の民謡や歌謡曲よりビートルズのほうにより自分の親しいものを感じたから聴いていたのではないでしょうか。おそらくそういう経験は誰でもあるんじゃないでしょうか。つまりこの時代、日本にそういう感性が育ってきていたということだとおもうのです。
 さて、この三人の詩人のうちいちばん詳しく書かれていたのは西脇順三郎ですが、彼の場合は徹底していて、日本にいた十代の頃から友人が文語で短歌などを作っているのを横目に、自分は文語・雅語で書く気にはなれず、それくらいならと英語やフランス語で詩を書き始めたといいます。彼の留学中のいちばんの愛読書はフロベールだったそうで、その後、西脇は萩原朔太郎を読んで、萩原朔太郎の詩のなかに「自然主義」を感じて、これなら自分も日本語で詩が書けるとおもい、はじめて日本語の詩を書き始めたんだそうです。
 ここでいう「自然主義」は西脇の愛読書であったフロベールの『ボヴァリー夫人』ような、西洋でいう意味での「自然主義」であり、「人間や現実をありのままに見つめる態度」のことでしょう。このように萩原朔太郎に「自然主義」を見出して、「自然主義」によって書き始めた詩人は西脇ひとりではないようです。
 しかしこの「自然主義」の影響が日本の小説の世界に入ってくると、「人間や現実をありのままに見つめる」ことではなく「作家が自分の経験をありのままに告白する」ことが「自然主義」になってしまい、私小説という世界的に見れば奇形的な小説が生まれ、それが純文学の主流になってしまいます。
 そのときに、より本来の意味で「自然主義」を理解しえていた日本の詩人たちは日本の小説を見捨てたのであり、しかしそれが外からは詩が小説から見捨てられたように見えた……と大岡信は書いています。
 そしてそれ以来、日本の詩と小説の世界は断絶し、互いの交流のない状態になってしまったんだと……。

 さて、そうして萩原朔太郎らの功績により、日本に口語詩、それも韻も律もない自由詩が定着すると、何がおきたかというと、大勢の人がわれもわれもと「詩」を書き出したんだそうです。たいがいは細かく行分けしただけの口語文であって、とても「詩」と呼べるものではなかったんだそうですが、そういうものをみんながいっせいにわあっと書き出したんだそうです。
 これはどうも、短歌関係の文章を読んでいると、『サラダ記念日』のブームの後におきたと書いてある現象によく似ている気がします。あのときもまるでカラオケで歌うような気やすさで、大勢の若者がわれもわれもと「短歌」と称するものを書き出したようです。やっぱり短歌って、詩の歴史を数十年遅れで追っているような印象をかんじました。
 さて、そんな誰もが「詩」と称するものを書き始めたとき、自分はそんな「その他大勢」と一緒にされたくないと、硬派の詩を目指した人たちがいたようで、日夏耿之介のようにやたら難しい漢字等を使う一派はこの時登場した「高踏派」とでも呼ぶべき一派だったようです。
 でも、それはたいてい、無知無学な連中と一緒にされたくないがための難解な表現、単に難解にするための難解さだったもので、読者を減らしただけでたいした成果も得られなかったものがほとんどのようです。(かろうじて日夏耿之介は名を残しているとおもいますが)
 なんか、そんなことを読んでいると、いつの時代も同じことを考える人間はいるんだなと思ってしまうのはぼくだけなんでしょうか。
posted by aruka at 21:12| Comment(0) | TrackBack(1) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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