2006年11月27日

平井和正の『死霊狩り』

 平井和正の『死霊狩り(ゾンビー・ハンター)』シリーズ、全3冊の、アスペクトから出た新装版の新書がブックオフで\105で売ってたんで、買ってきて読みました。こうしてマンガ家がイラストを書いた装幀で読むと、最近書かれたライトノベルみたいな雰囲気ですね。
 『死霊狩り』は前に1冊くらいは読んだ記憶があります。ウルフガイ・シリーズを読んでいたとき、どんなものか味見のため読んでみて、でもやっぱり既にお馴染みだったウルフガイの続きを読むほうがいいやとおもって、そのままになってしまったかんじです。けれど、2巻めの「あとがき」によると、当時これはウルフガイに匹敵する成功をおさめたシリーズだったそうで、たしかにあらためて読んでみると、これはこれでおもしろいですね。
 平井和正の作風はいくつかの時期に分かれるのですが、1979年に『幻魔大戦』を書き始めたあたりに大きな作風の変化があったと思います。それ以後はどれも長大な長編になり、速筆で次々に続きが出るようになり、内容の感じもかわってきます。
 個人的にはその変化する前の平井和正の作風のほうに愛着があります。ウルフガイと『死霊狩り』はその時期の平井和正を代表するシリーズといえるでしょう。
 その時期の平井和正をぼくはリアルタイムでは読んでないわけですが、当時の読者がどんなふうにこの『死霊狩り』に出会ったのか、試しにウルフガイや『死霊狩り』が書かれていた当時に平井和正が出した本をネットで調べて書き出してみます。(後に書名が変わったものもあり、また、非シリーズものの短編集は除いておきます)

 狼の紋章          1971.11   ヤング・ウルフガイ・シリーズ
 サイボーグ・ブルース    1971.12
 狼の怨歌          1972.01   ヤング・ウルフガイ・シリーズ
 死霊狩り 1        1972.12   ゾンビー・ハンター・シリーズ
 狼よ、故郷を見よ      1973.03   アダルト・ウルフガイ・シリーズ
 リオの狼男         1973.09   アダルト・ウルフガイ・シリーズ
 人狼地獄篇         1974.03   アダルト・ウルフガイ・シリーズ
 人狼戦線          1974.08   アダルト・ウルフガイ・シリーズ
 狼は泣かず         1974.10   アダルト・ウルフガイ・シリーズ
 狼のレクイエム 第1部   1975.07   ヤング・ウルフガイ・シリーズ
 狼のレクイエム 第2部   1975.07   ヤング・ウルフガイ・シリーズ
 悪霊の女王         1976.02
 死霊狩り 2        1976.10   ゾンビー・ハンター・シリーズ
 人狼白書          1976.12   アダルト・ウルフガイ・シリーズ
 死霊狩り 3        1978.01   ゾンビー・ハンター・シリーズ

 おそらく当時の平井和正作品のなかで最も読者を獲得したんじゃないかとおもわれる『狼の紋章』の2ヶ月後にはシリーズ2作めの『狼の怨歌』が出ています。しかし3作めの『狼のレクイエム』が出るのは3年半後と、読者はジリジリ待たされることになります。そんなときに『狼の怨歌』の約一年後に、読者の渇きを癒すように『死霊狩り』の1巻めが出たことがわかります。
 その後、なぜかアダルト・ウルフガイものが続くのですが、これは中短編集や長編であっても一作完結なんで、ヤング・ウルフガイや『死霊狩り』のように、この先どうなるんだろう……と思いながら続きが出るのを待つという感じのものではなかったとおもいます。
 そしてようやく『狼のレクイエム』が二冊同時に出て喜んだのもつかのま、また続きは出なくなり、そんなときに『死霊狩り』の2巻めが『狼のレクイエム』に遅れること一年、1巻に遅れること4年で登場、さらに一年ちょっとして3巻と、当時の読者にしてみれば、今度はそれほど待たされず、ちゃんと完結もしてくれた、という感じだったんでしょうか。
 この『死霊狩り』の3巻が出た翌年の79年には『幻魔大戦』が始まるので、これはこの時期の最終期の作品となります。

 たぶんこの時期は平井和正の青年期というのか、平井和正が青年・少年の貌をもつ主人公にとくに感情移入した時期だったんじゃないかとおもいます。ヤング・ウルフガイの少年・犬神明やこの『死霊狩り』の田村俊夫がその例でしょう。
 ヤング・ウルフガイの続編の『黄金の少女』(全5巻)は実に『狼のレクイエム』の十年後に書かれますが、これには主人公の犬神明が登場しません。さらに十年後に書かれる続編『犬神明』(全10巻)ではタイトルどおり犬神明は登場しますが、あんまり活躍しないし、すでに別の人といった印象があります。作者がもうシリーズ開始当時の少年・犬神明に感情移入できなくなっていたのではないでしょうか。むしろ『黄金の少女』のキンケイド署長など、中年男に作者が感情移入しているのがかんじられます。
 もともと平井和正は読者の要望に応じて器用に作品を作るタイプの作家ではなく、むしろ不器用さが魅力になっている作家ですから、作者が少年・犬神明に感情移入できなくなれば少年・犬神明が精彩がなくなり、登場しなくなってきてしまうのは仕方がないことだったんでしょう。
 ヤング・ウルフガイ・シリーズは『犬神明』で完結しますが、たしかにストーリー的にはそこで終わっているものの、内容的にいうと途中から別のものになっていた印象は拭えません。そこへいくと『死霊狩り』のほうはこの時期にちゃんと完結させておいてくれたことに感謝したいです。

 ところで平井和正が好きな作家の一人が大藪春彦であることはあちこちで読んだおぼえがありますが、この『死霊狩り』っていままで読んだ平井和正の作品中ではもっとも大藪春彦の影響を感じさせる作品でした。もっとも大藪春彦ならむしろ林石隆のようなキャラを主人公にしそうな気もしますが。
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2006年11月26日

テレビをみててちょっと…

 ずっと前、カート・ヴォネガット・ジュニアの小説を読んでいたとき、彼の代表作としては『猫のゆりかご』とか『スローターハウス5』とかが紹介されていることが多かったのですが、ぼくは何といっても『タイタンの妖女』だろうとひとりで思っていました。
 後になって爆笑問題の太田光さんがこの『タイタンの妖女』を特に好きな本としてあげていることを知りまして、ぼくは他にとくに理由もなく、あれを好きになる人ならきっと優れた感性をもつ人にちがいないと勝手におもっていたのですが、テレビで『もし太田光が総理大臣になったら』みたいな番組(タイトルうろおぼえです、すいません)をたまたま見てたとき、なんだこの程度の人だったのかとガッカリしてしまいました。戦争と平和をめぐる対話のとき、現実をまったく見ようとしないきれいごとばかりを言う太田さんの発言が嫌になったのです。
 ところが、この前の金曜日、たまたまテレビのチャンネルをあちこちにまわしてみてたとき、この番組をやっていまして、太田さんはいま問題になっている「いじめ」について、『いじめは無くなるものではない。だから「いじめを無くそう」などというきれいごとのスローガンを言うのではなく、現実におきている「いじめ」をしっかりとみすえて、それに対処していくことが大事なんだ』というようなことを提言されていました。
 きれいごとを信じることより現実を見ることが重要なんだとようやく気づいたようで、人間はやっぱり進歩していくものだなと、ぼくはおなじ『タイタンの妖女』ファンとしてうれしい気がしました。
 じっさい「いじめ」も「犯罪」も「戦争」も人間の行為として無くなるものではありません。もちろん無くなればいいと思うことだとはおもいますが、現実問題として無くなるものではないことを理解するリアリズムは必要であり、無くせるなどとおもう理想論によりかかってはいけません。
 だから、「いじめ」がゼロの学校などという理想論を信仰して、実際におきている「いじめ」を見なかったふりをするのではなく、現実をしっかり見すえて、その問題にきちんと対処することが大事です。もちろん「犯罪」も無くなることはありませんから、「犯罪のない、警察のいらない社会をつくろう」などといって、だから警察を無くそうなどと言うのは暴論であり、もちろん「戦争のない、軍隊のいらない世界にしよう」などといって、軍事力をもたない国家を目指すのも暴論です。
 しかし、ぼくが以前にこの番組を見たときには、太田さんは最後の暴論とおなじような平和主義を主張されているようにみえました。
 いったい、「いじめ」に対しては現実をしっかりと見ることが大事だと主張しておられた太田さんは、「戦争」に対しても事情はまったく同じなんだということに気づかれたのでしょうか。今後は彼の発言は変わるのでしょうか。
 たんに『タイタンの妖女』ファンとして共感するところが無いではない人間としては、ははやく気づいてもらいたい気でいるんですが。
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2006年11月22日

短歌「夜語り」


オルゴールが機械じかけの夜語りをつむぐ背中に雪の降る庭

この場所は粉雪だけがふる ならぶ柱の影だけ生きた手をもち

あたらしい時代を背負い墓掘りが森の氷の檻に下りてく

かいていの氷の部屋に棲む魚の思考がむすぶ貝の球形
posted by aruka at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月20日

アレキサンドル・ネフスキー

 エイゼンシュタインの『アレキサンドル・ネフスキー』を観ました。1930年代に撮った映画で、エイゼンシュタインの映画としてはとくに有名でも話題作でもないのでいままで見逃していたものです。
 いやあ、素晴らしいですね。エイゼンシュタインというとモンタージュ技法とか有名ですが、彼の映画を観るとむしろ1ショット1ショットの映像の力の強さが彼の一番の美質ではないかとおもいます。こんなに力のある映像は、最近の映画ではまずお目にかかれるものではありません。
 もっともこれは全体的な傾向でもあって、最近は映像が氾濫し、だれでも簡単に映像が撮れる時代になりましたが、それと反比例するかのように映像の質は落ちていっているとおもいます。エイゼンシュタインのように突出した映像作家を除いてかんがえても、一般論でいって昔の、映像を撮るのには多大な手間とカネがかかり、貴重だった時代のほうが、映像作品の質は高いのです。
 これはおもしろい現象だとおもいます。例えば文章なら、普段から書いている人のほうが書いてない人よりうまいのが普通で、何事もたくさん経験していればよりうまくなるのが普通です。しかし、なんで映像にかぎっては、低コストで誰でも簡単に映像が撮れる時代になるにしたがって映像の質が落ちるのでしょうか。
 その理由はいろいろあるんでしょうが、今回この映画を観ながらおもったことは、その理由の一つは、単純に映像が白黒からカラーに変わったという点にあるんじゃないかということです。
 ある時代までは映画はモノクロが普通で、しかしある時代からはカラーが主流になります。しかし、これって単純に進歩ともいえないものなんです。モノクロにはカラーにはない魅力・表現の力があるからです。
 一例をあげれば、ものの形・フォルムといったものはカラーよりモノクロのほうがクッキリと見えてきます。立体的な画面というのはモノクロ映画のものであって、カラーだとベターッと平面的な画面になってしまいます。
 例えば絵画でいうと、ピカソにはキュビズム時代という、ものの形のおもしろさを追求した時代がありますが、この時代のピカソの絵をみると、色彩はモノトーンに近い色調におさえてあり、もちろん油絵なんだからいくらでもカラフルな色が使えるのに、わざとモノクロに近い色にしてあります。フォルムを際だたせようとするとそうなるんでしょう。
 おそらくモノクロの映像による映像表現で成長した映像作家というのは、そうしたもののフォルムの美しさ、力強さによって表現することを工夫し、その結果生まれたのが、このエイゼンシュタインのような力強くて強烈なインパクトを与える映像だったような気がしてきます。はじめからカラーで撮りはじめた人は、よほど意識的にならないかぎり、そこには至れないのではないでしょうか。
 古い映画をみていると、サイレントからトーキーに変わったとき、モノクロからカラーにかわったときに、多くのものを得たのではなく、それ以上に多くのものを失ってきたようにおもえてきます。
posted by aruka at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画、ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月11日

恩田陸の本の装幀

 本が好きという人のなかには、本に書かれている内容が好きだという人と、それだけでなくて本というもの、そのものに愛着を感じるという人がいるんだとおもいます。
 最近、恩田陸の小説をハードカヴァーで何冊かまとめて読んだんですが、この人はたぶん本というものが好きな人なんじゃないかとおもいました。本の装幀がどれもすごくいいのです。
 装幀がいいというのは、単純にデザイン的に優れているという意味ではなく、こういった内容であればこういった装幀で読みたいと思うような装幀、装幀が内容をさらに印象づけ、補強しているような装幀ということです。
 今回読んだなかで、特に気にいった装幀というと『麦の海に沈む果実』ですね。この本の表紙は紫を基調としたイラストで、全体にこのイラストが内容の雰囲気を盛り上げています。この本は背表紙も良くて、背表紙にもイラストがあって文字がデザインされていて、本棚に並んでいるのを見ても雰囲気があります。全体は白い本ですが、花布(中身の背の上下両端に貼られた布のこと)が紫で、これが表紙のイラストの紫と合わせてあって良いのです。それにこの本は各章ごとに1ページぶんのイラストがあって、これがまた良い雰囲気です。なんとなく舞台の上の情景を思わせるイラストなんですが、1章ごとに「次の一幕が始まります……」といったふうに物語に引き込まれていくかんじがします。
 『月の裏側』も良いですね。こっちは黒が基調で、カヴァーも黒ならカヴァーをとった中身の装幀も黒で、オビをとって本を開くと、白いページの周囲に見える部分がぜんぶ真っ黒で、黒で縁どりされているように見えるのです。
 最近、評判になったらしい『夜のピクニック』は、これらに比べると表紙を見たときはイマイチかとおもったんですが、これは背表紙がいいですね。すごくシンプルでいて雰囲気があります。本文を読んでみると、ときどき一息つくように出てくるイラストが、内容での主人公たちも一息ついているようで、おもしろい効果があるとおもいました。
 その他にもいろいろ装幀がいい本があります。こういう装幀に作者がどこまでタッチしているのか知りませんが、これだけいい装幀が揃っていると、やはり作者自身の意図かなとおもえます。
 ぼくはかさばるハードカヴァーより場所をとらない文庫のほうが、持っているには便利だとおもっていますが、これだけこだわってくれるとハードカヴァーで持っていたい気になりますね。
posted by aruka at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 本、小説、マンガ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月08日

世界史の未履修

 さいきんニュースなどを見ていてばかばかしくなるのは、高校の世界史の未履修の問題です。なんていうか本質とかけはなれた、タテマエだけを話しているようなかんじがするのです。
 ぼくは高校の世界史は履修したはずだし、現在歴史が趣味ですが、ぼくの歴史の知識はほぼすべて授業とは関係のない自分で好きで読んだ本などによるもので、高校の世界史の授業が知識・教養として身についたわけではありません。それはたいてい、誰だってそうなんじゃないでしょうか。
 それは高校の世界史の授業というのは、歴史の試験でいい点をとるための授業であって、歴史を理解し教養を身につけるためのものではないからです。だから大学の入試で世界史の試験を受けないのなら、試験で点をとるためだけの授業なんて受けないのは有効な時間の使い方というべきであり、本質的には何の問題もないことじゃないでしょうか。
 そういった日本の学校の授業のありかたがはっきりとわかるのは英語で、たいていの日本人は中学・高校と6年間も英語の授業を受けているはずですが、学校できちんと勉強したために英語が話せるようになった、読み書きできるようになったという人とはまず会ったことがありません。現在の日本で英語が使える人というのはたいてい英会話学校に行ったり、自主的に勉強した人でしょう。
 なんで学校の授業では英語が使えるようにならないかはあきらかで、学校の英語の授業とは、英語の試験でいい点をとるための授業であって、英語が使えるようになるための授業ではないからです。もし英語が自由に話したい、英語が読み書きできるようになりたいと思うのなら、学校で6年間も英語の授業を受けているヒマがあったら英会話学校などに行ったほうがはるかに有効です。それでも学校で英語の授業を受ける理由は、試験で点をとるためという一点のみにあるのです。
 問題の本質は日本の大学にあることはあきらかです。日本の大学は入試偏重で、いわば大学で勉強をするところではなく、大学に入るために勉強するところになっています。そのため日本の大学生が勉強しないことは有名だし、逆に有名な大学に入るためには高度な受験テクニックを学ぶ必要があります。そのため高校までの授業とは結局その受験テクニックを教えることが目的となってしまうのです。
 しかし、その高度な受験テクニックというのは当然教養でもなんでもないので、入試をしない人間が身につけたって意味がないのです。
 現在、教師などがテレビに出て現在の高校・中学のどこが問題かを語ったりしてますが、問題の原因は大学のシステムにあるのだから、そこを変えないことには高校・中学がどう頑張ってもしかたないのはあきらかです。原因を断たなければ、対処療法だけでは所詮限界があるからです。
 つまり、日本の大学も、日本以外の先進国の大学がたいていそうなっているように、入試は簡単にして多くの学生を受け入れ、授業についていけない学生をふるい落としていくようなシステムにし、大学に入るために勉強をするところではなく、大学で勉強するところにすればいいんじゃないでしょうか。

 さて、こんな意見はまったくオリジナリティのある意見ではありません。ずっと前から、おそらく何十年も前から繰り返し指摘されていたことであり、おそらく誰もが前に何度も聞いたことがある意見だとおもうでしょう。
 しかし、こんなことは以前からいくらでも指摘されていたにもかかわらず、それでも大学のありかたはまったく変わってきませんでした。おそらく変えたくない人がいるのでしょう。
 しかし不思議なのは、大学のシステムを変えたくない人がなぜこのままがいいのか、変えたくないという意見を発言するのを聞いたことがないことです。いまだになぜ変えないのか、その理由がぼくにはわかりません。
 そして解せないのは、こういったことが問題になると、大学教授などといった肩書きをもつ人がテレビなどに出てきて、世界史の授業は必要だ、日本人は歴史の知識を身につけなければならない……などと空々しいタテマエをいいだすことです。
 歴史の知識が大事だと思うなら、単なる入試のためのテクニックを教えるものになってしまった現在の中学・高校の授業内容を根本的に変えなければならないのはあきらかだし、そうするためには入試偏重の大学のシステムを根本的に変えなければならないのはあきらかでしょう。それを放置しておいて、世界史の入試で点をとるためのテクニックを学ぶ授業を履修することが、なんで歴史の知識を身につけることであるかのように言えるのでしょうか。6年間英語の授業を受けても英語が話せないのと同じで、あんなものは履修したって世界史の知識なんて身につく授業ではないということはあきらかでしょう?

 結局、それでも未履修がいけないといえる理由は、履修している人もいるのにフェアじゃない、という一点につきるでしょう。
 しかし、それでは私立高校出身者と公立高校出身者を同じ入学試験で計るのはフェアなんでしょうか。聞いた話では世界史が履修しなければならない授業と決められているのは公立高校だけだという話ですが。
 なんでタテマエばかり話してて、本質に迫らないのかわかりません。
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2006年11月03日

『過去のない男』(アキ・カウリスマキ)

 アキ・カウリスマキ監督の映画、『過去のない男』を観ました。
 アキ・カウリスマキの映画は好きで、以前はちゃんと映画館に行って観ていた時期があります。けれど、ぼくの好みでは『コントラクト・キラー』が頂点で、その後に観た2、3本が、期待が大きずぎたのかイマイチの印象だったんで、ついに映画館に行かなくなってしまいました。そんなわけで、だいぶ前の映画ですが、ブラウン管での鑑賞となりました。
 けれど、これは良かったです。アキ・カウリスマキの映画を久々に観たんで新鮮な印象があるせいもあるのかもしれませんが、個人的には『コントラクト・キラー』に次ぐぐらいの傑作かなとおもいました。
 アキ・カウリスマキの良いところは、空気感とでもいうのか、画面の向こうに流れている風や匂いが感じられるところにあります。たとえばこの映画の冒頭近くの郊外の町の深夜のシーン、ガランとした深夜の町の静けさや吹く風の冷たさが感じられます。湖の近くのシーンでも、水の上を渡ってくる風の匂いが感じられるし、昼間の土埃が舞う道路の近くのシーンでも、焼けた土の匂いが感じられます。
 こういう感覚的なものって、単純にある人とない人がいて、きちんと演出されていて映像も美しく作られた映画でも、まったく感覚が無い映画もあります。(こういうのって、監督より撮影監督の差なのかな。でも、撮影監督の選択も含めて監督による差があるとおもいます)
 小説でもありますね。感覚に訴えかけてきて別の世界に行ける小説と、単にストーリーだけがあって感覚がない小説と。
 『過去のない男』と『コントラクト・キラー』と共通するところは、地に足がついてない感じというか、とりあえず「生」を引きのばされているような感覚にあります。
 『コントラクト・キラー』の、自分が依頼した殺し屋に殺されるのを待っている主人公、『過去のない男』の過去を失ってしまって自分が何者かわからない主人公、それらはストーリーがあまりに単純で工夫がないだけに、むしろ現代をとりあえず生きている現代人の原型のような感覚をかんじさせるのです。
posted by aruka at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画、ドラマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月01日

短歌「にんげんの飼い主」


にんげんの飼い主 きみは羊飼いみたいな目なんてしてない きっと

死んだ後は墓に入って並ぶ 整列してる 死んだあとでも

テーブルは白い布だけかけられて少女と森のあいだで黙る

石柱が立ち並ぶ部屋 夢のない少女は森に迷い込んでく
posted by aruka at 01:54| Comment(0) | TrackBack(1) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

清純派アイドルとしての歌人

 斎藤美奈子の『文壇アイドル論』を読みました。まえに俵万智について別の本に引用されているのをみて、読みたいとおもっていた本です。
 これはおもしろかったです。内容は、俵万智のほかに村上春樹、吉本ばなな、林真理子、上野千鶴子、立花隆、村上龍、田中康夫といった面々を、おもに文化現象の面から論じていった本で、個人的にはここで扱われている人はほとんど読んでこなかった人が多いんで、こういう人だったのか……という面も含めて楽しく読めました。とくに吉本ばななとか、一般的な文芸批評なんかよりずっと本質を突いているんじゃないかと思うことが多かったです。
 でも、ここでは俵万智についての部分のみについて書きます。この部分もおもしろかったです。

 筆者はまず『サラダ記念日』のヒットを短歌の伝統とはまったく関係なくて、80年代のコピーライトのブームや、「ポエム」、ライト感覚の文章のブームから派生したものと位置づけています。(「ポエム」とは少女マンガのイラストを添えた甘い詩風の文章から派生したもので、立原えりか、みつはしちかこ、銀色夏生……などが有名ポエム作家だそうです。どれも読んでないや)
 そして、その『サラダ記念日』に飛びついたのがいままで短歌なんかまったく読んでいなかったオジサンたちであること、そして『サラダ記念日』を物語として読むと、そうとう古くさいタイプの男女がおりなす古くさい物語であることを指摘し、これは古い感性を新しい袋に盛ったために万人に受け入れられたんだと指摘します。
 そして、『サラダ記念日』以後、これに続いて売れた歌集が出ないのは、これがもともと短歌として売れたわけじゃないからだと指摘し、むしろ『サラダ記念日』の後に続いたのは「サラリーマン川柳」や『日本一短い「母」への手紙』、「相田みつを」だったと指摘します。
 ここにはあげてありませんでしたが、「326」とか「枡野浩一」といった人たちも俵万智の後継者といえるのではないでしょうか? 「金子みすず」の再評価もこのラインでしょう。(もっとも、ぼくはこういうの嫌いなんで読みませんから、まったく間違っている人もまじってるかもしれません)

 さて、タイトルの『文壇アイドル論』という意味ですが、この本では俵万智はつまり「清純派アイドル」なんだといいます。たしかに……、そうおもうといろいろなことが一気にわかってきます。
 「清純派アイドル」というのは芸はなくていいもので、とくに80年代型の「清純派アイドル」は歌手であっても歌唱力は要らなかったわけです。あまりに芸が巧みだと逆に「清純派」っぽくなくなってしまうところがあって、むしろ芸なんかないピュアさをウリにするのが「清純派」だったといえるでしょう。
 とみると、『日本一短い「母」への手紙』〜「相田みつを」〜「326」といった、ピュアさの系譜が浮かびあがってきます。
 いずれも技巧も芸術性も思想もないことを売りにし、大の大人が恥ずかしげもなくこんなことを言うか! とおもうようなことを、真っ直ぐに言い切ったところに人気の秘密があるのでしょう。
 そう考えれば「枡野浩一」も「清純派アイドル」だったこともわかってきます。「加藤治郎」も「穂村弘」も多分に「清純派アイドル」を目指している要素をもっている気がします。

 さて、そう考えると、ぼくがある種の短歌に感じていた違和感もわかってきた気がします。どうもぼくはこの「清純派アイドル」路線が好きじゃないんです。「相田みつを」とかとかとは無縁でいたい人間です。
 たぶん、こういう「清純派アイドル」を目指している歌人への違和感が、ぼくの現代のある種の短歌にたいする嫌な印象を形成しているようです。

 しかし、この「清純派アイドル」路線っていうの、まだ続くんでしょうか。
 ぼくはそんな素人芸っぽさ、ピュアさをウリにした80年代型の「清純派アイドル」というのは、短歌以外のジャンルではとっくに絶滅してるんじゃないかとおもってるんですけど。
 つまり、宇多田ヒカルの大ヒットに代表されるように、90年代以後はティーンの少女歌手であっても、むしろ歌唱力・実力のある歌手のほうが売れるようになってきたと思うのです。現在のアイドル女優も、むしろしっかりとした演技力をもっていることが人気につながっている気がしますし、グラビア・アイドルからテレビのバラエティー番組へ進出している場合でも、トーク力を鍛えたり特異なキャラクターを押し出すなどして、実力で人気を得ているケースがほとんどでしょう。
 でも短歌の世界ではまだ「清純派アイドル」路線なんでしょうか。
posted by aruka at 01:51| Comment(0) | TrackBack(5) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

短歌や詩を読む

 どうもぼくは詩というとロック(洋楽)の歌詞から入って、外国の詩へ行ってしまったので、短歌や日本の詩といったものをほとんど読んだことはなく、最近まで、書くのはともかく、短歌や日本の詩といったものを読む習慣というのがなかなかつかなかったのですが、最近になってようやく読むようになってきました。というのは、自分の好みというのがどのへんの作品なのかわかってきたということでもあります。
 短歌についていえば、中井英夫が『黒衣の短歌史』で推している歌人は良いとおもう人が多いです。例えば戦後にかぎっていえば、葛原妙子、塚本邦雄、寺山修司、春日井建、浜田到、山中智恵子、などです。それ以後の人のなかでは、最近、小中英之という歌人の作品が良いと発見しました。
 日本の詩というのも今までほとんど読んだことがなかったんで、いろいろ読んでみたのですが、正直いうとぱっと見渡してみたところ、短歌より詩のほうがおもしろいとおもう人が多いです。けれどどうもその理由は定型短詩と自由詩との形式的な違いによるものじゃない気がするのです。
 どうも短歌のほうは、優等生的な雰囲気をかんじる人が多いのです。よくわからないですが、短歌の場合、こういうのが良い短歌であるという基準みたいなものがあって、みんながそこを目指して書いているような、つまりその基準から大きく外れてとんでもない方向を目指してしまう人が少ないような雰囲気を感じるのです。
 けれど創作物の魅力の多くはオリジナリティにあるので、例えば斎藤茂吉が一人いれば斎藤茂吉を目指してその近くまで到達した優等生なんて実はいらないし、塚本邦雄が一人いれば、塚本邦雄みたいな短歌を書く別の人というのもいらないわけで、そんな人の作品を読むくらいなら、まったく違ったオリジナリティをもった歌人の作品のほうが読みたいとおもうものでしょう。
 その点でいくと、詩のほうが、時代々々によっていろんなことを試みているいろんな詩人がいて、ぱっと見渡したところずっと多様性があっておもしろいとおもうわけです。
 といっても、オリジナリティがあればいいというものではなく、変わったことをしていればいいというわけでもありませんけど。

 それでもぼくは、そもそも短歌とか詩というものを、息抜きくらいの気持ちで書いたり読んだりしたいという気持ちがあって、そうするとあんまり長い詩よりも、一息で読める短歌や短い詩のほうを読みたい気持ちがあったりします。
 とくに行替えがまったくなくびっしりと書かれた散文詩って、読まれることを拒否しているように感じてしまうのはぼくだけなんでしょうか。
posted by aruka at 00:51| Comment(1) | TrackBack(1) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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