2008年08月29日

短歌


夏草を濡らす細雨におほわれてとほくへ続く廃線の軌道



繊き窓そらより降れば屋上で蒼きおもてをあぐる少年


噛み殺したるはかなきものを牙もたぬ獣は恋へり消えゆく森で


月なき夜海になだるる野ねずみは平和のゆめに囚われてゐき


すがたなき巨鳥の群れ降りおちる天球の闇底なく近し


人のかへらぬ中庭はやがて廃園となり水盤に浮く果実
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2008年06月29日

能(謡曲)って

 どうも和歌というものが藤原定家が活躍した時代にひとつの頂点をむかえ、その後停滞していったということがわかってきました。ではその後、日本の詩というものはどうなっていったか、ほんとうに芭蕉の俳句あたりまで停滞しつづけたのかというと、どうも観阿弥・世阿弥などの能(謡曲)というのは定家時代後の日本の詩の新しい展開だったんじゃなかったのかという気がしてきて、すこし能(謡曲)というものを読んでみることにしました。
 西洋であっても戯曲というのが詩の言葉で書かれるのは普通だし、だからシェイクスピアなど名劇作家は同時に詩人でもあります。そして能(謡曲)というのも詩の言葉で書かれているようです。そうおもうと、能(謡曲)は日本における長詩というべきものではないかという気がしてきて、いやがうえにも興味が高まったのです。『神曲』を読んで以来、日本にもこういったタイプのものはなかったのかと探していたからです。

 それで能の台本であるという『謡曲』の本を本屋で探してみたのですが、少なくともぼくが住んでいる周辺では謡曲の本というのはなかなか売ってなくて、探しまわったすえに新潮日本古典集成の『謡曲集(上)』も古本をようやく見つけて買ってきました。で、読んでみたのですが、これがやたらにハードルの高い、とっつきにくいものでした。
 その理由は、なにより読み慣れない書式・表記方法にあります。
 つまり一般的な戯曲の書式……、まずどこの場かが説明され、ト書きなどで登場人物の動きが説明され、セリフの行頭にはそれが誰のセリフなのか、名前が書かれている……という書き方ではありません。
 場の説明は無く、登場人物の動きはセリフの横に別色の小さな活字でほんの少し書かれているだけ、そしてセリフの前には話者の名前ではなく、小さな活字で「シテ」とか「ワキ」「ツレ」とかだけ指定されています。まあこの「シテ」とか「ワキ」とかは何のことかは予備知識がありましたし、付いている登場人物表を見ればその「シテ」が誰のことなのかもわかります。しかしわからないのは行頭に書いてある「サシ」とか「上ゲ歌」とか「クドキグリ」とかいった言葉で、これは本のどこを見ても何のことなのか説明がありません。(ぼくが見つけられないだけなんでしょうか?)
 場の説明などがないのは能の上演形態として理解はできます。能では舞台セットなどないわけですから。
 しかしなんで誰のセリフかを示すのに名前ではなく「シテ」とか「ワキ」とか書くのでしょうか? 読んでる人間からすれば、「ツレ」とかが出てくると、これって誰だっけといちいち登場人物表を見ながら読んでいくより、行頭に名前を書いてもらったほうがわかりやすいとおもうのですが。
 もっとも、能の世界を扱ったマンガ、成田美名子の『花よりも花の如く』を少し読んでみたところ、この事情も少し理解はできました。どうも能では演者は「シテ」の役者は「シテ」専門であり、「ワキ」の役者は「ワキ」専門なんだそうです。となると、演者からしてみると、それがどの登場人物のセリフかと書くより、シテのセリフなのかワキのセリフなのか書いたほうが、わかりやすいのかもしれません。
 しかし、謡曲を作品として読もうとする読者から見ればどうなんでしょうか。やっぱり誰が言ったセリフなのか名前を書いてくれたほうがわかりやすいんじゃないでしょうかね。
 それに、「サシ」とか「上ゲ歌」とかはどんな意味なんでしょうか。どうしてそういう専門用語の意味を説明しないんでしょうか。
 それこれみてみると、どうもこの新潮日本古典集成の『謡曲集(上)』という本は、能の演者か、あるいは既に能を知っている人向けの本であって、これで初めて能(謡曲)というのを読んでみようと思っている人間に理解できるように書かれた本ではないようです。
 わからないなら入門書でもないかと探してみたのですが、これもぼくの探し方がわるいのか、初心者向けにわかりやすく書かれたものが見つかりません。(ときどき思い出したように、たいてい古本屋で探してみるだけなんで、ほんとに探し方がわるいだけかもしれませんが)
 いままで見つけた能の解説本は、どれも既に読者が能を知っていることを前提として、より深く分析していくタイプのものでした。もちろん、こういう本はこういう本であっていいものなわけですが、なにしろこちらは初心者で、専門用語も何もわからない状態なんで、そういう人向けにわかりやすく解説したものもあってもいいと思うのですが、見つかりません。
 けっきょく、わからない専門用語はぜんぶ無視するしかありません。
 そんなわけで、なんだかやたらハードルが高くて、読みにくくて、だったら読まなければいいともおもうのですが、もちろんつまらなければ読むのをやめるのですが、これが読んでみるとおもしろいのです。     
 でも、とにかく読みにくくて、それに、わからない専門用語を全部飛ばして読んでるわけなんで、一体どこまで理解できてるのかという隔靴掻痒感みたいなものをかんじます。

 でも、『謡曲集』というのが初心者にはわからないように書かれたものであり、初心者向けの入門書も見つからない状態だとすると、能(謡曲)っていうのは、どこからアプローチしていけばいいもんなんでしょうか。
 そんなことを思っているうちに、テレビ(NHK)で能の番組を放送したので、録画して見てみました。本を読んでわからないなら、舞台を見るのがいいのかとおもったわけです。が、これもやっぱりハードルが高いというか、初心者が見ていきなり感動できるという感じは受けませんでした。正直、初心者として初めてオペラの映像を見たときのほうがよほどわかりやすかったです。日本人としてどうなんだろうという気もしてしまいましたが。
 とくにこっちは詩としての謡曲に興味があって見るわけなんで、そうすると、あの独特のスローテンポで読み上げられると、その演出・音楽的効果のほうが印象的で、あまり言葉の内容が頭に入ってこないきがします。
 もちろんこれもテレビなんかで見るから魅力がわからないのであって、実際の舞台に接しなければ能の真価はわからないと言われれば、それはそうなんでしょうが、最初はやっぱりどこか手近なところからアプローチしたいものです。
 それにしても、テレビで見た能は、あれは照明をあて過ぎなんじゃないでしょうか。舞台の隅々まで明るく照らしだされて、暗い部分など少しもないようになってますが、能ってもっと暗闇のなかから演者がぼんやりと浮かび上がってくるような照明でやるもんなんじゃないでしょうかね。少なくとも謡曲を読んでいると、背後に闇をかんじるのですが。
 それとも、演者の仕草はすべて明瞭に見えたほうがいいという考え方なんでしょうか。

 いろいろやってみましたが、やはり能(謡曲)って、本を読むところから入る方法っていうのもあってもいいんじゃないでしょうか。それが正しい入りかたかどうかはわかりませんが、そうしちゃいけないわけでもないでしょう。
 だとすると、現代語訳なんてしなくてもいいですが、せめて書式だけでも一般の戯曲と同じようにした謡曲集を出してくれれば、一般の読者にとってもっととっつきやすい、読みやすいものになると思うんですが、そういうわけにはいかないもんなんでしょうかね。
 それとも、そういう書式で書かれた本も既に出ているのでしょうか。なにしろこの新潮日本古典集成の『謡曲集(上)』もようやく見つけたというかんじなんで、他にどんな本が出ているのかもよくわからないのですが。
 現在、本屋に行けば、シェイクスピアなどは、いろんな種類の文庫本で出ていて入手しやすいし、読んでもわかりやすいです。しかし、そんな外国の戯曲が入手しやすく読みやすい一方、自国の文化である『謡曲集』が、本も入手しずらく、入手してもやたら読みづらく、読みやすくするための入門書もなかなかないというのは、やはりどっか問題があるんじゃないでしょうかね。
 ちゃんと読めればおもしろいものだとおもうのですが。
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2008年05月10日

『方丈記』を読んでみる

 短歌に興味をもったのもいい機会かとおもって、日本の古典というのを原文で読んでみようかとおもってるのですが、では何を読むかとなると、やはり『源氏物語』は外せないでしょう。そんなとき、たまたまブックオフで角川文庫の『源氏物語』の1巻が\105で売ってたんで、すこし原文で読んでみました。が、結果からいえば、やっぱりやめて後回しにすることにしました。
 短歌を通じて古文もけっこう抵抗なく読めるようになった気でいたんですが、『源氏物語』は難しいようです。なんていうか、文章が伝えたいことをきちんと書くのではなく、はっきりと書かずに行間からニュアンスで伝えていくような書き方をしてるような気がするのです。それはある意味、豊富なニュアンスに富んだ表現というべきで、高度な手法なのかもしれませんが、古文がようやっと読めてる程度の読解力ではこういった文章は難しいのです。といって現代語訳を読むのでは意味がないので、急がば回れで、『源氏物語』は後まわしにして別のから読むことにしました。
 そんなとき『定家明月記私抄』を読んでいて、同時代の作品ということでよく『方丈記』の名が出てきたので、『方丈記』を読んでみました。
 こっちはすごく読みやすく、ぼく程度の読解力でも現代語訳を参照にせずともするすると読んでいける文章でした。しかし『方丈記』って学校でも習ったような気もするのですが、まじめに聞いていなかったのか、こういう内容だったのかと今回初めて知ったようなかんじです。
 前半は当時の事件・天変地異など書いてありまして、後半はいわば世捨て人の独白になります。「方丈」ってこういう意味だったんですね。世の中が荒れてくると、世間を離れて小さな世界で心の平安を得るというのは、なんだか戦国時代に茶の湯が流行ったのとも通じるような気もしました。
 印象にのこったエピソードは養和の飢饉のとき、京に四万ニ千人あまりの餓死者が出たという記述が『定家明月記私抄』に載ってたのですが、その四万数千人って数はどうやって計ったのかと思っていたのですが、それがここに載っていました。あるお坊さんが餓死者をあわれにおもって、しかしあまりに数が多くてちゃんと弔うことができないので、使者の額に「阿」という字を書いて弔い、その数を数えたところ、四、五月に左京の範囲内で四万ニ千人あまりだったと書いてありました。つまり、その二月の前後の餓死者、さらに左京の範囲外の餓死者も含めると、さらに数が増えるようです。それにしても僧があふれかえる死者の額に「阿」の字を書いていく姿というのは印象的です。
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2008年05月07日

堀田善衛『定家明月記私抄 続篇』を読む

 堀田善衛の『定家明月記私抄』の続篇のほうも読み終わりました。定家の後半生は前半生にも増して激動の時代だったようで……。後鳥羽院がおこした承久の乱によって当時の宮廷文化は崩壊したというあたり、承久の乱というのは政治的な事件だった以上に文化的な事件だったんだなと理解しました。それに、やはり爛熟の後には崩壊が来るんだなと妙に納得もしました。もっとも、定家はというと承久の乱以前に後鳥羽院の怒りをかって冷や飯を食わされていたために、かえって乱以後収入が増えて生活が安定するあたり、時代の皮肉というのもかんじます。
 それにしても、承久の乱の実体というのはどんなものだったんでしょう。手元にあったんで井沢元彦の『逆説の日本史』の5巻を読みかえしてみましたが、これでは後鳥羽院はけっこうな戦略的頭脳をもって乱をおこしたように書かれています。でも、この『定家明月記私抄』でみると、むしろ後鳥羽院の平和ボケが乱の原因のようにみえます。
 つまり、後鳥羽院が熱心だったのはひたすら敵の滅亡と味方の勝利を「祈る」ことだったようで、軍は集めてみたものの指揮命令系統さえはっきりせず、はたしてちゃんと勝とうとする意志があったのか、考え方が少しも実践的ではありません。
 どちらの後鳥羽院像が真実に近いものなんでしょうか? ぼくはどうも『定家明月記私抄』に書かれている現実離れした平和ボケにみえる後鳥羽院像のほうが、むしろ真実に近いようなリアリティを感じたのですがどうなんでしょう。
 とうのは、公家なんて平和ボケだったといいたいわけではなく、当時の人間のものの考え方というのは、現代に生きる人間には理解のおよばないところが多いんじゃないかと思うからです。
 それに、現代の日本人の平和ボケぶりだって、考えてみれば後鳥羽院の態度とさほど遠くないところがあるとも感じます。
 当時の日本の治安が徹底的に悪化し、戦乱の世になったのは、平安貴族が「軍隊を無くせば平和になる」という迷信を信じて、本当に軍隊を廃止してしまったのが原因ですが、この「軍隊を無くせば平和になる」という迷信を信じている人間って現代の日本人にもけっこういて、テレビでそんな大ボケな主張を繰り返してさえいるでしょう。さらには「平和憲法が戦後の日本の平和を守った」などと主張する日本人さえいるではありませんか。いったい「平和憲法」が超自然的なパワーを発して敵軍を追い返してくれると本当に信じているんでしょうか? これは後鳥羽院の軍事をするより「祈る」ことで勝利が得られると信じていた態度とそう変わらないんじゃないでしょうか。
 いつの時代も戦乱を引き起こすのは権力者の「妄想」であり、そんな「妄想」というのは、それを信じて実践する本人は「理想」だと思い込んでいるものです。
 ともあれ、宮廷文化の崩壊によって和歌(=日本の詩)は凋落し、その後、松尾芭蕉が登場するまで400年かかったというのが作者の意見のようです。
 その点でいえば、現代は短歌とか日本の詩にとってどんな時代なんでそうか? やっぱり凋落の時代かなあ。
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2008年05月03日

院政って

 堀田善衛の『定家明月記私抄』の正篇を読んでから、ちょっとこの時代に興味をもちまして、続篇を読むのをおいて、いろいろな本でこの時代のことを拾い読みしました。
 定家が活躍したのは後白河院から後鳥羽院におよぶ、いわゆる「院政」の時代にあたります。ぼくは歴史を趣味にはしてきましたが、歴史といっても興味のある部分とない部分があり、このへんの院政とか公家文化にはいままで興味がなく、なんで「院政」なんてややこしいことをしたのかわからないできました。天皇の座を退いてから権力をふるわなくたって、天皇のまま力を発揮すりゃあいいじゃないかと思ってきたわけです。
 しかし、ここにきてようやくこの「院政」なんてことをする理由がわかってきた気がしました。
 というのは、どうもそれはこの時代の宮廷文化というのが理由のようです。

 どうもこの時代は日本に、いわゆるサロン的な宮廷文化が生まれた時代のようです。後鳥羽院という人を見てみますと、この人は歌においても名人なら、当時のさまざまなスポーツのようなものも率先してやるような人だったようです。ところが、宮廷でそういった、いわばゲーム的な文化をしようとするなら、身分上の上下関係をいったん無しにしてやらなきゃ面白くないわけですね。そうしないと永遠に続く接待ゴルフみたいなもので、歌合などやっても常に身分が上の者が高い評価を受けなきゃならないし、スポーツやっても上の者に勝たせなきゃならない。そんなんでは身分が上のほうとしても面白くないわけです。
 おもしろくするためには、そのゲームの内においてはいったん身分の上下関係は無しにして、対等な立場にしなければならない。でも、天皇は神聖なものなんで、天皇の権威を引き下ろすことはできない。他の貴族がゲームで天皇に勝つわけにはいかない。となると、天皇は位は幼い皇子にゆずって、天皇は宮廷の外において宗教的な行為に専念してもらうことにする。そしてその天皇も年をとると天皇の位をさっさと幼い皇子にゆずって、自分は世俗化し、宮廷文化に加わる……ということをやっていた。それがいわゆる「院政」の時代だったようです。
 つまり、こういったサロン的な宮廷文化というのは、貴族階級の身分上の上下関係が弱まって、最高権力者の世俗への下降指向みたいなものが出てきたときに生まれるもののようです。
 後白河院は当時の庶民の「はやり歌」を集めて『梁塵秘抄』を編んでいますが、これも当時の公家の庶民文化へあこがれる下降指向の産物とみてよいようです。フランスのブルボン朝の末期にマリー・アントワネットは当時の農村のテーマパークみたいなものをつくってその中で遊んでいたという話ですが、そういった貴族の庶民へのあこがれみたいなものは、文化の爛熟期に出てくるもののようです。
 ということは、院政の頃の日本の宮廷文化というのは、ブルボン朝の末期のように、爛熟していたということなんでしょうか。
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2008年04月27日

堀田善衛『定家明月記私抄』を読む

 藤原定家に興味をもったあたりから、そのうち読もうとおもっていた堀田善衛の『定家明月記私抄』を、とりあえず正篇だけ読みおわりました。やはりおもしろかったです。
 この本は定家のこのような歌を観賞することからはじまります。


雲さえて峯の初雪ふりぬれば有明のほかに月ぞ残れる         藤原定家


 堀田善衛はこの歌の「雲さえて」「峯の初雪」「有明」「月」と蒼白のイメージだけを重ねあわせるだけで歌を構成する技術の見事さを、絵画的であると同時に音楽的でもあり、それだけではなく月が残ったまま明けてくる夜の動きまでが全的に表出されているといって賞賛し、これは高度きわまりない段階まで達した高踏的な文化の産物であるといっています。
 が、同時に、しかしだからといってこの歌の背後にはいかなる意味も思想もなく、美しい音楽がおわった後に残るのは虚無ばかりではないかという疑問も呈しています。
 この本は堀田がその二つの見方に傾斜していく気持ちをかかえたまま、定家の日記である『明月記』をみていくという内容です。

 ぼくがまず意外だったのは、ぼくはどうもよく考えもせず、定家とか新古今というのはこういった優雅で技巧的な歌が多いので、安定した宮廷生活をおくっていた歌人なんかが詠んだ歌というイメージを抱いていたのですが、どんな時代かを考えればとっくに気づいていなければならなかったのですが、定家が生きたのは京都に暮らす公家にとって激動の時代です。
 まず定家の若い時代というのは、平家による京都の支配から戦争がおき、源氏が権力を握った後までの戦乱の時代であり、堀田善衛はこのへんの『明月記』の文章を読むと第二次世界大戦の頃を思い出すと書いています。空襲の下で暮らしているような極限の状況だったわけです。
 さらに当時の京都の治安は最悪の状況で、地方から大量の人口が流れ込むと同時に、盗賊の類も激増し、定家の隣りの家にも強盗が堂々と入ってくるという始末。さらには飢饉がおきて京都だけで4万からの餓死者が出たりというすさまじさです。
 さらに定家が歳をとつにしたがって、武士の台頭に反比例して定家ら公家の収入は右肩下がりで減っていき、生活も貧窮をきわめていくという状況……。
 こんな状況下で、しかしそんな現実を題材にすることなく、上のような幽玄な歌ばかりを詠みつづけるというのは、これはやはり思想がないんじゃなくて、これもまた思想的態度であるとしか思いようがありません。
 たとえば最近の911テロ以後の戦争や、遡って湾岸戦争など、少なくともたいがいの日本人にとって直接巻き込まれたわけですらない戦乱をどれだけの歌人が題材にしたのかという事実と比べてみると、そういった現代の歌人と定家は骨の髄まで違うタイプの人間だと考えるべきでしょう。
 では定家とは何者なのか。それはもう少しゆっくり見ていきたいところです。

 最後に好きな定家の歌を少し引用しときます。


梅の花にほひをうつす袖のうへに軒漏る月のかげぞあらそふ       藤原定家

霜まよふ空にしをれし雁がねのかへるつばさに春雨ぞ降る        藤原定家

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫        藤原定家

ひとり寝る山鳥の尾のしだり尾に霜おきまよふ床の月かげ        藤原定家

白妙の袖のわかれに露おちて身にしむいろの秋かぜぞ吹く        藤原定家

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2008年04月05日

短歌

花降れる夢幻の庭を往く夕の霄は静寂の内にとざされ


遊民は風の聖座で想いをり夜空に満つる数式の果て


時果つる森のほとりに立つ鳥の睡りの内に密む星空


珪石の卵の内なる庭園の噴水の音のひびく夜なり
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2008年04月03日

短歌と「雅(みやび)」とマニエリスム

 さいきん短歌というものの根拠は「雅(みやび)」というところにしかないんじゃないかという考えが確信にかわってきています。そこを離れてしまうと、つまりは言葉を57577に合わせてみる言葉アソビにしかならないからです。短歌に興味をもちはじめた頃には、(もの珍しさもあって)そんな日常の言葉が57577にぴったりとおさまっているとうだけの「短歌」にもそれなりのおもしろさを感じてはいたのですが、そういうのはやはりすぐに飽きます。短歌の短さではたいした内容は書けないので、日常の文章という基準で読んでしまうと、底が浅すぎてすぐに飽き、くだらなくて読めたものじゃなくなります。となると、そういった日常語による「短歌」というのは、けっきょく青少年のための投稿ゴッコとしての使い道しかありません。つまり、自分できちんとした文章を書けないような青少年が、57577の形式を借りて自分の思いを書いてみて楽しみ、一、二年以内には飽きて卒業していく。そして後になって、そんなものを書いて楽しんでいた頃の自分を、若気の至りとして恥ずかしく思い出す……といった、その程度のものとしての「短歌」です。もちろんそんな行為が短歌の新しい可能性を切り開くなんてことはありえないでしょう。
 でも、短歌というものをそんなくだらないものではない、それ以上のものとしてとらえようとするなら、ほぼ31字の短詩形式にこだわる理由は、やはり「雅(みやび)」というところにしかないんじゃないでしょうか。
 となると、ぼくが最近疑問にかんじているのは、いったい正岡子規がおこなった「近代短歌」という改革は、ほんとうに良いものだったんだろうかということです。
 ぼくは短歌に興味をもちはじめた頃、新聞短歌などによく見られるような、身辺雑記風の内容を文語で書いただけの短歌にかなり疑問をかんじました。日々のちょっとした思いのようなものを、わざわざ読者が親しみにくいような文語で書いて、それでちょっと高尚な文学風になったかのように気取っているだけのようなものに見えたからです。日々に思ったちょっとしたことを読者に伝えたいのなら、文語なんかではなく読者に親しみやすい現代語で、わかりやすく伝えるのが本当ではないかと思いました。歌人がなぜ文語なんてものを使いたがるのかが理解できませんでした。その気持ちは、もしそれらの短歌がそのようなものであるかぎりは変わりありません。
 しかし「雅(みやび)」の立場に立つのなら、むしろ短歌とは日々のちょっとした思いを読者に伝えるために書くものではないのであって、ぼくが疑問をもつべきだったのは文語を使用することより、身辺雑記風の内容のほうだったのかもしれません。
 そもそも短歌とは、江戸時代まではそのような身辺雑記を書くものではなかったわけで、むしろ花鳥風月など「雅」の世界をたのしむための「風流」としてあったもののようです。それが身辺雑記になったのは、おそらく正岡子規が提唱した「写生」という方法論が、さらに私小説などの影響を受けてきた結果のようです。でも、そうだとしたら、いったい「写生」したり私小説的な内容を書くためになんで57577の短詩形にこだわらなければならないのか、そこのところがわからなくなります。ぼくが感じていた疑問はつまりはそこにあったようです。そして多分、その疑問は散文的な意味での「写生」という方法論を前提とするかぎり、解けないもののような気がします。
 やはり短歌というのは「雅(みやび)」とは切り離せないものなんじゃないでしょうか。そう考えると、むしろ近代短歌というのは短歌の歴史のなかで、当時の時代の影響を受けすぎた奇妙な時代だったのではないかという気にもなってくるのです。

 さて、しかしこの「雅(みやび)」というものは、小西甚一の『中世の文藝』には「既に完成されているとするある表現こそ永遠のいのちをもつものだとする考え、そこを目指していくような考え方で、『古典主義』に近いもの」というような説明がなされていたのですが、それはその通りに考えていいのかわからなくなってきました。
 それは前に書いた、塚本邦雄と澁澤龍彦〜種村季弘あたりの文化圏との共通性を考えたときに、象徴主義〜オカルティズムという共通点のほかに、当然、マニエリスムという点もあるんじゃないかと後から思いついたからです。
 このマニエリスムというのは日本では1960年代に種村季弘が訳したホッケの『迷宮としての世界』や『文学におけるマニエリスム』といった本が読まれて当時の若者のあいだで流行ったものでもあるようなんですが、定義としては「古典主義」と対立するもので、本来のありかたとは違ったほうに興味がずれていくような傾向、例えば言葉でいえば、その表している意味よりも、文字の形や響きのほうに惹かれるような心性のことをいうようです。
 そういうふうに定義すると塚本邦雄にはマニエリスムの傾向があるし、たぶん新古今和歌集あたりにもマニエリスムの傾向がかなりあります。さて、しかし新古今あたりは江戸時代まではむしろ短歌の理想とすべき古典として読まれていたはずで、そう考えるとこの「古典主義」という言葉の意味をどうとらえたらいいのかわからなくなってきたわけです。

 いずれにしろ、ぼくは正直いままで古典なんてものに親しんで生きてはきませんでした。日本の古典文学で読んだことがあるのは、歴史への興味の関係から万葉集の一部を読んできた程度です。
 それで、これもいい機会かなとおもって、いま少しづつ古典を読みはじめてみているところです。いままであのような文章は、それこそ学校で無理やり読まされるのでなければ、原文で読もうなんて思いもしなかったのですが、短歌を読んできたことをとおしてずいぶん読みやすくなっている自分も発見しました。
 やはり短歌というのはこういった古典文学と地続きでやるものなのではないかと実感しているところです。それを古典主義と呼ぶのかどうかはまだイマイチわかりませんが。
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2008年03月13日

呪文 2


オフェーリア流れる川岸に立ちて少女は溟き腰部をもてり

狭霧たつ彼方に黒く聳えたる無数の塔が揺らめく水面

風の舟こへ失ひし人らのせ砂の樹海をただよひゆきぬ

閉ざされし館の閉ざされし庭で月のひかりは徴となりつ

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2008年03月09日

短歌とオカルティズム

 塚本邦雄という人の作品を最初に読んだとき、ぼくは澁澤龍彦とか種村季弘といった人たちの文化圏と似ているような気がしました。そして、調べていくとそれもあながち間違いでもなかったようです。年譜を見てみると、塚本は1950〜60年代は3〜5年おきに歌集を出版するていどだったのが、1968年に澁澤龍彦が責任編集をしていた『血と薔薇』に評論を載せるようになり、そこから歌壇以外の一般読書界に活躍の場を広げ、出版する本の数も一気に増えていっています。
 この塚本と澁澤〜種村あたりとのつながりというのはどういうことなのか、最近その理由がわかってきた気がしました。

 澁澤〜種村がした主な仕事とは何かといえば、おそらく西洋のオカルティズムの紹介というのが大きい気がします。もちろんここでいうオカルティズムとはUFOとかスプーン曲げなどの通俗化したオカルトのことではなく、数百年にわたって秘教伝授されてきた文化としてのオカルトです。
 そしてどうも最近わかってきたことは、象徴主義というのは、どうもそういったオカルティズムと地続きらしいということです。
 それは象徴主義の詩人は何か象徴となるイメージ・言葉をとりだすときに、人間の内面の奥深くに手をさしのべて、無意識の奥からイメージ・言葉をとりだそうとします。そしてユングの心理学をみるとわかるとおり、その深層心理の領域とはオカルティズムの領域であるようです。それはおそらくオカルティズムとは人間にとっての根源的な衝動、闇への恐怖とか、自分を超えて巨大なものへの畏れとか、そういったものに形象を与えたものだからではないかとおもいます。それはいわば反理性の領域とでもいうものです。
 そもそも西洋文学をじっくりと見ていけば、そういった反理性のオカルティズムというものは理性的な文学の裏側につねに存在したものであるのがわかってきます。『ボヴァリー夫人』の作家は『聖アントワーヌの誘惑』の作家でもあるし、『ゴリオ爺さん』の作家は『セラフィタ』の作家でもあります。象徴主義の詩人もたいてい何らかのオカルティズムに親しんでいるようです。
 しかし、多分明治以来の日本の文学界というのは西洋から西洋文化の理性的な側面、『ボヴァリー夫人』や『ゴリオ爺さん』の側ばかりを輸入して取り入れようとしてきたような気がします。とうぜんそこには問題もあるわけで、そういった風潮に対して、反理性的な西洋文化を紹介したところに澁澤〜種村の仕事の意義があったのではないかとおもいます。
 そして塚本邦雄の仕事というのは、あまりにも理性的な「写実」の方法論が支配的だった日本の短歌界に、象徴主義的な手法をとりいれたことにあったのではないかとおもいます。となると、必然的にオカルティズムに接近していかなかければなりません。西洋の、あるいは日本のオカルティズムでもいいわけですが、その深みのなかから象徴をとりだしてこなければいけないことになります。
 塚本邦雄と澁澤龍彦らとのつながる部分て、そういう部分だったのではないでしょうか。

posted by aruka at 21:44| Comment(5) | TrackBack(0) | 短歌、詩など | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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